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昨夜の夜会、あの部屋で交わした熱い口づけと、愛しい夫の体温。
目覚めてもなお、私の唇には「しょうくん」の感触が鮮明に残っていた。鏡に映るエカテリーナとしての冷徹な貌とは裏腹に、胸の奥では「ひな」としての私が、彼への愛おしさで今にも張り裂けそうになっている。
けれど、現実は無慈悲だ。
朝一番に、あの忠実すぎる「勘違いのプロ」ことタキトゥスが、私のベッドサイドで悲壮な決意を口にした。
「エカテリーナ様。レナード伯爵から届いた『呪いの宣誓書(ハートマーク付きのラブレター)』……。あのような卑劣な精神攻撃を許した私の不徳、万死に値します。本日の三日月谷での会談、私がこの身を盾にし、あの狂犬の牙から必ずや主をお守りしてみせましょう」
銀色の鎧をこれでもかと磨き上げ、タキトゥスはまるで死地へ赴く聖騎士のような形相をしている。彼の後ろに控える兵士たちも、殺気立っていた。彼らにとって、レナード伯爵は我がアスガルド領を脅かす、最も忌まわしき敵なのだ。
(……違うのよ、タキトゥス。あの手紙は、彼なりの精一杯の愛の告白だったのよ。そして今日の会談は、私たちがこの不毛な争いを終わらせて、もう一度夫婦に戻るための『作戦会議』なの)
喉元まで出かかった言葉を、私は奥歯で噛み殺す。今の私は、弱みを見せれば一瞬で食い殺される「氷の女公爵」を演じ続けなければならない。愛するしょうくんを、この世界の「敵」という呪縛から解き放つためにも。
「出発しましょう、タキトゥス。……レナード伯爵には、相応の『対価』を支払っていただくわ」
私はわざと冷たく言い放ち、豪華な装甲馬車へと乗り込んだ。
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三日月谷。
断崖絶壁に囲まれたその場所は、かつて多くの貴族が血を流した歴史を持つ。
そこに、漆黒の軍装に身を包んだレナード伯爵の一団が、黒い霧のように待ち構えていた。
「氷の女公爵、エカテリーナ。……よくぞ逃げずに現れたな」
馬から降り、悠然と歩み寄るレナード――私の愛する夫、しょうくん。
その琥珀色の瞳は、遠目には冷酷な光を放っているように見える。けれど、距離が近づくにつれ、私には分かった。彼の指先が、わずかに震えている。緊張した時にネクタイの結び目を探る、あの癖を必死に抑えているのだ。
「レナード伯爵。我が領の街道を封鎖し、あのような『無礼な手紙』を送ってきた無作法、許し難いですわ。本日はその落とし前、きっちりとつけていただきます」
私はタキトゥスの肩越しに、鋭い視線を投げかける。
周囲の緊張は限界に達していた。両軍の兵士たちは、どちらか一方が剣を抜けば、即座に殺し合いが始まるような構えだ。
「……ふん。ならば、当主同士、腹を割って話そうではないか。……タキトゥス、貴殿も下がれ。これは『当事者』だけの問題だ」
しょうくんの低く響くバリトンボイスに、タキトゥスが激しく反発する。
「断る! 貴殿のような卑怯な呪術使いに、我が主を一人で預けられるか!」
「……タキトゥス、下がりなさい」
私は冷徹な声で制した。
「ですが、エカテリーナ様……!」
「私の命令が聞けないのかしら? 向こうも側近を下げさせるわ。……これは、アスガルドの誇りを懸けた戦いよ。手出しは無用」
私はタキトゥスの目を見つめ、無言で「信じて」と訴えた。彼は苦渋に満ちた表情で一礼し、渋々と距離を取る。レナード側の側近たちも同様に、主君の威圧感に押されるようにして下がっていった。
ようやく、私たちは「二人きり」になった。
……外は見渡す限り、敵味方の兵士が固唾を呑んで見守る、奇妙な静寂の中での密会。
一歩、しょうくんが近づいてくる。
その距離が、政治的な交渉の限界を超え、恋人同士の距離に入った。
「……ひな。怖かっただろ、ごめんな」
囁かれた声は、昨夜よりもずっと深く、切実な愛に満ちていた。
「……しょうくん。私こそ、ごめんなさい。私の側近が、あなたの手紙を『死の呪い』だなんて勘違いして……自害しかけたのよ」
「マジかよ……。僕、君のお母さんとの約束を果たすために、君を世界で一番甘やかそうって決めて手紙を書いたのに。まさか宣戦布告扱いされるなんて。頑張って考えたんだが、やっぱり暗号なんて、難しいよ……」
私たちは、お互いに「冷酷な宿敵」の仮面を被ったまま、唇だけで愛を語り、現状を打破するための情報を交換する。
