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「……い、一万の軍勢?」
私は玉座の上で扇を握りしめたまま、その場でフリーズしっぱなしだった。
せっかく「公開プロポーズ(服従の誓い)」という名の茶番を完遂し、ようやく「愛する夫との甘い共禁生活」へのチケットを手に入れたと思ったのに。現実は、甘いチョコレートフォンデュすらひっくり返すような無慈悲さで、私をどん底に叩き落としてくれる。
「はっ! サラーム閣下は本気です! 『我が息子をたぶらかし、精神を汚した氷の魔女を即座に八つ裂きのミンチにせよ』と、全軍に檄を飛ばしているとのこと!」
報告に来た伝令兵の声が、広い広間に響き渡る。
私の周囲に控える家臣たちの間に、どよめきが広がった。
「一万……。レナード領の総力の半分を、たった一人の女公爵のために?」
(やりすぎでしょ。お義父さん、いくらなんでも過保護とプライドが過ぎるわよ!)
私の脳裏に、前世の結婚挨拶の日のことが浮かんだ。
しょうくんの本当のお父さんは、優しくて、少しお酒が入ると「息子をよろしくね」と泣いちゃうような人だったのに。
この世界の「レナードのお父さん」は、どうやら息子の不祥事(と彼らが思っている事態)に対して、物理的な殲滅という回答しか持ち合わせていないらしい。中世脳はやばい!
「エカテリーナ様、ご命令を!」
タキトゥスが、ガシャンと激しく膝をついた。彼の銀色の鎧が、怒りで震えているように見える。
「相手は一万。ですが、このアスガルドの城壁と、我が精鋭部隊があれば、たとえ一万の軍勢であっても寄せ付けはいたしません! ……さらに、地下に捕らえたあの『狂犬(伯爵)』を、城門の前に晒しましょう! 実の息子を盾にされれば、所詮は貴族、暗黙の了解で手出しはできないでしょう!」
「……ダメよ、タキトゥス」
私は食い気味に否定した。
息子を盾にする? そんなことしたら、お義父さんの火に油を注ぐだけだ。それに、私の愛するしょうくんを、そんな危険な場所に立たせるなんて万死に値する。
「人質を使うなど、アスガルドの誇りが許しません。……タキトゥス、一万の軍勢を正面から迎え撃つ準備をしなさい。ただし」
私は一度言葉を切って、冷徹な「氷の微笑」を作った。
「……相手は、将来的に我が『猟犬(レナード伯爵)』が統治すべき民たちよ。あまり無闇に殺しては、後味が悪いでしょ。……そうね、相手が戦意を喪失する程度の『冷たいおもてなし』を準備しなさい」
「……戦意を喪失する程度……? おおお! 流石はエカテリーナ様! 死を与えるよりも残酷な、絶望という名の氷壁を築けというのですね! 承知いたしました!」
タキトゥスは、またしても完璧な「地獄の解釈」を胸に抱いて、嵐のように去っていった。
(……ふぅ。とりあえず、時間を稼がないと。……早く、しょうくんと作戦会議をしなきゃ)
────
「……というわけなの。お義父さんが、一万の軍勢を率いてここに向かっているというのは、どうやら本当みたい」
幸い、ミサイルやドローンで怒りの爆撃をしてくるわけではない。馬と徒歩故に、作戦を練る時間はまだある。
夜。私は厳重に封印された(フリの)「最深部スイートルーム」に飛び込んだ。
扉を閉めた瞬間、私はエカテリーナの重いドレスを脱ぎ捨て(実際には脱げないけど、気分的に)、ベッドで寝転んでいたしょうくんの元へ駆け寄った。
「……一万? 親父、本気だな」
しょうくんは、サイドテーブルに置かれた「拷問用のアイス(最高級ジェラート)」を食べながら、困ったように眉を下げた。
「ひな、ごめんな。僕の親父が、こんなに迷惑かけて。あいつ、一度言い出したら聞かないんだ。『息子を魔女から救い出す』っていう、自分なりの正義のヒーロー物語に酔いしれてる可能性が高い」
「こじらせてるのね。可哀想に。正義のヒーローにしては、連れてくる軍勢が多すぎるわよね。このままじゃ、私たちの新婚旅行の続きどころか、全面戦争になっちゃう」
私は彼の隣に座り、ぎゅっとその腕を掴んだ。
異世界の夜は冷える。けれど、彼の体温だけは、前世と同じように私を安心させてくれる。
「しょうくん、何か策はない? お義父さんを説得する方法」
「……親父は生粋の武人だ。理屈じゃ動かない。彼が納得するのは、自分よりも強い力に屈服した時か……あるいは、本気で『息子が幸せだ』と理解した時だけだ」
しょうくんは、私の指を優しく絡ませた。
