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第一部 カオティック・ニルヴァーナ ―後編―



 巨大な眼が空に浮かんでいた。


 それは生物の眼ではない。


 空そのものに刻まれた、世界を監視する意思だった。


『教育レヴェル測定中。』


 無機質な声が、街中へ降り注ぐ。


 誰も動かない。


 誰も息すら立てない。


 アークだけが、その異様な光景に目を奪われていた。


「……何なんだ、これは。」


 次の瞬間だった。


 眼から一本の淡い光が降り、通りに立つ男を照らした。


 男は震えながら両膝をつく。


『教育レヴェル……適正。』


 周囲から安堵のため息が漏れる。


 だが、続いて少女へ光が向けられた。


 先ほど母親に叩かれていた少女だった。


 少女は必死に笑顔を作る。


 唇を震わせながら。


『教育レヴェル……低下。』


 街が静まり返る。


 母親の顔から血の気が引いた。


「違います……! この子はまだ幼いだけです!」


『教育不足。』


「お願いします!」


『再教育対象。』


 その瞬間、石畳の下から黒い鎖が飛び出した。


 少女の足へ絡みつき、一瞬で地中へ引きずり込む。


「お母さん!」


 悲鳴だけが残った。


 母親は泣き崩れることもできない。


 ただ地面へ額を擦り付け続ける。


「ありがとうございます……。」


 アークは耳を疑った。


「ありがとう……だと?」


「再教育していただけるのですから……。」


 母親は涙を流しながら笑っていた。


 壊れている。


 この街の人間は、皆どこか壊れている。


 アークが鎖の消えた場所へ駆け寄ろうとした、その時。


「やめなさい。」


 後ろから誰かが腕を掴んだ。


 振り返る。


 白い外套を羽織った少女だった。


 銀色の長い髪。


 澄んだ蒼い瞳。


 しかし、その瞳には年齢に似合わない諦めが宿っている。


「放してくれ!」


「助けられない。」


「まだ間に合う!」


「間に合わない。」


 少女は静かに首を振った。


「もう『あちら側』へ送られた。」


「あちら側?」


「ここでその言葉を口にしない方がいい。」


 少女は辺りを警戒し、小さく息を吐いた。


「私の名前はリシェル。」


「……アーク。」


「新入りね。」


「分かるのか?」


「その目。」


 リシェルは苦笑した。


「まだ誰も憎んでいない目をしてる。」


 アークは返す言葉を失う。


「来なさい。」


「どこへ?」


「ここで立ち止まれば、あなたも再教育される。」


 二人は裏路地へ駆け込んだ。


 狭い路地は迷路のように入り組み、街の喧騒は次第に遠ざかっていく。


 やがて、崩れかけた礼拝堂へ辿り着いた。


 重い扉を開く。


 中には二十人ほどの人々が身を寄せ合っていた。


 老人。


 子ども。


 傷だらけの兵士。


 皆、入口を見て安堵の表情を浮かべる。


「リシェル!」


「無事だったか。」


「また新しい子を拾ってきたの?」


 リシェルは肩をすくめる。


「放っておけなかった。」


 祭壇の前にいた白髭の老人が、アークへ歩み寄る。


「ようこそ。」


「ここは?」


「最後の避難所だ。」


「避難?」


「教育レヴェルを信じられなくなった者たちの、ね。」


 老人の声は穏やかだった。


 だが、その表情には深い疲労が刻まれている。


 礼拝堂の壁には巨大な壁画が描かれていた。


 四人の人物。


 一人は剣を掲げ。


 一人は杖を持ち。


 一人は槍を構え。


 そして最後の一人だけ、顔が何者かによって削り落とされていた。


「これは?」


 老人の顔色が変わる。


「見たのか。」


「誰なんだ。」


「……忘れられた英雄だ。」


「名前は?」


 老人はゆっくり首を横へ振った。


「名を知る者はいない。」


「いや。」


 リシェルが静かに呟く。


「知っている人はいる。」


 礼拝堂の空気が凍り付く。


「リシェル!」


 老人が声を荒らげる。


 彼女は口を閉ざした。


 その時だった。


 地面が揺れる。


 ゴゴゴゴゴ……。


 礼拝堂の窓が震え、埃が舞う。


 全員が外へ飛び出した。


 街の中心。


 雲を突き抜ける黒い塔。


 終焉塔ジェノヴァ。


 その頂上に据えられた巨大な歯車が、ゆっくりと回り始めていた。


 何百年もの眠りから目覚めるように。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 無数の歯車が連動する。


 世界そのものが軋むような重低音が響いた。


 空に浮かぶ巨大な眼が、ゆっくりと塔へ向きを変える。


『封印機構……異常。』


『第一封印……解除。』


『第二封印……解除。』


終焉機関ジェノヴァ……起動。』


 礼拝堂にいた人々の顔から血の気が引く。


「そんな……。」


「封印が破られた……。」


「終わりだ。」


 リシェルだけがアークを見つめていた。


「あなたは何のために、この街へ来たの?」


 アークは旅の始まりを思い出す。


 師が最期に遺した言葉。


 ――『始まりの四人を探せ。世界が滅ぶ前に。』


 その意味はまだ分からない。


 だが、胸の奥で何かが脈打っていた。


 まるで、この街が自分を待っていたかのように。


 終焉塔の最上階で、誰かがゆっくりと立ち上がる。


 その姿は逆光に溶け、顔は見えない。


 ただ一つだけ。


 冷たい笑い声が、街全体に響き渡った。


 その瞬間、アークは直感した。


 ――ここは旅の終着点ではない。


 すべてが始まる場所なのだ。

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