第五話
セイはアブラハムの発砲を待っていた。
アブラハムの持つ拳銃は先込め式だ。一発撃てば次の装填には熟練の兵士でも数秒はかかる。
つまり初弾で即死さえしなければ差し違えることは十分可能だ。
セイとて何度か海賊に襲われたことがある。人の命を奪ったこともある。ほとんどは海に突き落とすだけで事足りた。相手もろとも一緒に海に落ちることもあった。セイは平気だが相手はそうはいかない。何度か、数える程ではあるが人の命を奪ったことはある。
最初は自分が人を手にかけた事実を受け止めきれず、恐ろしくて眠ることもできなかった。
しかし波を少しかぶるだけでいともたやすく人が死ぬ光景を何度も、数えきれないほど見て来た。いつしか人の命が尊いという概念そのものが薄れ、曖昧にぼやけ、麻痺していった。本当に人が尊い存在なら、生命が価値あるものなら、こんなにも簡単に失われていくものなのか、と。
セイはふと笑みをこぼした。
母の犠牲の上に生まれ、父親代わりの船長を死なせ、仲間に捨てられた自分が、さきほど会ったばかりの少女のために命を賭けようとしているのが可笑しく思えてしかたなかった。
だがソレイユにはそうするだけの価値がある。自分の命を捨てても惜しくないほどの価値が。
彼女を守るためなら自分の命などひとかけらも惜しいと思わない。人を殺すことも同様だ。どうせ既に何人も命を奪ってきたのだ。奪う命がもう一つ増えたところでたいした違いはない。ああ、こうして考えると、自分は本当に影の子、心が穢れているのかもしれない。
だがそれでもよかった。
ソレイユだけは守る。これだけは殺されても、地獄に堕とされたとしても絶対に譲れない。
一方、アブラハムも撃つことができずにいた。
人を撃つことが怖いわけではない。これまで何度も逆らう影の子を撃って、殺してきた。
しかし目の前にいるセイという少年は今までの影の子とは違う。自分と心中する気でいるのは目を見ればわかる。
なんということだ。この小僧を利用しようとしたのが間違いだった。
アブラハムは後悔していた。
これまで影の子とされてきたのは子供ばかりだった。男児は労働用に酷使し、力尽きれば捨て、反抗すれば殺してきた。
女児はちょうど良い慰みものにしてきた。幽閉し、お前は罪深い存在なのだと言い聞かせ、アブラハムの施す“特別な洗礼”を受け入れるよう甘い言葉を囁いた。そうすれば穢れが払われる、赦されるのだと。
洗脳というほど大げさなものではない。所詮はただのガキだ。罪悪感という名のムチで打ち、救いという名のアメを与えるだけでいい。
何人もの女児を手懐け、味わい、捨ててきた。妊娠したところで腹を強く押し、殴れば大抵は堕胎する。出産に至ったところで幼い体だ。衰弱しきってそのまま息絶えるか、生き延びるなら飽きるまで再利用すればいい。あるいは他の男児と同じように殺し、捨てるだけた。特別なことではない。白の教会の幹部や権力者なら誰でもやっていることだ。アブラハムだけでなく先代の司祭もそのまた先代も、皆がやってきたことだ。わずかな陸を統べる者は他の何者にも代え難い権力を持つ。陸に住まわせてやっている住民たちから見返りを与えられるのは当然のことだろう。まして穢れた影の子など誰も必要としない。どう扱おうと文句を言う者はいない。
しかしソレイユだけは違った。この美しくも忌々しい娘はアブラハムを受け入れることはなかった。自分は卑しく穢れた存在だと認め、延々と儀式という名の拷問を受け入れ続けてきたのだ。自分には特別な洗礼を授かる資格はない、と。視力を奪われてもなお、ソレイユが目先の救いに飛びつくことはなかった。
いっそ力づくで、と思わないでもなかったが、それは長年島の最高権力者として、教会の幹部として特別な地位と権威をふりかざしてきたアブラハムの存在異議そのものを自ら否定することになる。教会の、光の教えの威光で屈服させなければ意味がないのだ。私若い娘を力づくで乱暴するような野蛮な男どもとは違うのだ。
その結果、ソレイユは美しく成長した。しかしまだ手に入れることができない。ソレイユの美しさが余計にアブラハムを苛立たせた。
そして今、セイという小僧との短い逢瀬が二人の心を通わせつつある。
私が何年も手に入れることがかなわなかったというのに、この小僧は半時もしないうちにソレイユとこれ以上なく距離を縮めたのだ!