「でも、今の状況で『僕たちは愛し合っています、だから戦争はやめてください』なんて言っても、親父は『息子が強力な魅了をかけられている!』としか思わないだろうね」
「……うーん。特にあのタキトゥスが用意したアロマ(淫紋の薫り)のせいで、外向けにはあなたが完全に廃人になってることになってるし」
私たちは顔を見合わせて、同時にため息をついた。
勘違いが、お互いの首を絞めている。
「……ひな。……だったら、いっそのこと、親父をこの『檻』に招き入れよう」
「えっ? お義父さんを監禁するの!?」
「監禁じゃないよ。……『一騎打ち』の末に、僕が彼を説得するんだ。……ひな、君には、僕と親父が戦うための『最高の舞台』を作ってほしい」
しょうくんの瞳に、決意の光が宿る。
それは、宿敵としての「狂犬」の目ではなく、家族を守ろうとする「夫」の目だった。
「……わかったわ。……私に任せて。タキトゥスを上手く使って、お義父さんをこの部屋まで誘導させる」
「頼むよ、ひな。……それから、お義母さんとの約束。……『隣にいてやってください』って言われたけど、今は僕が、君を守る番だ」
彼は私の額に、そっと、けれど確かな熱を込めてキスをした。
その瞬間、私は確信した。
一万の軍勢だろうが、最強の武人パパだろうが。
二人でいれば、この理不尽な世界さえも、ハッピーエンドへ書き換えられるはずだ。
三日後……。
アスガルド公爵領の境界線は、サラーム卿率いる真っ黒な陣影で埋め尽くされていた。
一万の軍勢。その数字が持つ意味は、単なる「暴力の量」ではない。それは、サラーム卿がアスガルド公爵家を「対等な交渉相手」ではなく、「社会の秩序を乱す異分子」として排除しにかかったという、強烈な社会的宣告だった。
私は城壁の最上階から、地平線を埋め尽くす漆黒の軍旗を見下ろしていた。
背後では、タキトゥスがいつになく静かに、けれど氷のような殺気を孕んで控えている。
「エカテリーナ様。敵陣に動きはありません。……彼らは今のところ『礼儀』を守っています。正式な使者を送るまで、一歩も境界を越えないようです。」
タキトゥスの言葉は正しい。もしサラーム卿が無作法に、宣戦布告もなしに農地を荒らし、略奪を働けば、彼は他の近隣領地から「ルールを守れない狂人」と見なされ、軍事同盟や貿易ルートから即座に弾き出される。貴族がルールを守るのは、それが最も「得」だからだ。
(……お義父さんも、やっぱりプロの貴族なのね。感情で動いているように見えて、その実、一万の軍勢という『資本』を見せつけることで、交渉の主導権を握ろうとしている)
「タキトゥス。使者を出しなさい。……サラーム卿を、正式な『交渉』に招待すると。ただし、入城を許すのは閣下と十名の護衛のみ。場所は公爵邸の『黒曜石の間」
「……名誉ある場所での、名誉ある対面。サラーム卿も、これを拒めばご自身の看板に傷がつきますからな」
タキトゥスが去った後、私は一度だけ深く息を吐いた。
手元の扇を握る指が、かすかに冷たい。
これから行われるのは、一万の兵を動かすよりも恐ろしい「言葉の刺し合い」だ。一歩間違えれば、アスガルドの家名というブランドは地に落ち、私は他国からの援助も受けられぬまま、社会的に「詰む」。
一時間後……。
公爵邸の重厚な扉が開かれ、漆黒の鎧を纏った初老の男が、十名の精鋭を連れて足を踏み入れた。
サラーム卿……しょうくんの父親。
その一歩一歩が床を叩く音は、まるで軍隊の行進のような重圧を伴っていた。
私はアスガルド家当主として上座に座り、彼を見据えた。
沈黙が、重く、長く、室内を支配する。
サラーム卿の琥珀色の瞳――しょうくんと同じ色の瞳が、冷徹に私を観察していた。
「――氷の女公爵。我が息子の処遇について、釈明を伺おうか」
低く、地鳴りのような声。サラーム卿が沈黙を破った。これは「自分は被害者であり、追及する権利がある」というポジションの表明だ。
3日の特急訓練の成果を見せる時。
「釈明? 閣下、言葉をお選びくださいませ。レナード伯爵は、我が領内の軍事機密を侵害しようとした際、正当な手続きを経て『捕縛』されました。これは、貴族間の法に基づく正当な拘束です」
私は努めて冷静に、優雅に、微笑を浮かべて答えた。内心バクバクである。
貴族を殺すのは「資源の浪費」であり、生かして「身代金(代償)」を得るのが共通言語。
