第一部 カオティック・ニルヴァーナ ―前編―
世界には、決して名を口にしてはならない都市がある。
旅人は、その名を耳にしただけで進路を変え、商人は地図からその場所を削り、学者は記録を燃やした。
その都市には、神すら近づかない。
悪魔でさえ長く留まることを嫌う。
人々は畏怖を込めて、その名を囁く。
――カオティック・ニルヴァーナ。
そこでは、善悪は価値を持たない。
正義も、慈悲も、友情も。
すべては一つの尺度によって測られる。
教育レヴェル。
その言葉の意味を知る者は、もう誰もいない。
***
黒い雪が降っていた。
空は昼だというのに鉛色に染まり、太陽は厚い雲の向こうで輪郭だけを残している。
青年アークは、旅で汚れた外套を握り締めながら、巨大な城壁を見上げた。
あまりにも高い。
まるで空そのものを閉じ込める檻のようだった。
城門の上には、風雨に削られた石碑がある。
そこには古代文字で一文だけ刻まれていた。
『教育レヴェルこそ、人の価値である。』
「……気味が悪い。」
思わず漏らした声を、門番が聞き逃さなかった。
全身を黒い甲冑で覆った男が、ゆっくりと顔を上げる。
「名を名乗れ。」
「アーク。」
門番はしばらく黙っていた。
やがて、乾いた笑い声を漏らす。
「まだ名前を持っているのか。」
「どういう意味だ?」
「安心しろ。」
門番は錆びついた門を開きながら言った。
「この街では、そのうち必要なくなる。」
重い鉄門が軋みを上げる。
その音は、まるで棺桶の蓋が閉じる音に似ていた。
アークは一歩だけ足を踏み入れる。
瞬間だった。
鼻を突く腐臭。
焼けた鉄の臭い。
乾いた血の臭い。
そして、それらを覆い隠すような、甘ったるい花の香り。
胃が軋む。
思わず口元を押さえた。
「慣れるさ。」
門番の声だけが、やけに楽しそうだった。
***
街は異様だった。
建物はどれも傾き、窓には板が打ち付けられ、人々は皆どこか怯えたように歩いている。
だが、それだけではない。
「ごめんなさい……!」
幼い少女が地面へ額を擦り付けていた。
その前には、母親らしき女。
女は少女の頬を平手で打ち、怒鳴り散らす。
「泣くな!」
もう一度。
乾いた音が響く。
「泣けば教育レヴェルが下がる!」
少女は震えながら涙を堪えた。
「……はい、お母さん。」
周囲の人間は誰一人止めようとしない。
それどころか、満足そうに頷いていた。
「立派な教育だ。」
「子どものうちから矯正しなければ堕落種になる。」
「親の鑑だ。」
アークは信じられなかった。
「どうして誰も止めないんだ。」
隣にいた老人が、驚いたような顔をする。
「止める?」
「虐待じゃないか。」
老人は辺りを見回し、声を潜めた。
「……静かに。」
「そんな言葉を使うな。」
「聞かれたら、お前まで堕落種と判定される。」
老人は怯えた様子で足早に去っていった。
アークだけが、その場に立ち尽くす。
この街では何かがおかしい。
いや、おかしいのは街ではない。
人々の価値観そのものが、根元から歪んでいる。
その時だった。
ゴォォォォン――。
どこからともなく、重く低い鐘の音が響く。
街中の人々が一斉に立ち止まった。
誰も喋らない。
誰も動かない。
老人も。
商人も。
泣いていた少女も。
まるで時が止まったように空を見上げている。
アークだけが困惑していた。
「……何が起きてる?」
返事はない。
二度目の鐘が鳴る。
ゴォォォォン――。
人々の瞳から感情が消えた。
三度目。
ゴォォォォン――。
全員が、まるで一つの意思に操られているかのように口を開く。
『教育レヴェル測定開始。』
その声は、男でも女でもない。
老人でも子どもでもない。
街そのものが喋っているようだった。
アークの背筋を冷たいものが走る。
空を見上げる。
黒雲が渦を巻き、その中心がゆっくりと裂けていく。
雲の奥から現れたのは、巨大な「眼」だった。
人智を超えたその眼は、街全体を静かに見下ろしている。
そして、どこか遠くで歯車が噛み合う音が響いた。
――カチリ。
その音は、この世界の運命が動き出した合図だった。




