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「失礼いたします、エカテリーナ様! 伯爵の精神破壊状況を確認するため、追加の『精神攻撃用アロマ』を持参いたしました!」
タキトゥスの元気すぎる声が、静寂に包まれた「特注スイートルーム(監獄)」に響き渡った。
(やばい、やばい、やばい!)
私は心の中で絶叫しながら、反射的に持っていたシャンパンの残りを放り出し、椅子の背もたれに深く腰掛けた。同時に、ベッドの上でくつろいでいたしょうくんも、驚異的な身体能力でシーツを跳ね上げ、鎖に繋ぎ直し「屈辱に耐える敗北者」のポーズへとスライディングした。
「……ンンッ! は、入りなさい、タキトゥス」
私の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。これぞ、数日間鍛え上げた「氷の女公爵」のポーカーフェイス。中身のひなは、心臓が口から飛び出しそうなほどバックバクなのに。
重厚な扉が開くと、銀色に輝くタキトゥスが、仰々しく黄金の香炉を携えて入ってきた。
「おお……! なんという凄惨な光景……。あの狂犬と呼ばれた伯爵が、これほどまでに無惨に……」
タキトゥスが感極まったように声を震わせる。彼の視線の先には、髪を乱し、うつむいている。賢者になりかけている、しょうくんの姿があった。
「……ええ。見ての通りよ、タキトゥス。彼は先ほどから、己の無力さを嘆き、一言も発しませんわ。……まあ、私に対する罵詈雑言だけは忘れないようだけれど」
私は、わざとらしく冷たい笑みを浮かべた。
すると、タキトゥスは「流石はエカテリーナ様!」と目を輝かせ、香炉をテーブルに置いた。
「では、仕上げにこのアロマを! これは、相手の理性を奪い、心の奥底にあるもっとも秘められた情動を強制的に引き出すという、恐るべき『淫紋の薫り(ローズ&ジャスミンの高給エステ配合)』にございます!」
(いや、それ、ただの最高級リラクゼーション・アロマじゃないの?)
どう見ても、前世の高級ホテルのロビーで漂っていたあのリッチな香りだ。タキトゥスが火を灯すと、瞬く間に部屋中に甘く、うっとりとするような花の香りが広がっていく。
「これで罪人の精神はもはや崩壊寸前! 伯爵、せいぜい己の醜い本性を露呈させるがいい!」
「……クッ……! なんという、卑劣な……術を……!(棒読み)」
しょうくんが、顔を伏せたまま震える声で答える。
タキトゥスは満足げに頷くと、「一刻も早く、彼の精神が完全に堕ちるのを見守りましょう。私は扉の外で、アリ一匹通さぬよう、かつ精神崩壊の悲鳴を聞き逃さぬよう、直立不動で待機しております!」と言い残し、軍靴の音を響かせて去っていった。
────
ガチャリ。
扉が閉まり、再び訪れる二人だけの時間。
「……ぷっ 『淫紋の薫り』って、しょうくん、聞いた? あれ、ただのローズ・アブソリュートだよ。私、これ大好きなんだけど」
私は膝の力を抜き、崩れるようにして椅子に凭れた。
「……ひな、笑いすぎ。僕だって、あの『精神的去勢』とかいう説明のたびに、必死で舌を噛んで耐えてるんだから」
しょうくんが起き上がり、ベッドの端に腰掛ける。アロマの煙が二人の間を優雅に漂い、部屋の雰囲気は「尋問室」から一気に「深夜の寝室」へと変貌していた。
「……でも、これ。タキトゥスが外で聞き耳を立ててるのよね? 私たちが楽しそうに喋ってたら、すぐにバレちゃうわ」
「そうだね。……じゃあ、ちょっと『拷問』っぽく、ひなが僕を問い詰めるフリをしようか。……大きな声でさ」
しょうくんがいたずらっぽく笑い、私をベッドの方へ手招きした。
私はドキドキしながら、彼の隣に座る。
「……ええと。……どうかしら、レナード伯爵! 貴方の領地の軍事機密をすべて吐きなさい! さもなくば、もっと恐ろしい目に遭わせてよ!」
私はわざと声を張り上げ、エカテリーナの声で叫んだ。
すると、しょうくんもすぐに「狂犬」のスイッチを入れる。
「……黙れ、女公爵! 俺を殺せ! 貴様のような冷血女に、我が領の誇りを売るつもりはない!」
(……すご。しょうくん、演技上手すぎない?)
感心していると、彼は私に顔を近づけ、囁くような小さな声で言った。
「……今から、僕が悲鳴を上げるから。……ひなは、もっとひどいことを言ってるフリをして」
「……わかったわ」
「うああああっ! やめろ……! その、柔らかい手で……俺の髪を弄るのをやめろぉぉぉ!」
「お、お黙りなさい! 貴方のこの、綺麗な黒髪が……ぐちゃぐちゃになるまで、私は容赦しませんわよ!」
私は彼の指示通り、彼の髪に指を差し入れ、優しく撫で回した。……これ、拷問じゃなくて、ただのイチャイチャよね?