「法だと? ……我が息子を『檻』に入れ、精神を苛んでいるという噂がある。貴公は、同じ貴族でありながら最低限の礼節すら忘れたのか? 捕虜を丁重に扱わぬ者は、自らが敗者となった際に首を撥ねられても文句は言えぬぞ。……それが、我らの生存のための互助ルールではなかったか?」
大公の言葉には一理ある。捕虜になった貴族を殺したり虐待したりしないのは、自分がいつか捕虜になった時の「命の保険」だからだ。幸い、その点は100点満点の自身がある。
「虐待? とんでもない。……レナード伯爵は今、公爵邸で最も贅を尽くした部屋で、我が家の最高のもてなしを受けておられますわ。……もしご不安であれば、ご自身の目でお確かめになりますか? 伯爵が、いかに『満足』して私の軍門に降ったかを」
私はあらかじめ「最深部スイートルーム」に待機させていたしょうくんに合図を送るよう、視線でタキトゥスに促した。
────
そして、スイートルーム。
部屋の奥から、しょうくんが現れた。
彼は、昨夜までの「捕虜のフリ」ではない。アスガルド公爵家の客分として相応しい、最高級の正装を纏っていた。
けれど、その首元には、私が魔法で施した「黄金の首輪」――魔力を制限する装飾品が光っている。
「……父上」
しょうくんの声が、静かに響く。
「レナード! ……貴様、その姿は。……洗脳でもされたか、あるいは……」
サラーム卿の眼光が鋭くなる。
貴族にとって、息子が敵に屈服するのは、家名の「信用毀損」に他ならない。これを解決するには、彼が「屈服させられた」のではなく、別の「名誉ある理由」でそこに留まっていると説明する必要がある。
「閣下、今のところ、魔法の類いは検知されておりません」
「ふむ」
「父上。……私は、エカテリーナ公爵と『新たな契約』を結びました。……いえ、これは交渉の末の、合理的選択です」
しょうくんが、一歩前に出る。その歩き方、所作。すべてが一流の貴族としての気品に満ちていた。私と同じく3日間、猛特訓した成果だ。
「アスガルドとの間に……。この二つの家が争い続けることは、もはや互いの領民を疲弊させ、近隣諸国に付け入る隙を与えるだけの『損失』です。……私は、自らアスガルドの軍門に降ることで、この不毛な消耗戦に終止符を打つ『人質』となる道を選びました」
「……何だと? 正気か?」
「私がここに留まることは、レナード家がアスガルドとの『永続的平和』を望むという、最も強力な担保となります。……父上。一万の軍勢を引いてください。これ以上の軍事費の投入は、我が領の財政を数十年単位で圧迫させてしまいます」
室内の空気が変わった。
しょうくんは、自分を「愛の逃避行の末の捕虜」ではなく、「領地の未来を見据えた、自己犠牲的な政治家」として再定義したのだ。
これならば、サラーム卿の名誉も守られる。「息子が魔女にたぶらかされた」のではなく、「息子が領地の平和のために、自ら火中の栗を拾った」という物語に書き換わるからだ。それはあまりに危険な行いだが、成功の兆しがあれば話は別である。
私は畳み掛けるように契約書を提示した。
「サラーム卿。これは、身代金の代わりの『提携案』です。……レナード家の鉄鋼資源と、アスガルドの魔導技術を融合させた新産業の創出。そして、その『結節点』として、伯爵には我が領にてこの事業の総指揮を執っていただきます」
サラーム卿は、手渡された書面に目を通した。
そこには両家の経済的利益が最大化されるような、緻密な計算が並んでいる。
貴族社会は、一つの大きなネットワークだ。国が戦争中でも、水面下で経済の歯車を回し続けるのが「ハブ」としての彼らの責務である。
「……ふん。……我が息子を、ただの商売の片棒に担ごうというのか」
「いいえ。……世界を回すための、新たな『秩序の代行者』としてですわ」
私はサラーム卿の目をまっすぐに見つめた。
「一万の兵を動かして城を落としても、閣下の手に入るのは灰と化した瓦礫と、周辺諸国からの冷ややかな視線だけ。……ですがこの契約に応じれば、閣下は『戦争を終わらせた賢王』としての名誉と、莫大な富を手にされます。……どちらが有益か、互いの家にとっても明白ではありませんか? もうお互いに、未来を見据える良い機会かと」
沈黙。
サラーム卿は、しばらくの間、私と息子を交互に見つめていた。
やがて、彼は重厚なため息をつくと、戦斧を護衛に預けた。
「……レナード。貴様、本気でこの魔女……いや、女公爵と組むつもりなのか?」
「はい、父上。……これこそが、私が選んだ『名誉』ある道です。我が領地の為です!」
(……しょうくん、かっこいい! 本当にプロの貴族みたいよ!)