「しょうくん、聞いて。私の家族と閣僚たちは、この会談であなたが折れなければ、即座にあなたの領地の補給路を断つ準備をしているわ。戦争は本気よ。彼らはあなたを『狂犬』だと思い込んで、殺す気でいる」
「僕の方も同じだよ、ひな。僕の父親……現・大公閣下は、君のことを『血も涙もない鉄の女』として、その首を狙っている。僕が君を逃がしたりすれば、僕自身が反逆罪に問われかねない」
絶望的な状況。前世で、飛行機のモババテ爆発という理不尽な死を経験した私たちに、神様はまたしても「お互いを殺し合う」という残酷な運命を与えたのだ。
「……ねえ、しょうくん。私たち、また死ぬのかな? せっかく再会できたのに、今度は敵同士として、家族や領民のために殺し合わなきゃいけないの?」
私の声が、わずかに震える。エカテリーナの氷の瞳が、涙で潤みそうになる。
その時、しょうくんが強引に私の手を取った。
側近たちがいれば、まるで伯爵が女公爵の手を捻り上げ、恫喝しているように見えただろう。
けれど、その手は、かつて新婚旅行の機内で「大丈夫だ、離さないから!」と叫んだ時の、あの力強く温かい手のひらそのものだった。
「死なせない。絶対にだ。……ひな、これは『話し合い』だ。この世界のルールに従って、僕たちが生き残るための、最高の『共謀』を始めよう」
しょうくんの琥珀色の瞳が、不敵に輝く。プロポーズの時のような、結婚式の時のような。私が不安な時に力強く支えてくれる。
「……作戦があるんだ。お互いの家族が納得し、かつ、僕たちが公然と一緒にいられる方法が。……ひな、君は『氷の女公爵』として、僕を徹底的に『略奪』し、服従させたことにしてくれ」
「……え?」
「僕も『狂犬』として、君の軍門に降ったフリをする。表向きは戦後処理の『監視』という名目で、僕がアスガルド公爵邸に住み着くんだ。そうすれば、お互いの家族も、面子を保ったまま軍を引ける」
「……それって、事実上の……」
「ああ。『政略結婚』……いや、僕たちにとっては『二度目の結婚式』のやり直しだ」
しょうくんは、私を守るように顔を近づけ、外には聞こえないほど小さな声で、けれど情熱的に言葉を継いだ。
「あの日、僕が誓った言葉を覚えている? 『世界で一番幸せにする』って。……そして、あの日。果たせなかった新婚旅行の続き、この殺伐とした世界で、二人で絶対に完遂しよう。……愛してる、ひな」
「……しょうくん……」
私は胸がいっぱいになり、思わず彼の胸に飛び込んだ。しかし、思ったより、外が殺気立っている気がして離れた。万が一ってこともあるから、あまり無理はできない。ここは魔法のある世界。気を付けなきゃいけない。なにがあるか分からない。
「……わ、笑わせないで、レナード伯爵! 私に服従しろとおっしゃるの!? 誇り高きアスガルドが、そのような条件を飲むとでも!?」
「フン……! ならば力ずくで奪い取るまでだ! だがな、エカテリーナ。貴女のその冷たい瞳……気に入った。……本気で、俺のものにしたくなったぞ」
しょうくんもまた、極上の悪役顔で笑い返す。
外の側近たちは、そのあまりの険悪な雰囲気に、誰もが「もはや開戦は避けられない」と戦慄している様子だった。
けれど私たちの視線は、熱く絡み合っていた。
これは世界を欺くための愛の演技。
敵対する二つの家の当主として、私たちは「共謀」という名の契約を結んだのだ。
「……今日のところは、これで引き下がりましょう。ですが伯爵、次に会う時は……覚悟なさい。あなたのすべてを、私が奪い尽くして差し上げますわ」
「ああ、望むところだ。……楽しみにしてるよ、女公爵」
私は翻り馬車へと戻る。
タキトゥスが「エカテリーナ様! あの狂犬が何か無礼を!? 今すぐあの男を……!」と息巻いて駆け寄ってくるのを私は扇で制した。
「……いいえ、タキトゥス。面白い話が聞けたわ。……あの狂犬を、どうやって檻に入れて飼い慣らすか。その計画を練る必要があるわね」
「……飼い慣らす……? さすがはエカテリーナ様! 敵を殺すのではなく、屈服させて奴隷にするという、なんと恐ろしくも慈悲深いお考え!」
タキトゥスが感極まったように跪く。
その背後で、馬に飛び乗ったしょうくんが、去り際に一瞬だけこちらを振り返った。
その目は宿敵に向けられる殺意ではなく、愛しい妻を慈しむ、あの優しい夫の目だった。
馬車が動き出す。
私は一人、座席に深く身を沈め、自分の頬が赤らんでいるのを自覚した。
(……新婚旅行、異世界編。……次は、私が彼を『略奪』しに行く番なのね。上手くやらなくちゃ)
三日月谷の険しい崖の向こう、沈みゆく夕陽は、まるであの日、見ることができなかった地中海の夕焼けのように、赤く、けれどどこまでも美しく輝いていた。




