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第二十七話 使者エニグマ


翌朝。


疲労のせいだろうか、私は思いのほか深く眠ってしまっていた。

目を覚ましたきっかけは、近づいてくる軽い足音だった。


「おはよう、コード!」


部屋の入り口にリシムが立っている。


「夜の間は、何も異常なかったよ」


その声は、昨日の戦場が嘘みたいに明るかった。

私は毛布の中から片手を出し、くいくいと手招きする。


「ん?」


リシムが不思議そうに近づいてくる。

その瞬間、私は俊敏に飛びかかった。


「捕まえた」


「わっ!?」


そのままリシムを抱き締め、床にのしかかる。そしてすかさず頬ずり。


「可愛いやつめ〜」


「ちょ、コード!?」


「うりうり〜」


「キャハハハ!くすぐったい!くすぐったいよコード!」


リシムが笑う。本当に楽しそうに。

その笑い声を聞いて、少しだけ胸の奥が軽くなった。

きっと私は、癒しを求めていたのだと思う。


昨夜の記憶。スコープ越しに見たサイファーの顔。そして送還の光。

その全部を、ほんの少しだけ忘れたかった。


リシムのように小さくて可憐な少女は、今の私にとって格好のぬいぐるみ代わりだった。

もちろん、本人に言えば怒られるだろうけれど。


その時だった。

通信端末が鳴動する。


《コード、いるか?》


モノリスの声だった。


《マニシア側に動きがあった。外に来てほしい》


私は、しぶしぶリシムぬいぐるみを解放した。


「むぅ、ぬいぐるみ扱いしないでよ」


「ごめんね」


私はリシムの頭をひと撫でする。


「でも助かった」


リシムは一瞬だけ目を瞬かせ、それから少し照れたように笑った。


私は手早く身支度を整え、外へ駆け出した。

次はどんな凶報か。

そう身構えながら、私はモノリスの機体の傍へ駆けつける。


そこにいたエフが、無言で双眼鏡を差し出してくる。

私はそれを受け取り、彼女の指し示す方角へ視線を向けた。

そして、確かに判断に困る光景を見た。


マニシア軍の軽車両が一台、複数の白旗を掲げながら、こちらへ向かってきている。

速度は遅く、武装は見当たらない。乗員は三名で、確認できる範囲では、誰も武器を手にしていない。

丸腰で敵意なく、交戦意思もなさそうだ。


こういうものを何と呼ぶのか、記憶にあった。


「使者ですね」


私が言う。

ほぼ同時に、モノリスも答えた。


「使者だな」


見解は一致した。

モノリスは即座に全体通信回線を開く。


「全員に通達する」


紅い機兵の声が、陣地全体へ響く。


「あの車両を攻撃するな。乗員も無傷で迎え入れたい」


その言葉が行き渡った瞬間、戦場全体を覆っていた張り詰めた圧が、ほんの僅かに弱まった気がした。

誰もが、この白旗の意味を測りかねていた。

やがて、マニシアの軽車両は目と鼻の先で停車する。


白旗が風に揺れている。

警戒の込められた銃口が向けられるが、誰も撃たない。

車両の扉が開き、ドライバーを除く二人が降りてくる。


一人は、広域通信装置を背負った通信兵らしき人物。


そして、もう一人は――。


「……」


言葉を失った。

サイバー風の猫耳ヘッドフォン。笑顔のデジタルフェイスマスク。妙に軽い足取り。

どう見ても、まともな軍使ではない。

その不審人物は、両腕を大きく広げた。


「やぁやぁ、アーモリーの諸君!」


妙に明るい声。


「ご機嫌いかがかな?」


周囲の空気が固まる。

少女兵たちは銃を構えたまま、どう反応していいか分からずにいる。

だが、不審人物はまるで気にしない。


「いやぁ、殺気が凄いねぇ。肩凝らない?」


そう言いながら、近くの少女兵へフレンドリーに手を振る。そして、なぜかその場に跪いた。


「ほい、差し入れ」


差し出されたのは、チョコのような甘い匂いのするレーションバーだった。

当然、誰も受け取らないし、銃口は下がらない。

だが、それすらも気にした様子はない。


「これ、美味いのにな〜」


そう言って、自分で包装を破り、もぐもぐ食べ始めた。

緊張が、意味不明な方向へ揺らぐ。


次の瞬間、電子音が響き出す。

不審人物のヘッドフォンから、EDMのような音楽が流れ始める。

そして、本人は踊り出した。軽快でリズミカルに。

戦場の真ん中で一人だけがダンスフェス気分に浮かれているようだった。


「レッツダンス!Yeah!」


「……」


モノリスの表情が引き攣っている。

