【Episode:K×K】 第八章 偽愛の雪解け
Episode:KING Chess × KING Spade
───ドツン!! と音を立てて世界が揺れた。
絶望と暗い記憶に完全に飲み込まれたリズの体内から、制御を失った《闇火》の魔力が爆発的に噴出し、密会のために整えられていた図書館の一角を破壊し、フレデリックの屈強な体躯をも容赦なく吹き飛ばした。
半径数十メートルを呑み込む赤黒い滅消の炎が壁のように吹き荒れ、崩れ落ちた床は侵食する闇の沼へと変貌していく。
血を吐くような絶叫とともに、暴走する悪魔の炎が周囲のすべてを焼き尽くそうと猛威を振るう――。
しかしその最中も、聖属性の防衛罠は苛烈に働き続け、放たれる白銀の光線が悪魔であるリズの皮膚を容赦なく焼き焦がしていた。
「あぁぁぁッ……あぁっ……!」
肉体を削り取るような激痛と、全身を縛り上げる「聖なる気」への激しい拒絶反応。
リズは絶叫しながら、死に物狂いで本能のままに魔力を爆発させ続けた。赤黒い《闇火》が狂乱のまま暴れ回り、足元に埋没していた聖遺物の罠を強引に粉砕する。
パリンッとガラスが割れるような甲高い音とともに、罠の呪縛からは解放されたものの、払った代償はあまりにも大きかった。
鎖が絡みついていた皮膚は惨めに灼け焦げ、感情のままに噴出させていた《闇火》の魔力も完全に底をついている。元より高燃費な彼女の身体は完全な枯渇状態に陥り、暴走の果てに傷ついた黒い翼もボロボロに引き裂かれていた。
だが、肉体の損傷以上にリズの心を苛んでいたのは――脳裏を支配する絶望と錯乱だった。
(罠……だった……対魔族用の……フレデリックが……仕掛けた……?)
指揮杖から放たれた解析パルスが罠を起動させてしまったのは事実だが、それは完全な誤作動だった。フレデリック自身、この廃墟の地下深くに大戦時の遺物が眠っていたことなど露ほども知らなかったのだ。知っていれば、いくら焦りがあったとはいえ強引なスキャンなど決行するはずがなかった。
しかし、過去のトラウマでパニックに陥ったリズに、それが誤解であると理解する余地など残されてはいなかった。
視界を染める白銀の光の奥で、自分を見下ろしていた軍服の男。
最初から自分を利用するためだけに近づいてきた、あの冷徹な先導者の瞳――。
魔力が尽き、瓦礫が音を立てて崩れ落ちる中心で、リズはただ虚ろにぺたりと座り込んでいた。
─────────
───ガラガラッ……と、崩れた書架の山を押し退け、フレデリックが起き上がる。
背中から壁へと激突した衝撃で、いつも身綺麗に着こなされていた軍服は埃に塗れて擦り切れ、額からは流血が頬を伝っていた。
打ち付けた激痛に顔を歪めながらも、彼が何よりも先に直視したのは――吹き荒れた闇火の爆風で壊滅した図書館の中心、立ち上る黒煙の中で膝を折り座り込むリズの姿だった。
(……生きている……無事だった……)
冷徹な分析官としての打算も、軍人としての余裕もすべてが吹き飛び、ただリズが無事であったという事実だけに胸を撫で下ろしたフレデリックは、割れた金縁の眼鏡を乱暴に引っ剥がすと、かすれた声を絞り出して彼女へ歩み寄った。
「……リズ……っ」
その切なげな呼び声に、ボロボロに焼け焦げた小さな身体を小さく震わせ、リズがゆっくりと顔を上げる。
だが、そこに浮かんでいたのは、かつての甘い熱や無邪気な笑顔の面影など微塵もない――絶望に濡れ、怯え切った悲しみを宿した紫の瞳だった。
「っ……!」
自分を直視することすら拒むように恐怖に引き攣ったリズの紫色の瞳を見た瞬間、フレデリックは息を呑み、喉の奥から出かかった言葉を完全に失った。
なんと声をかけるのが正解か、そんな事を考えて言葉を選ぼうとしていた間にも、リズの瞳からはポロポロと涙が溢れだし、焦げた頬を痛々しく伝い落ちる。
そしてフラフラと立ち上がる。自力で立ち上がるのさえギリギリな状態――見るからに明らかなのに、彼女を動かしているのは「フレデリックに嫌われた」「用済みになって捨てられる」という、狂おしいまでの恐怖と絶望による逃走本能だった。
