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第十一話 エニグマ・コード


目が覚める。

薄暗い天井。

湿った空気。


そういえば廃墟ホテルの地下階だった。

寝心地最悪のボロマットレスの所為で背中が痛い。


埃っぽくてカビ臭い。

現実へ戻ってきたのだと、嫌でも理解させられる。

私はゆっくり上体を起こした。


ふと、視線を巡らせる。

――ブラウン管テレビがない。


あの胡散臭いテレビ。

いつの間にか、消えていた。

誰かが持ち去ったのだろうか。

あるいは、最初から存在しなかったのか。


少しだけ考えて、やめた。

エニグマ絡みで真面目に理屈を考えるだけ無駄だ。


隣のマットレスを見る。

サイファーの姿も、既に無かった。

代わりに一枚の書き置きが置かれている。

私は、それを手に取った。


《コードへ》

《俺は先にホテルを出るよ》

《戦友と同時に出たら、その場で職質か逮捕されそうな気がするしな》


思わず少し笑ってしまう。

いかにもサイファーらしい。


《あと、起きてから十分くらいで強烈な吐き気が来ると思う》

《多分、エニグマのポンコツが用意した怪しい錠剤の副作用だ》

《安心しろ。ひとしきり吐けば治る》


「安心できる要素どこ……」


思わず呟く。


《じゃあ》

《夢だけじゃなく》

《こっちの世界でも、“友人”として過ごせる日を気長に待ってる》

《サイファーより》


読み終えた瞬間。

妙に静かな気持ちになった。


戦友。悪夢。殺し合い。

そんな異常な場所で始まった関係なのに。


今はちゃんと“友人”になれた気がしていた。

その時だ、胃が、ぐるりと捻れる。


「あっ」


猛烈な吐き気。


「エニグマぁぁぁぁぁッ!!」



帰宅した瞬間。

私は、両親に酷く怒られた。


当然だった。

時計は、深夜を回っていたのだ。

母は泣きそうな顔をしていたし。

父は怒鳴りこそしないものの、明らかに限界まで張り詰めていた。


「警察に電話する寸前だったんだぞ!」

「連絡くらいしなさい!!」


矢継ぎ早に飛んでくる言葉。

私は、ただ俯いて聞くしかなかった。


スマホを失くした。


そう伝えた瞬間。

更に空気が悪化する。

GPSで割り出された最後の位置情報。

そこは商店街裏の、人気のない路地奥だったらしい。


「そこで何をしていたの?」

「誰と会ってたの?」

「危ない人間じゃないんだろうな?」


質問が、突き刺さる。

私は堪らず嘘をついた。

適当な言い訳を並べる。


友達といた。道に迷った。体調が悪かった。

誤魔化す。取り繕う。

嘘に、また嘘を重ねる。


本当のことなんて、言えるはずがない。


悪夢の闘技場で。

血塗れになりながら。

一緒に戦った戦友たちのことを。


エニグマのことを。

サイファーとの約束を。


誰にも壊されたくなかった。

だから私は必死だった。



その夜。

私は、眠れずにいた。

現実はあまりに静かすぎた。


エニグマの太刀筋。

サイファーの大剣捌き。

あの闘技場の轟音。


怒号。血飛沫。歓声。

それらが、瞼の裏で何度も反芻される。


脳がまだ戦場にいるのだろう。

現実の静寂へ、適応できない。


私は、天井を見つめながら思う。

こんな静かな寝床。

私の生きてきた世界には、存在しなかった。


あったのは、飽くなき戦い。

幾重もの死線。終わらない悪夢。

息をつく暇もない激戦だけ。


そして私は、その中でこそ生きていた。

頭脳は冴え渡り。

剣技は研ぎ澄まされ。

生存本能は燃え上がる。


戦場の中でだけ。

私は、私らしくいられた。


なのに今ここにあるのは何だろうか。

静かで、穏やかで、寂しくて、孤独な世界。

戦友のいない現実。

そんな場所が本当に、私の居場所なのだろうか。


