第四部 執行官セレス ―前編―
救済とは何か。
傷を癒やすことか。
苦しみを取り除くことか。
それとも――
人間から、苦しむ権利そのものを奪うことか。
長い歴史の中で、人々は何度もその答えを求めた。
そしてカオティック・ニルヴァーナの支配者たちは、一つの答えを選んだ。
自由な人間より、管理された人間の方が幸福である。
その思想を具現化した存在。
それが――終焉塔直属執行官だった。
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礼拝堂は、黒い魔法陣に包まれていた。
床に刻まれた紋様は、まるで生き物のように脈動している。
黒い光が壁を這い、空気そのものが重くなる。
普通の人間なら立っているだけで意識を失うほどの圧力。
しかし。
アークは立っていた。
手にした聖遺物が、淡い光を放っている。
「不思議ですね。」
執行官セレスは静かに言った。
「あなたは恐怖している。」
「ですが、逃げない。」
「なぜです?」
アークは答える。
「知らないからだ。」
「……?」
「この街が何を正しいと言っているのか。」
「お前たちが何を守ろうとしているのか。」
「まだ俺には分からない。」
アークは杖を握り直した。
「でも、一つだけ分かる。」
「人から考えることを奪う世界は、間違っている。」
セレスはしばらく黙った。
そして。
小さく笑った。
「やはり。」
「あなたは危険です。」
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次の瞬間。
セレスの背後に巨大な輪が出現した。
金属でもなく、魔法でもない。
黒い文字列が無数に回転する、異質な装置。
リシェルが顔色を変える。
「《審判輪》……。」
「知っているのか?」
アークが聞く。
リシェルは唇を噛む。
「あれは……人間の罪を測るためのもの。」
「罪?」
「違う。」
彼女は首を振った。
「正確には――」
「管理者が罪だと判断したものを、罪にする道具。」
セレスは穏やかな表情のまま手を掲げた。
「測定開始。」
輪が回転する。
無数の文字がアークの周囲を走る。
『対象解析。』
『思想傾向確認。』
『命令遵守率……低。』
『疑問保持率……極端に高い。』
『教育レヴェル……』
一瞬。
文字が止まった。
『測定不能。』
セレスの目がわずかに細くなる。
「やはり。」
「あなたには数値が存在しない。」
アークは眉をひそめる。
「それが何だ。」
「恐ろしいことです。」
セレスは淡々と答えた。
「この世界では、数値を持たない者は存在できません。」
「人間は分類されることで、初めて保護される。」
「能力。」
「思想。」
「感情。」
「すべてが管理されるからこそ、争いは消える。」
アークは言葉を失う。
彼女は狂っている。
だが、単純な悪ではない。
彼女は本当に信じている。
この世界を救っているのだと。
「あなたは理解していない。」
セレスは続ける。
「自由とは、苦しむ権利です。」
「選択とは、間違える権利です。」
「人間は愚かだから、管理されなければ滅びます。」
アークは静かに答えた。
「だったら。」
「人間じゃなくなる。」
その瞬間。
セレスの表情から、初めて感情が消えた。
「……残念です。」
「あなたには教育が必要ですね。」
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黒い光が爆発する。
ヴァルトが大剣で受け止める。
ギィィィィン!
衝撃波が礼拝堂を揺らした。
「おいおい。」
ヴァルトが苦笑する。
「女相手に三人がかりってのは趣味じゃねぇんだが。」
「余裕を言っている場合じゃない。」
リシェルが杖を構える。
「彼女は一人で都市軍団と戦える。」
「へぇ。」
ヴァルトは笑った。
「そりゃ面白ぇ。」
セレスは二人を見る。
「あなたたちも理解できない。」
「なぜ、苦しむ未来を選ぶのですか?」
「なぜ、幸福を拒むのですか?」
リシェルが答える。
「それは幸福じゃない。」
「檻の中で眠っているだけ。」
セレスは悲しそうに目を伏せた。
「……あなたも、失敗した人間なのですね。」
その言葉に。
リシェルの表情が変わった。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
怒りと悲しみが混ざった顔。
アークは見逃さなかった。
「リシェル。」
彼女は答えない。
だが、その反応だけで分かった。
彼女は。
この街の過去を知っている。
そして、教育レヴェルという制度と、深い関係がある。
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戦場となった礼拝堂。
黒い力と白い光がぶつかり合う。
支配の力。
救済の力。
二つの思想が激突する中。
アークの持つ《ケアル》が、突然強く輝いた。
そして。
杖から、誰かの声が聞こえた。
――やっと見つけた。
アークの動きが止まる。
知らない声。
しかし。
なぜか懐かしい。
――最後の一人。
――あなたが、四人目だ。
その瞬間。
礼拝堂の奥にあった壁画が、大きな音を立てて崩れた。
削り取られていた四人目の顔。
そこに、新たな文字が浮かび上がる。
アーク。
そしてセレスは初めて、明確な恐怖を見せた。
「……ありえない。」
「始まりの四人は……」
「もう存在しないはずなのに。」
終焉塔ジェノヴァの歯車が、さらに速く回り始める。
世界は、失われた伝説を再び呼び覚ましていた。




