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三日月谷での「決裂」から数日。
アスガルド公爵邸の会議室は、まるで凍りついた戦場のような緊張感に包まれていた。
「――以上が、周辺諸国の動向、およびレナード伯爵領の兵力配備の最新状況です。エカテリーナ様、もはや猶予はありません。奴らが街道を封鎖し続けるのであれば、こちらは力をもってこれを排除すべきです!」
軍務大臣の老将が、鼻息も荒く机を叩く。他の閣僚たちも一様に頷き、室内の空気は完全に「開戦」へと傾いていた。
私は上座に深く腰掛け、頬杖をつきながらその光景を眺める。
外見は「いつ誰を処刑しようか」と考えているような、冷徹そのものの女公爵。けれど、机の下で組んだ私の指先は、絶望的なまでの緊張で小刻みに震えていた。
(……やめて。みんな、そんなに殺る殺る殺る殺る……殺る気満々にならないで。相手は私の夫なのよ? 昨晩だって、こっそり届いた魔法鏡の魔導通信で『ひなの好きなコンビニのスイーツを再現しようとして蒸し器を爆発させた』なんて可愛い報告をくれた、お茶目なしょうくんなのよ!?)
叫びたい。今すぐ「戦争はやめましょう、みんなで仲良くしましょう」と微笑みたい。
けれど、そんなことを言えば、この武闘派揃いの閣僚たちは「我が主は伯爵の呪術に完全に精神を支配された!」と判断し、それこそ今日中にレナード城を灰にしにいくだろう。
私はゆっくりと、重厚な扇を広げた。
そのパチン、という乾いた音が会議室に響くと、閣僚たちが一斉に沈黙し、私を注視する。
「……皆、血気が盛んなこと。ですが、短絡的な武力行使ほど、アスガルドの美学に反するものはないわ」
私は三日月谷で披露したあの「氷の微笑」をさらに研ぎ澄ませて、一同を見渡した。
「……レナード伯爵。あの男は、確かに『狂犬』と呼ばれ、恐れられている。ですが、死なせてしまってはただの肉の塊。それでは、我が領を侵した無礼への報いとしては……あまりに軽すぎると思わないかしら?」
「……と、仰いますと?」
タキトゥスが、私の斜め後ろで銀色の鎧をガタリと鳴らした。彼の瞳には、すでに期待と崇拝の色が混じっている。
「殺すよりも、もっと残酷で、もっと実利のある方法があるわ。……あの男を、この私たちの『檻』に入れ、一生をかけてアスガルドに奉仕させる。……つまり、レナード伯爵領そのものを、私の所有物として飲み込むのよ。戦争ほど資産を減らすリスクは、極力避けるべきよ。あくまでも最終手段。それに、敵領地のリソースを確保した方が、こちらの領地も潤うというもの」
そう。表向きは、相手の資産を掠め取りたいと思わせ続ける。これで反発を防ぎつつ、刺激を満たせられるはず。
室内が、静まり返った。
誰もが、この「氷の女公爵」の、常軌を逸した支配欲と知略に震えているのがわかる。
私は内心で(よし、これなら『結婚』という名の『併合』として処理できる!)と、ガッツポーズを決めた。
「レナード伯爵を、私の側近――いえ、『教育的監視下』に置く。彼は私の目の届く範囲で、アスガルドの利益のためにその牙を使わせる。……それこそが、最も美しく、最も屈辱的で美味しく、向こうの哀れな敗北だとは思わない?」
「おおお……!」
軍務大臣が、声を震わせて感極まった。
「流石はエカテリーナ様……! 敵の首を取るのではなく、その牙を奪い、自分の猟犬に仕立て上げるとは……! なんという恐ろしき統治術……!」
「左様! それこそ、アスガルドが周辺諸国に示す、絶対的な威厳に他なりません!」
「狂犬を飼い慣らす公爵様……! なんと素晴らしい……!」
……よかった。
なぜか分からないけれど、私の「新婚生活をしたいだけ」の提案が、史上最高の政治的拷問として閣僚たちに承認されてしまった。
特にタキトゥスの興奮ぶりは凄まじい。
「エカテリーナ様、では直ちに、あの男を捕縛するための、鉄壁の檻――いえ、最高監獄仕様の迎賓室を準備させましょう! 窓には魔力封じの格子を、床には逃亡防止の術式を!」
「……ええ。……あ、でも、あまりに殺風景だと彼が……その、発狂して使い物にならなくなっても困るから。そうね、寝具は最高級のものを。食事も、彼の精神を蝕むために……彼の好物を徹底的に調査して、それを与え続けなさい。利用価値がなくなっては、負の資産を抱え込むだけよ。目先の問題だけでなく、未来の敵にも備えておかなければ意味がないわ。」
