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第二部 教育レヴェル ―前編―



 人は、生まれながらに価値を持つのではない。


 価値を与えられるのだ。


 ――カオティック・ニルヴァーナ古文書・第一章


---


 夜が訪れても、この街に静寂はなかった。


 どこかで誰かが泣き、どこかで誰かが笑う。


 金属のぶつかる音。


 遠くから響く悲鳴。


 そして、終焉塔ジェノヴァの歯車が回り続ける鈍い轟音。


 ゴン……


 ゴン……


 一定の間隔で鳴り響くその音は、まるで巨大な心臓が脈打っているようだった。


 礼拝堂の地下室。


 薄暗いランプの灯りだけが、石造りの部屋を照らしている。


 アークは粗末な木椅子へ腰を下ろした。


 目の前には、白髭の老人。


 名をエイドルという。


「聞きたいことは山ほどある、という顔じゃな。」


「……あります。」


 アークは迷わず答えた。


「教育レヴェルとは何なんですか。」


 地下室が静まり返る。


 老人はすぐには答えなかった。


 代わりに、一冊の古びた本を机へ置く。


 革表紙はひび割れ、金文字はほとんど消えていた。


 題名だけが読める。


 《教育典範》


「この街では、すべての者がこの教えに従って生きておる。」


 老人はゆっくりページを開いた。


 そこには奇妙な一文が記されていた。


«『従う者は善である。


疑う者は悪である。』»


 次のページ。


«『強き者は教育レヴェルが高い。


弱き者は教育不足である。』»


 さらにページをめくる。


«『苦しみは教育である。


痛みは救済である。』»


 アークは眉をひそめた。


「……こんなものが教え?」


「そうじゃ。」


 老人は静かに本を閉じる。


「何百年も前、この街には一人の賢者が現れた。」


「賢者?」


「そう呼ばれておる。」


 老人は皮肉っぽく笑う。


「本当に賢かったかは分からん。」


「その者は、人は争うから滅ぶのだと言った。」


「間違ってはいない。」


「だから、人間から自由な意思を奪えば争いはなくなる、と。」


 アークは思わず立ち上がる。


「そんな馬鹿な。」


「最初は皆そう思った。」


 老人は悲しそうに目を伏せた。


「しかし人は、恐怖には勝てん。」


---


 地下室の扉が静かに開く。


 リシェルだった。


「食事。」


 木皿には黒いスープと固いパンが乗っている。


 アークは礼を言い、スープを口へ運んだ。


「……うまい。」


「本当に?」


 リシェルは驚いたように笑う。


「この街ではご馳走よ。」


「普段は?」


「もっと酷い。」


 二人は少しだけ笑った。


 それが、この街へ来て初めて交わした穏やかな時間だった。


 しかし、その空気は長く続かなかった。


 礼拝堂の外から怒号が聞こえたのである。


「いたぞ!」


「異端者どもだ!」


「礼拝堂を包囲しろ!」


 地下室の空気が一変する。


 老人が立ち上がる。


「早すぎる……。」


「何がです?」


「見つかった。」


 リシェルはすでに杖を握っていた。


「地下通路から逃げる?」


 老人は首を横へ振る。


「無理じゃ。」


 その時だった。


 ドォン!


 礼拝堂の正面扉が吹き飛ぶ。


 砂煙の向こうから、黒い鎧を纏った兵士たちがゆっくり姿を現した。


 全員が同じ白い仮面をつけている。


 表情はない。


 ただ胸元には、巨大な眼の紋章が刻まれていた。


 兵士の一人が巻物を広げる。


「異端者を確認。」


「教育レヴェル測定不能者二十三名。」


「処分を開始する。」


 処分。


 その一言だけで礼拝堂は凍り付いた。


 子どもたちが泣き出す。


 老人が拳を握る。


「……またか。」


 アークはゆっくり剣を抜いた。


「俺が時間を稼ぐ。」


 リシェルが驚く。


「勝てない!」


「勝つ必要はない。」


 アークは兵士たちを見据えた。


「逃げる時間を作ればいい。」


 その瞬間。


 兵士たちが一斉に剣を抜く。


 黒い刃がランプの光を受け、不気味な輝きを放った。


 静寂。


 誰も動かない。


 だが次の瞬間――


 礼拝堂の天井を突き破って、何か巨大な影が落ちてきた。


 轟音。


 石壁が崩れ、土煙が舞い上がる。


 兵士たちでさえ一歩後ずさる。


 煙の向こうで、人影が立ち上がった。


 その背には、身の丈を超える黒い大剣。


 傷だらけの漆黒の鎧。


 そして、左目を覆う銀色の仮面。


 男は大剣を肩へ担ぐと、兵士たちを見渡し、低く笑った。


「おいおい……。」


「俺が昼寝してる間に、随分と騒がしくなったじゃねぇか。」


 兵士たちの顔色が変わる。


「まさか……。」


「《黒剣》ヴァルト……!」


 男はニヤリと笑う。


「その呼び名、嫌いじゃない。」


 アークはその男を見つめる。


 直感だった。


 この男との出会いが、自分の運命を大きく変えることになる。


 まだ誰も知らない。


 彼もまた、世界の秘密へ最も近い場所に立つ一人であることを。

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