過去の銀の鎖の記憶と今の誤解が混濁し、壊れかけた思考のまま、リズは自らの背から伸びる傷つき折れかけた黒い悪魔の翼を強引に展開した。
悲鳴のような翼撃ちの音とともに、いつの間にか降り出した雪が舞い込む壊れた天井の隙間へ向かって、ボロボロの身体を無理やり跳ね上がらせる。
「リズ!? 待て! そんな傷でどこに行く気だ……っ!」
フレデリックが焦燥に満ちた叫びを上げ、崩れた瓦礫を蹴って手を伸ばす。
だが、差し出されたその手すらも、錯乱したリズには「自分を処分のために捕らえにくる手」にしか見えなかった。
「……っ! もう、やだ……追いかけてこないで……っ!」
血と焦熱の残香を振り撒きながら、リズの影は大粒の雪が静かに降り出した夜空へと飛び去っていく。
ふらふらと高度を保てず、魔力の欠片もないその翼は今にも墜落しそうな悲壮な羽ばたきで、崩壊した旧市街の廃墟群の中へと消えていく。
「くそっ!───リズッ!!」
フレデリックは埃を含んで重たい防寒用の外套を乱暴に投げ捨て、雪の降り始めた廃墟群へと全力で駆け出した。
――もしあの傷ついた状態で、彼女がアヴァルの待つイデアル帝国へと逃げ帰ったらどうなる?
聖鎖の痕刻を刻まれ、壊された心で戻った《スペードのキング》を見れば、あの残虐な皇帝は好奇とばかりに即座に政治的制裁という表向きは平和な侵攻へと舵を切るだろう。
───違う、違う、違う!! そんなことはどうでもいい!!
現実逃避とも言える、脳裏を駆け巡る最悪の試算。リズが傷付き、自分自身へと恐怖の目を向けて逃げ出した――そんな土壇場に至ってまで、こんな冷徹な損得勘定を弾き出している自分に、強烈な吐き気がした。
頭脳の中を駆け巡っていた冷徹な計算も、軍の最高指導者としての立場も、すべてを自分自身の「身勝手なエゴ」を隠すための言い訳に使っていただけだ。
ハニートラップにかかった愚かな悪魔――ずっとそう蔑み、手玉に取っているつもりでいた。
だが、違った。
罠に落とされていたのは、心を奪われていたのは、気付けば自分の方だったのだ。
打算を超えた彼女の無垢な愛しさに毒され、とっくに手放せなくなっていた自分の醜い独占欲を、愛してしまったという事実を、フレデリックはようやく認めた。
このまま手の届かないところへと逃がせば、二度と彼女は俺の元へ姿を見せることはないという確信。リズを失う……喉の奥が焼き切れるほど激しい動悸。
自分自身の身勝手な傲慢さが、自身の軽率なスキャンが、あの無垢で無防備な少女の心をどれほど残酷に踏みにじり、地獄に突き落としてしまったのか。
痛々しい程健気に、時折悲しげな紫を浮かべ、偽りの愛情と理解している様子さえ見せて、それでも頬を綻ばせて膝に乗り、身を寄せていた可愛らしい少女のような悪魔。
(アヴァルの元へなど絶対に帰さない……あんな顔を最後に、俺の前から消えないでくれ……!! 俺が、俺の手で彼女を壊してなるものか……!)
雪降る夜空を見上げ、フラフラと低空を飛んでいた小さな影が墜落したであろう行方を追い、男は冷たい雪と、その雪がぐしゃりと地熱で溶ける重い泥を跳ね飛ばして、狂おしい思いで夜の闇へと飛び込んでいった。
─────────
降雪が激しさを増し、旧市街の泥と混じり、瓦礫を濡らして白く染めていく。
「ハっ……カハッ……っ……!」
崩れかけた廃工場の片隅、重く溶け出す雪溜まりの中にリズは力尽きて倒れ込んでいた。
背の翼は半ば折れ曲がり、聖属性の罠に焼かれた皮膚からは未だ痛々しい煙が上がっている。
万年空腹の胃袋は悲鳴すら上げられず、魔力は指先ひとつ動かすことすら辛いほど底をついていた。
全身を襲う激痛。けれど、それ以上に胸の奥を抉るのは、冷たく酷く痛む絶望の記憶だった。
(……やっぱり、ワタシなんか……どこにもいちゃいけない子なんだ……)
人間からの汚い拒絶、銀の鎖の熱、お姉様たちの冷たい罵倒。
そして――自分に優しく微笑み、精気と食べ物を与え、抱きしめてくれたあの男の顔。
(フレデリック……ワタシ、ちゃんと役に立とうとしたよ……? アヴァル様に怒られてもいいやって……お話、いっぱいしたよ……? なんで……なんで処分しようとするの……?)
