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第三部 聖遺物ケアル ―前編―



 この世界には、二つの力しか存在しない。


 一つは、人を従わせる力。


 もう一つは、人を救う力。


 前者は歴史に刻まれ、後者は歴史から消された。


 ――『失われた浄典』序章


---


 夜明け前。


 礼拝堂には、誰一人眠る者はいなかった。


 昨夜の襲撃で壁は崩れ、床にはまだ乾ききらない血痕が残っている。


 誰もが、空に浮かぶ巨大な眼を恐れていた。


 アークだけは違った。


 彼は礼拝堂の窓辺に立ち、終焉塔ジェノヴァを見つめていた。


 あの塔が動き始めてから、胸の奥が妙にざわつく。


 まるで、自分の心臓と塔が同じ鼓動を刻んでいるかのように。


「眠れなかった?」


 後ろからリシェルの声がした。


 両手には湯気の立つ木のカップを二つ持っている。


「薬草茶よ。」


「ありがとう。」


 アークは受け取ると、一口飲んだ。


 苦い。


 しかし、不思議と頭が冴えていく。


 リシェルは窓の外を眺めながら言った。


「昨日のこと、覚えてる?」


「教育レヴェル測定のことか。」


「違う。」


 彼女はアークを真っ直ぐ見つめた。


「空の眼が、あなただけを見ていた。」


 その言葉に、アークは黙り込む。


「正直に答えて。」


「あなた、本当に何も知らないの?」


「知らない。」


 迷いなく答えた。


「俺は師匠に『この街へ行け』と言われただけだ。」


「師匠は何て?」


 アークはしばらく考え、静かに口を開く。


「『世界を救いたければ、まず世界がどれほど壊れているかを知れ』って。」


 リシェルは小さく息を吐いた。


「……その人、変わってる。」


「よく言われた。」


 二人は少しだけ笑った。


 その束の間の穏やかな時間を破るように、礼拝堂の扉が勢いよく開く。


「おーい!」


 ヴァルトだった。


 相変わらず黒い大剣を肩に担ぎ、口には干し肉をくわえている。


「朝飯だ。」


「それだけ言いに?」


「いや。」


 ヴァルトは珍しく真面目な顔になった。


「ジジイが呼んでる。」


---


 礼拝堂の地下。


 昨日と同じ部屋だった。


 しかし今日は、部屋の中央に大きな石箱が置かれている。


 箱の表面には、無数の古代文字が彫られていた。


 エイドル老人が静かに箱へ触れる。


「これは代々、この礼拝堂で守ってきたものじゃ。」


「宝箱?」


 ヴァルトが軽い調子で言う。


「お前さんは夢がない。」


 老人は苦笑した。


「聖遺物じゃ。」


 部屋の空気が変わる。


 リシェルは自然と背筋を伸ばいた。


 ヴァルトでさえ口を閉じる。


「聖遺物……?」


 アークだけが意味を知らなかった。


 老人は頷く。


「昔、この世界には"浄化術"という力があった。」


「浄化術?」


「傷を癒やし、病を退け、人の心まで救う力じゃ。」


「魔法とは違うんですか?」


「違う。」


 老人は即答した。


「魔法は力じゃ。」


「浄化術は願いじゃ。」


 その言葉が、妙に胸へ響いた。


 老人は石箱へ両手を添える。


「しかし終焉塔が築かれた日、その力は禁忌となった。」


「なぜ?」


「支配者にとって、一番都合が悪かったからじゃ。」


 部屋は静まり返る。


 老人はゆっくりと石箱の封印を解いた。


 ガコン……。


 重い音を立てて蓋が開く。


 中には一本の杖が眠っていた。


 純白だったはずの木は年月で飴色へ変わり、先端には透き通る青い宝石が埋め込まれている。


 それは派手な装飾もない、ごく質素な杖だった。


 しかし見た瞬間、アークは息を呑む。


 美しい。


 なぜか理由は分からない。


 ただ、その杖だけが、この街のどんなものよりも美しく見えた。


「これが……。」


聖遺物ケアル。」


 老人が呟く。


「最後の浄化術士が遺した杖じゃ。」


 リシェルが震える声で言う。


「でも、誰にも使えなかったはず……。」


「そう。」


 老人はアークを見る。


「今までは、な。」


 全員の視線がアークへ集まる。


「え?」


「昨夜、終焉機関はお前を『存在しない者』と認識した。」


「つまり。」


「この世界の法則に縛られておらん可能性がある。」


 ヴァルトが肩をすくめる。


「要するに。」


「試してみろってことだ。」


 アークはゆっくりと杖へ近づいた。


 手を伸ばす。


 あと少し。


 指先が触れた、その瞬間――


 眩い白い光が地下室を埋め尽くした。


 ゴォォォン――。


 同時に、終焉塔ジェノヴァの鐘が鳴り響く。


 礼拝堂全体が激しく揺れ始めた。


 空の巨大な眼がゆっくりと開く。


 そして街中へ、冷たい声が響く。


『警告。』


『第一級封印指定遺物を確認。』


聖遺物ケアル……再起動。』


『直ちに回収を開始する。』


 アークの手の中で、白い杖が鼓動するように輝き始めた。

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