心の中で拍手喝采を送る。
サラーム卿は、苦笑いにも似た表情を浮かべ、署名用のペンを手に取った。
「よかろう。……氷の女公爵。……貴公のその『計算高さ』、嫌いではない。……だが忘れるな。契約を違えれば、我らから貴公の名は抹消され、二度と日の当たる場所へは戻れぬと思え」
「……肝に銘じておきますわ、サラーム卿」
────
そして、一万の軍勢が、静かに撤退を開始した。
それは凄惨な流血の終わりではなく、高度な「経済提携」の始まりだった。
軍勢が去った後の静かなバルコニーで、私としゅうくんは二人、夜風に吹かれていた。
「……疲れたぁ。本当に、この3日間は心臓が止まるかと思ったわ。生きた心地がしなかったもの……」
私はエカテリーナの仮面を脱ぎ捨て、手摺りに寄りかかった。
「しょうくん、さっきの『人質としての誇り』みたいな演説、どこで覚えたのよ。あんなの、前世の営業トークじゃ出てこないわよ」
「……必死だったんだよ。貴族の掟を逆手に取るしかないって、ひなの側近の話を聞きながらずっと考えてたんだ。……でも、これでようやく、公式に『アスガルドに居座る理由』ができたね」
しょうくんが、私の肩を抱き寄せた。
首元の「黄金の首輪」が、月光を浴びて鈍く光る。
「……ひな。これ、本当に魔法で魔力を制限してるの?」
「いいえ。ただの高級な金細工よ。……でも外から見れば、私はあなたを『呪具で縛り付けている冷酷な支配者』に見えるでしょ? ンフフ♪ これが私たちの『生存戦略』よ」
私たちは顔を見合わせ、声を潜めて笑った。
周囲には「狂犬を完全に制御した女公爵」と「誇りのために自らを捧げた伯爵」という美談(あるいは恐怖政治の象徴)として伝わっているだろうが。
実態は、死の淵から生還し、二度目の人生を「添い遂げる」ために世界を欺いた、たった二人の共謀者だ。
「……さて。……お義父さんとの『商談』は終わったけど。……ひな。新婚旅行の続き、ここからが本番だよね?」
「ええ。……でも、明日はさっそく領民への説明と、合同事業の打ち合わせよ。……貴族って、意外と休みがないのね」
「……ハハハ、だがそれも、二人でやれば『共同作業』だろう?」
しょうくんは、私の指先にそっと唇を寄せた。
それは服従の誓いではなく、ただ一人の愛する妻への、永遠の愛の証明だった。
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「失礼いたします! エカテリーナ様! 大公軍の撤退を確認いたしました! ……さらに、伯爵の『教育的監視』を強化するため、新たな『相互監視用寝室(ハネムーンスイート改良版)』の警備計画を立案いたしました!」
扉の外から、いつものようにタキトゥスの元気すぎる声が響く。
「「……やっぱり、休みはなさそうね」」
私たちは、苦笑いしながらも、その「騒がしくも愛しい日常」を噛み締めていた。
異世界という名の巨大なシステムの中で。
私たちの愛は、誰にも壊せない「最強の掟」へと書き換えられていく。