エフもリシムも、完全に出方を見失っている。

アーモリー兵たちは、敵意より先に困惑で固まっていた。


なんというか。

もう、やりたい放題だった。


私は深く息を吐く。

この空気にこの無茶苦茶さ。そしてこの場違いな陽気さ。


間違いない。


私は代表して、一歩前へ出ることにした。

この、困った戦友に接触するために。


「エニグマ、だよね?」


私は思わず言い淀んだ。

目の前にいるのは、サイバー風の猫耳ヘッドフォンに、笑顔のデジタルフェイスマスクを付けた、あまりにも不審な人物。

声は似ているし、振る舞いも似ている。けれど、この悪夢の中では何が本当か分からない。


「何してるの?」


一瞬だけ、確信が揺らぎそうになるが。


「うーん?」


不審人物が首を傾げる。


「おんやまぁ、コードじゃにゃいか!?」


その返しだけで疑念は吹き飛んだ。

間違いなくエニグマだ。私は小さく息を吐く。


「いつからマニシアの外交大使になったわけ?」


「そりゃあもう!」


エニグマが胸を張る。


「生まれた時から、あたいはロックだぜぇ!」


「答えになってない」


「ロックに答えを求めるな、戦友」


そう言いながら、エニグマはすっと距離を詰めてきた。

一瞬だけ。周囲からは、ただふざけて絡んでいるように見えただろう。だが、彼女の声だけが耳元で低くなる。


「今夜午前三時」


私は表情を変えないよう努める。


「この先のセクター十三防壁前で密会だ。遅れるなよ」


それだけ言うと、エニグマは何事もなかったかのように、すっと離れていった。

心臓が少しだけ強く脈打つ。

その時にはもう、私の隣にモノリスが立っていた。いつ来たのか、気配すら分からなかった。


「使者殿」


モノリスは穏やかに口を開く。


「もてなしもできない状況だが、話は誠意をもって聴かせて頂こう」


紅い機兵の乗り手に相応しい、落ち着いた声音だった。

その碧眼が、エニグマを真っ直ぐ捉える。


「さぁ、こちらへ」


こうして、防御陣地前に急遽設営されたテント内で、私たちはマニシアの使者との会談の場を持つこととなった。

飲み物すら用意されない、緊張に満ちた会談の場。薄い布一枚で仕切られた仮設テントの内側で、私たちは向かい合っていた。


マニシアの使者。

アーモリーの代表者。


その間に横たわるのは、あまりにも長く、あまりにも深い憎悪だ。

最初に口を開いたのはエニグマだった。先ほどまでのふざけた調子は、影を潜めている。


「端的に申し上げます」


声は静かで鋭利だった。


「我々マニシアは、アーモリーと全面的に一時休戦し、しかる後に停戦交渉へ進みたいと考えております」


その言葉は、予想外と言って差し支えなかった。

アーモリー側の誰もが、この使者は降伏勧告を携えて来たものだと思っていたからだ。

沈黙の中で思考が加速する。


エフが息を呑み、リシムが露骨に警戒を強める。

モノリスだけが表情を崩さずにエニグマを見据えていた。

エニグマは続ける。


「これ以上、母なるノクターンの領域において血が流れることを」

「たとえそれが宿敵アーモリーのものであろうとも、看過できない」


声に、どこか借り物ではない重みが宿っていた。


「そう、我らが総司令官は決断されました」


モノリスの碧眼に、理性の光が宿る。

彼はしばらく黙っていたが、低く答えた。


「提案の趣旨は理解した」


その静かな声の奥には、長年戦場に立ち続けた者だけが持つ重みがある。


「しかし、両陣営の確執はあまりにも深い」


モノリスは視線を落とすことなく続けた。


「休戦や停戦に反発し、このどうしようもない絶滅戦争の継続を望む者たちも、残念ながら多いだろう」


誰も反論できなかった。まさにその通りだったからだ。

5thクレイドルを焼かれたアーモリー。聖域と崇めるノクターンへ土足で踏み込まれたマニシア。

双方にとって、この戦争は既に政治や戦略だけで終わるものではなくなっている。


怨恨。信仰。復讐。死者への追悼。

それら全てが絡み合い、引き返す道を塞いでいた。


モノリスは、静かに告げる。


「我々には、落としどころが必要だ」


その声は、アーモリーの代表者としてのものだった。

同時に、戦争を終わらせたい一人の男の本心でもあった。


「停戦という急場しのぎではない、今度こそ終戦する理由に足るだけの出来事が」



リシムぬいぐるみ、ほちい。

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