「なんと、そこまで! 好物を与えて精神を弛緩させ、忠誠を誓わせる『美食の檻』ですな! 承知いたしました!」
タキトゥスが、完璧な肯定とともに会議室を飛び出していく。
……大丈夫かしら、これ。
しょうくんを招き入れる準備は整ったけれど、環境が「新婚の甘い新居」というより「豪華な独房」になりかけている気がする。
────
会議を終え、ようやく自室に戻った私は、ベッドに倒れ込んだ。
豪華な天蓋付きベッドの柔らかさが、今の私には唯一の救いだ。
「……はぁ。疲れた。疲れたよー! 本当に死ぬかと思ったー!」
私は枕に顔を埋め、足をバタバタさせる。
公爵としての威厳などない。今の私はただの、夫に会いたくてたまらない新妻・ひなである。そして平和を願う、ただの一国民。
すると、指先にはめていた、この世界の「エカテリーナの指輪」が淡く光った。
これは、レナード――しょうくんと密かに繋がっている、通信用の魔道具だ。魔法の鏡に共鳴させる。
『ひな? 会議、お疲れ様』
大好きな声が響く。
私は跳ね起きて、周囲に誰もいないことを確認してから、小声で答えた。
「しょうくん! 聞いてよ、大変なんだから! あなたを『檻に入れて飼い慣らす』っていう名目で、こっちの閣僚たちを説得したの。……そしたらタキトゥスが、最強の監獄部屋を作っちゃいそうで……」
『はは、檻か。いいよ、ひなの檻なら。むしろ喜んで入るよ』
「もう、余裕ね……。そっちはどうなの? 伯爵領のほうは」
しょうくんの声が、少しだけ真面目なトーンに変わる。
『こっちも崖っぷちさ。僕の父親(大公)が、「エカテリーナの首を取るまで戻ってくるな」って、僕に軍の指揮権を渡してきた。……ひな、これはチャンスだ。僕が軍を率いて、君の城を「攻める」フリをしながら、そのまま君に「捕まる」シナリオで行こう』
「……『狂犬、女公爵に敗北し、生け捕りにされる』……っていうニュースを国中に流すのね?」
『そう。騒ぎを起こせば、国中の視線が集まるし、こっちも派手な事はできないはず。分かるんだ。両親は、かなりの守銭奴だから、脅しだけだってね。それなら僕の家のメンツも、完全に敗北したっていう事実に隠せるし、軍事費も浮く。君の家は「最強の敵を屈服させた」っていう功績が手に入る。そしてすぐに……ひな、君なら僕を捕まえられるだろ?』
彼の言葉に胸が熱くなる。
事故で離れ離れになったあの瞬間、彼は私の手を離さなかった。
今度は私が彼を捕まえ、二度と離さない番なのだ。
「ええ。……絶対に、捕まえてあげる。……でも、しょうくん。一つだけ約束して」
『何?』
「……城に来たら、すぐに二人で美味しいものを食べましょう。……タキトゥスが『拷問用の美食』を山ほど用意してるはずだから」
『……拷問用の美食、ハハハ、楽しみにしてるよ』
彼の笑い声が指輪を通じて心地よく響く。
私たちは、最前線で対峙する「宿敵」でありながら、その裏では、誰よりも深く結ばれた「共犯者」なのだ。
────
数日後。
ついにその日はやってきた。
アスガルド領の境界に、レナード伯爵率いる漆黒の騎馬隊が現れたという報せが入った。
私は銀の鎧に身を包んだタキトゥスを引き連れ、城のバルコニーに立った。
遠く、砂塵を上げて迫りくる軍勢の中央に、黒い馬に跨がったしょうくんの姿が見える。
彼は抜剣し、太陽の光を反射させた。それが、私たちだけの「開始」の合図だ。
「……エカテリーナ様! 来ましたな、あの狂犬め! 伏兵の準備は完了しております。あの男が橋を渡った瞬間、一気に包囲し、ひれ伏させてやりましょう!」
タキトゥスが、殺気に満ちた声で叫ぶ。
私は彼の隣で、誰にも見られないように小さく唇を噛んだ。
(……待ってるわよ、しょうくん)
私は右手の指先で自分の首筋に触れた。そこには、昨夜彼と魔導通信で打ち合わせた「捕縛の合図」を待つ、私の鼓動が激しく刻まれている。
「――全軍、構えなさい!」
自身の声が、アスガルドの空に響き渡った。
戦場という名の、私たちの「再会」へのカウントダウンが始まったのだ。
宿敵を討つためではなく。
愛しい夫を、今度こそ奪い去るために。