冷えた身体に降り積み、体温で溶けて伝い落ちる雪と混ざり合った涙が目元から溢れ出る。
「害獣」「不要物」として捨てられる恐怖。
自分を偽りの甘やかしで満たしてくれた男に拒絶されたという現実が、リズの細い心を完全に打ち砕いていた。
「……見つけた」
掠れた、だが切迫した声が静かに積もる雪の音を裂いた。
リズがびくりと肩を震わせ、霞む視界を巡らせる。
そこに立っていたのは、軍服を泥と雪で濡らし、肩で激しく息を吐くフレデリックだった。
「……っ! 来ないで……っ!」
リズは残された力を振り絞り、絶望と諦めの深く重い悲しみに染まった紫の瞳を向けながら、這いずって必死に後ずさった。
指先に枯渇する魔力をかき集め、リズが得意とする消滅壁の防衛魔法を発動させる。煉獄の炎を練り上げた闇と火魔法の合わせ技であり、本来ならば赤黒くすべてを呑み込む驚異の炎壁だ。
しかし、今の彼女の周りを囲うそれは、かつての面影すら無い。弱々しい赤黒い火花がパチパチと弾けているだけで、触れずとも魔力の枯渇がひと目で判るほどに頼りないものだった。
「ワタシ……もう、精気いらないから……フレデリックの邪魔になることしないから……アヴァル様のところにも帰らないから……何もしないから、怖いことしないで……もう、やだ……やめて……」
その痛々しい懇願の声を浴びた瞬間、フレデリックの胸に刃が突き刺さったかのような激痛が走った。
(俺が……俺が彼女を傷付け、ここまで追い詰めた……浅はかな打算と、身勝手なエゴのせいで……っ!)
「……リズ、落ち着け。何もしない……」
フレデリックは、静かな声で告げると、自身が纏っていた軍服の上着を雪の積もる地面へ無造作に脱ぎ捨てた。
コントラタックの役職者たちが着用する軍服は、ナノ繊維で織られた科学の結晶であり、対魔術耐性を極限まで高められた特別製――本来の力で放たれるリズの《闇火》の熱気すら一定時間遮断するほどの防御装備だ。
だが、彼はその鎧でもある上着をかなぐり捨て、シャツ一枚になった無防備な軽装で、リズの周囲を漂う過剰防衛の赤黒い滅消壁の炎――本来であれば触れれば一瞬で肉体を焼き切るはずの《闇火》の残光――その中へ、躊躇なく一歩を踏み出した。
「ッ……フレデリック……?え、やだ、待って、危な――」
ジュッ、と肉の焼ける凄惨な音が響く。
露出した腕や胸の皮膚が赤黒い炎に侵食され、血が噴き出す。
だが、彼は顔色一つ変えず、痛みで眉を寄せることすら拒むように、一歩、また一歩とリズへ歩み寄る。
「フレデリック……!? なんで……なんで入ってくるのっ!? 死んじゃうよ……っ!?」
「黙れ……っ!」
フレデリックは崩れ落ちるように膝をつくと、リズの傷ついた身体を力任せに引き寄せ、そのまま壊れ物を包み込むように強く、強く抱きしめた。
魔力枯渇と雪で冷えた体温と、フレデリックの血と焼けた肉の匂いが混ざり合う。冷たい雪降る夜気の中、彼から伝わってくるのは自分を焼き切ろうとする敵意でも、冷酷な計算でもない。
狂おしいほどの熱量と、狂気すら孕んだ「失うことへの恐怖」だった。
動揺で消滅壁を消すのが遅れたリズは、腕の中に捕らえられ、自らを抱く男の端正な顔立ちやシャツを伝って血が滴り落ちていることに気付く。
「血、が………フレデリック、怪我してる……!」
「怪我をしているのはお前だ、馬鹿……! この期に及んで……俺の心配より、優先することくらい他にあるだろう……」
耳元で、フレデリックが呻くように吐き捨てた。吐き捨てた後、窄むように語気が弱くなり、ボロボロのリズの身体を労わることすら忘れ、己の身体が痛むのも構わずに強く腕の中に閉じ込めていた。
あの冷静沈着で、常に計算高く不敵だった男が、震えながら泣いている気がして、リズは息を呑む。