忌々しい。なんと忌々しいことだ! しかもこの二人を引き合わせたのが私自身だとは!
アブラハムの思惑はセイが指摘した通り古典的でよくある手口だった。セイがソレイユを刺したあと、暴漢としてセイを射殺してソレイユを救い出す。まるで白馬の王子様のように。
罪悪感というムチが効かぬのなら、死の恐怖という、より強いムチを与えてやればよい。それは命を救ってやったという、より強いアメに変じる。
だがセイという忌々しい小僧には死というムチさえも効がない。そればかりかこの私を殺そうとすらしている!
忌々しい。忌々しいことこの上ない! 影の子め! 穢らわしき呪われたものの分際で! 卑しき船乗りめ。陸に在むこともできない貧しきはみだし者めが! 私を、島の者どもを率いる高貴な司祭たるこの私を殺そうとするだと!? 光の名のもとに呪われるがいい!
だが、発砲すればセイは間違いなくとびかかり、アブラハムが自ら渡した短剣が彼自身に振るわれる。アブラハムは軍人ではない。銃の訓練などしたこともない。これまで何度か銃を撃ったことはあるが、相手は常に赦しを乞い、命乞いをする無抵抗な子供だった。一発で仕留めることができなかったとしても至近距離で当てさえすればとどめは短剣でも使うか他の影の子に始末させればよかった。
一発でセイを即死させる自信はない。
その時、アブラハムは背後に足音を聞いた。
「残念だな。セイ。私の勝ちのようだ」
アブラハムの背後から黒い仮面の男があらわれた。仮面には教会のシンボルである白い玉と黒い螺旋が描かれ、背丈を超える程の湾刀を背負っている。
「灯火の子よ、いいところに来てくれた。この小僧は背教徒だ。殺せ!」
アブラハムは男に命じた。
「だが後ろの娘は殺すな。私が“洗礼”してやらねばならんからな」
男は音をたてることなく湾刀を抜いた。刀身は真っ黒に染まっている。
この男は強い。
セイは自分と男との力量を直観で見抜いていた。
男が湾刀を抜くときにまったく音がしなかった。それは鞘と刀身が一切触れ合わなかったことを意味する。つまり無駄な力が一切なく、刀を抜くために必要最小限の力だけで抜いたのだ。それは想像を絶する程に数多く刀を扱い続けてきたからに他ならない。まるで息をするのと同じように。
だらりと無造作に湾刀を持っているが、男がその気になれば瞬時にセイの首と胴を切り離すことができるだろう。痛みを感じる暇すらない。
間違いない。この男は強い。セイのようになりゆきで何度か人を殺した程度ではない。人を殺し慣れている。
「くそ……!」
「どうしたの、セイ。誰が来たの!?」
アブラハムは男の後ろに隠れるように下がる。
「灯火の子だよソレイユ。何度か話したことがあったろう? 光の御意思を遂行するための精鋭部隊だ。普段は教皇猊下のもとにいるはずだが、実にいいところに来てくれた!」
絶体絶命だ。
セイとアブラハムだけなら相打ちも十分狙えたが、この男がいると望みは皆無だ。
セイが命懸けで注意を引き付けてソレイユを逃がすというのも無理だ。塔の最上階で逃げ道がない上にソレイユは目が見えない。それに仮面の男がそれを許すとも思えない。
ソレイユがセイの肩をぎゅっと掴む。
セイは何も言えなかった。代わりに肩に置かれた彼女手をそっと握るしかできなかった。
声をかけてソレイユの不安を少しでもやわらげたかったが、思い浮かぶ言葉は何もかも絶望的なものばかりだった。
そこまで考えて、セイはふと自分自身を疑問に思った。どうして今日はじめて会ったばかりのソレイユのためにそこまでするんだ。自分でも分からない。でも、そうせずにはいられないのだ。
仮面の男がくぐもった声で一言呟いた。
「役に立つこともあるものだ」
セイも、ソレイユも、アブラハムもその言葉の意味するところが理解できなかった。
直後、轟音が響き塔全体が大きく揺れ、煙が部屋全体に充満した。セイは咄嗟にソレイユに覆いかぶさった。一拍遅れて叩きつけるような衝撃波が全身を叩きつける。背中に細かな石片が何度もあたった。
どうしてここまでするんだろう。分からないが、咄嗟に体が動いたのだ。
ソレイユを守りたい。そう思ったから。