――否。


そこまで考えた瞬間。

私の行動は、早かった。


暗闇の中、ノートパソコンを開く。

画面の光が、部屋を青白く照らした。

検索欄へ指を置く。

打ち込むべき言葉は、自然と浮かんでいた。


《エニグマ・コード》


迷いなく、検索する。


そして表示件数が最も少ない。

最も古いサイト順へソート。


出てきたのは――


ブラウン管テレビ頭の少女が。

満面の笑みでブラウン管テレビを売り込んでいる画像。

それが、やたら大きく貼られた、投稿数わずか三件の。

何の変哲もない、雑談掲示板だった。


私は、掲示板の書き込みへ目を通す。


《コード、お前を呼んでいる》

《エニグマは、新しいコードに飢えている》

《エニグマを解読できるコードは、お前だけだ》


三件。それだけ。

投稿日時は、三年以上前。

普通なら、過疎掲示板の気味の悪い遊びで終わる話だ。


だが何故だろう。

私は直感していた。

これは、“全部”じゃない。

この掲示板には、もっと別の役割がある。

もっと深い何かが沈んでいる。

そんな気がしてならなかった。


私は、キーボードへ指を置く。

今から返信を書く私は、相当な酔狂者だろう。

しかし、もう止まれなかった。


打ち込む。


《エニグマ、コードが目覚めたよ》

《コードは、そっちへ戻りたくて仕方がない》

《我が戦友たるエニグマよ》


少しだけ、笑ってしまう。


《コードが辿るべき道を示し給え》


送信。


その瞬間だった。

返信が来る。

一秒も経っていない。


《エニグマは、新しい戦友にコードを見つけた》

《このコードは、きっと私を解読できるかもしれない》

《位置情報にて、コードの帰りを待つ》


背筋が、ぞくりとした。

それと同時にスマホが鳴る。


通知音。匿名SMS。添付された位置情報。

その下に、一文。


《エニグマ・コード》


一拍遅れて。


《ただしサイファーを添える》


思わず吹き出しかけた。

最後まで、あの女らしい。


その時点で。私の目的は、もう決まっていた。



翌朝なんて、待てなかった。

最低限の荷物だけを掴み。

私は、家を抜け出した。


深夜三時三十五分。


住宅街は静まり返っている。

街灯だけが、白々しく道を照らしていた。

なのに、不思議と気分は軽かった。


まるで保育園の遠足前夜みたいに。

胸が高鳴っている。


位置情報が示す地点まで、直線距離で約四百メートル。

私は早足で夜道を進む。

そして、街路を一つ曲がった瞬間。


誰かとぶつかった。


「――っ、すみま」


謝りかけて。

違和感に気づく。


「よぉ」


男が片手を上げる。


「俺だよ、サイファー」


純粋な驚きが込み上げた。


「サイファー!? どうしてこんなところに、こんな時間に?」


「そりゃお互い様だろーが」


呆れたように肩を竦める。


「エニグマ様から、お姫様のエスコートを依頼された騎士様が俺ってワケ」


「……あっそう」


私は頷く。


「今急いでるから、また後でね」


「待て待て待て!!」


サイファーが慌てて追いすがる。


「ちゃんと案内するってば!」


そんなやり取りをしながら。

私たちは夜道を進んだ。


住宅街を抜け、人気が減る。

やがて視界が開けた。


真夜中の田園地帯。

風だけが吹いている。


その中央に。

一台の黒塗りのワゴンカーが停まっていた。


妙に目立たない。なのに。

存在感だけは、異様だった。



「待たせたな戦友!」ズザァァァ!バッ!くるり、ドヤァァ!(ヘッドスライディングスタンディングアップ見返り美人決め台詞のダイナミズムに自己陶酔するエニグマの図) 「......そんなことばっかりやってるから、すぐにお腹空くんだよ」

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