「……聞いてくれ、リズ。あの鎖は、俺が仕掛けたものじゃない。お前を傷つけるつもりなどなかった……。だが、俺のミスだ。俺がお前をもっと知りたいと焦るあまり、地下層に残っていた大戦の遺物を警戒しきれず、スキャンのパルスを流してしまった所為で起動させてしまった……。すべて事故なんだ……」
「……事故……?」
フレデリックは血の滲む手でリズの顎を強引に持ち上げ、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
愛用の眼鏡が破損した素顔、むき出しとなった瞳には、冷徹な分析官の面影など微塵もない。ただ一人の男として、彼女を失うことに絶望し、必死にすがりつく剥き出しの感情だけが存在していた。
「でも……フレデリックがワタシを利用しようとしてたのは知ってーー」
「ああそうだ! 最初は利用するつもりだったさ! お前を骨抜きにし、あのアヴァルの手足をもぎ取るためのハニートラップのつもりだった!」
どれだけ隠そうと、あるいはこれまで纏っていた冷徹な仮面を剥ぎ取られたかのように、フレデリックの言葉遣いは完全に荒れていた。隠していた最悪の「打算」を、フレデリックは自らの口ですべて吐き出した。
逃げ場をなくすようにリズの背中に腕を回し、肉体の痛みを無視してさらに強く抱きすくめる。
「だが、もう手遅れなんだよ……! お前の無邪気さに、お前の純粋さに、俺の方が完全に毒された……! 打算も、計算も、すべて破綻した! 今の俺にとって、お前のいない世界など何の意味もない!!」
「フレ、デリック……」
「お前が何かを恐れているのは分かってる、俺が知らない何かに、誰かに傷付けられたのには正直殺したいほどに腹が立つ!が、俺がお前を遠ざける理由にはならない、関係ない。お前を拒絶する奴らがいるなら、この俺が全員叩き潰してやる。……だから、俺から、逃げるな……リズ……頼むから……」
叫び終え、懇願じみた言葉を紡ぎ終えると同時に、フレデリックはリズの血の気が引いている唇を強引に塞いだ。
「――んっ……!?」
重なる唇から、喉奥へとなだれ込んでくるのは、冷たい雪や痛みを一瞬で吹き飛ばすほどの濃密で、狂おしいほどの命の熱量――何度も夢中になって吸い付いた彼自身の極上の精気だった。
生々しい傷口を塞ぎ、枯渇した魔力を満たしていく、冷え切ったリズの魂を内側から焼き直していくような圧倒的な生命力の濁流。
「んぅ……っ、ぁ……っ、フレ、デリック……」
精気とともに流れ込んでくるのは、男の偽りのない「本心」だった。利用しようとした罪悪感、彼女を傷つけたことへの激しい後悔、そして――何があっても彼女を手放さないという、狂気にも似た絶対的な愛。
(……あぁ……ワタシ……捨てられて、なかった……っ)
狂乱していたリズの瞳から絶望の紫が薄れ、サキュバス本来の鮮やかな赤の色彩を取り戻していく。
リズは未だに焦げ痕の残る腕をフレデリックの背中に回し、彼の胸に顔を埋めて、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
「っ、う、うぇぇ……うああぁぁぁんっ! 怖かったっす……っ! 嫌われたかと思ったよぉぉっ……!」
「……すまない。こんな俺だが、側にいてくれ……お前が笑える場所で、俺を側に置かせてくれ……」
雪の降り積もる廃市街の片隅、朽ち果てた廃工場の跡地。
泥と血と雪に濡れながら、二人はお互いの体温を確かめ合うように深く、固く抱き合い続けた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
冷徹な筈だった堅物が己が策に溺れて、愛情に飢えた悪魔に絆される。束の間の幸せを…。
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