外で聞いているタキトゥスには、「女公爵が伯爵の頭を掴んで壁に叩きつけている」ようにでも聞こえているのだろうか。
「……ひな、それ。……気持ちいい」
しょうくんが、私の膝に頭を乗せて、うっとりと目を細めた。
「……あの日、空港で爆発が起きた時……。僕、もう二度と君の手に触れられないと思ったんだ。……こうして、また君に何度も触れてもらえるなんて、今でも夢みたいだよ」
「……しょうくん。……私もよ。……ずっと、怖かったの。この冷たいドレスを脱いだら、私はただの、弱虫なひなに戻っちゃう。……でも、しょうくんがいれば、私、最強の女公爵だって演じきれる」
アロマの香りに包まれて、私たちは束の間の、本当の「新婚旅行」の続きを味わっていた。
外の喧騒も、領地争いも、勘違いだらけの忠臣も。
今はすべて、遠い世界の出来事のように思えた。
────
「……ねえ、ひな。そろそろ、本題の『作戦』について詰めようか」
二度は流石に疲れたのか、しょうくんが私の膝から頭を上げ、真剣な眼差しになった。
「僕たちがここに閉じこもっている間に、僕の父が、君の領地へ本格的な『奪還軍』を差し向ける可能性はゼロじゃない。……もし彼らが来たら、この『飼い慣らし』の茶番も通用しなくなる」
「ええ。……私の家臣たちも、あなたが折れないのを見て、そろそろ『最終手段(物理的な処刑)』を提案してくるはずよ。……特にタキトゥスは、『いっそ氷漬けにして、公爵邸の彫像にしましょう』なんて不気味なことを言い出しかねないわ」
私たちは、お互いの手のひらを重ね合わせた。
この世界で本当の味方は二人だけ。
「……策がある。……ひな。君が僕を『完全に屈服させた証』として、僕に『服従の誓い』を立てさせる公開儀式を行おう。……全領民と、両家の使節団の前で」
「公開儀式? ……それって」
「……形の上では、僕が君の『騎士』として、アスガルドに忠誠を誓う形にするんだ。……そうすれば、僕の家は『当主が人質に取られた』という体裁で軍を引けるし、君の家は『狂犬を完全に制御下に置いた』と認めざるを得なくなる」
しょうくんの提案は、あまりにも大胆だった。
それは事実上の「公開プロポーズ」であり、この世界における「不戦条約」でもある。
「……いいわ。……私、最高に傲慢な態度で、貴方を従わせてあげる。……でも儀式の最後に、私からの『報酬』を忘れないでね?」
「報酬?」
「……それは。……儀式が終わってからのお楽しみよ」
私は彼の耳元で、エカテリーナらしい挑戦的な、けれどひならしい甘い声で囁いた。
────
翌朝。
アスガルド公爵邸の広場には、異様な緊張感が漂っていた。
「――静粛に!」
タキトゥスの号令が響き渡る。
壇上の高座には、深紅のドレスを纏った私が、足を組んで座っていた。
その足元には、両手を鎖で繋がれた(フリの)レナード伯爵が、跪かされている。
「……レナード伯爵。貴方の誇りは、もはや粉々に砕け散ったはずよ。……今ここで、私に従うか、あるいはその無駄に整った首をアスガルドの門に飾るか。……選びなさい」
私の冷酷な宣言に、集まった兵士たちが息を呑む。
レナードは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には敗北者の絶望……ではなく、獲物を捕らえた獣のような強烈な愛の光が宿っていた。
「……屈辱だ。……だが、貴女という『氷の鎖』に繋がれるのであれば、それも悪くない。……我が魂、そして我が領地のすべてを、エカテリーナ・フォン・アスガルドに捧げよう」
彼は私の靴の先に、恭しく唇を寄せた。
……靴へのキス。
それはこの世界で、絶対的な服従を意味する誓いの儀式。
けれど私には分かった。
彼が唇を触れさせた瞬間、私の足首に伝わった熱。それは、前世で彼が私の指に指輪をはめてくれた時の、あの確かな誓いの感触だった。
「おおおおっ……! あの狂犬が! 膝を突いたぞ!」
「女公爵様が、ついに強靭な軍神を手に入れた!」
兵士たちの熱狂的な叫びが、地を揺らす。
タキトゥスは「おおお……! なんという歴史的瞬間! 伯爵の精神は、あの『淫紋の薫り』によって、完全にエカテリーナ様の奴隷へと書き換えられたのだ……!」と、あらぬ方向に感極まって号泣している。
私は高らかに扇を広げた。
「……聞きなさい、アスガルドの臣下たち、そして民よ! 本日をもって、レナード伯爵は我が『騎士』となり、アスガルドの盾となる! これより、我が領とレナード領は……運命を共にするわ!」
戦争の回避。
そして、事実上の「再婚」の成立。
私たちは、世界を欺きながら、最大の勝利を掴み取った。
……けれど、当然。
「エカテリーナ様! お喜びのところ失礼いたします! サラーム卿より、緊急の親書が届きました! ……『我が息子をたぶらかした魔女の首を取りに、自ら一万の軍勢を率いて参る』とのことです!」
「……え? 一万!?」
守銭奴、どこいった……。もう使ってるなら、無駄にならないよう、使い倒すしかないんじゃない!? どどど、どうしよっ!
報告に来た兵士の言葉に、私としょうくんは同時にフリーズした。
……お父様(義父さん)、来ちゃうの!?
しかも、一万の軍勢を引き連れて!?
「……ひな。……どうやら、新婚旅行の続きは、まだ当分先になりそうだね」
しょうくんが苦笑いを浮かべて私を見上げた。
私は冷徹な女公爵の仮面の下で、泣きたいのを必死に堪えた。
(……な、なんでよ! せっかく二人きりになれたのに! やっと私の領地をまとめて、準備万端で交渉を進めようと思っていたのに……)




