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(……え、待って。いやでも……まさかね。にしても彼、側近たちから聞いていたような人物と、少し隔たりが……。私が緊張しているから、間違えてそう聞こえてしまっただけなのかも……。でも、もしかしたら……)


軽い食事で緊張を和らげ作戦のあと……。

遂に始まった。和平協議?


交渉という名の、鋭い言葉の応酬が続いていく。

 彼は完璧だった。一寸の隙もない論理で、私を逃げ場のない角(原稿忘れ)へと追い詰めてくる。

 けれど、議論が白熱し、彼がわずかに言葉を詰まらせた時だった。


(……あら?)


彼は、右手の指先でネクタイの結び目を、ツン、と小さく触った。

 無意識の動作。何度も、何度も。


(……あの癖……やっぱり似すぎてる。絶対おかしい!)


脳裏に、前世の夫の姿が重なる。大事な商談の前、緊張を隠すようにネクタイを弄っていた、あの夫の姿が。

 目の前の狂犬と、記憶の中の愛しい夫。あまりにもかけ離れた二つの像が、その小さな癖一つで急速に結びついていく。


疑惑が確信に近い直感に変わった。


その後の休憩時間?

私は少しだけ彼と距離を置き、そして彼が一人でテラス近くの別室へと入っていくのをこっそりと追いかけた。

ドアの前で聞き耳を立て、彼が、誰もいないことを確認して吐き出したかのような独り言が、決定打となった。


「……はぁ。やっぱり塩より醤油が良かったな。味噌も恋しい……」


(醤油!? いま醤油って言ったわね!? あと味噌!)


私は震える手で、ドアを開け、中へ入った。私がいきなり入ってきて、さっきの態度とは真逆の挙動不審具合の彼。そして座っている彼に近づき、透かさずわざらしく手元のハンカチを床に落とす。


「あら、ハンカチを落としてしまいましたわ」


「お、おっと、危ない。……あ、はい。君のふわろん……」


掛かった。(心でガッツポーズ)

私たちが学生時代、付き合っていた頃から、なぜかお互いにそう呼び合っていた、愛称。


彼は反射的にハンカチを拾い上げ、差し出した。

そして、フリーズした。

私もつられて思わずフリーズした。


「……今、ふわろんって仰いました?」

「……いいや、仰ってない」

「いえ、言った。確かにふわろんって」

「……ああ、ああ! そうだ。幼少の頃から、我が家ではそう呼んでいるんだ(苦しい言い訳)」


冷汗をかきながら、彼は必死に誤魔化そうとしている。けれど、その目は泳ぎまくっている。

私は一歩、彼に詰め寄った。そしてじっと見つめる。凶器の、全てを見透かす冷徹な氷色の瞳で攻撃する。


「さ、さっさと受け取ったらどうだい? エクレア」

「名前、間違えてますわよ」

「あっ……」

終わったと悟ったような表情で、私を見てくる彼。

「……レナード伯爵、一つ聞いてもいいかしら」

「な、なんだ!?」

「……その……あの……『ひな』っていう名前の女性、知ってるかしら? それか、『ひなぴよ』」


「なっ!? ど、どうして、その名を……ま、まさか!?」


彼の琥珀色の瞳が大きく見開かれる。

その驚き方、その表情。もう隠しようがない。


「じゃあ、本当に、しょうくんだったり……するの!?」

「ひ、ひな……。ひななのか!?」


一歩、また一歩と彼が近づいてくる。

けれど、私はまだ信じられなかった。こんなあり得ない奇跡があるなんて。

私は震える声で、最後の一押しを求めた。


「待って。……私の誕生日だけ……言って欲しい」

「ああ、2007年の5月8日だよ。いつも妹のゆいちゃんのせいで、好きな苺のケーキじゃなくて、チョコケーキにされてたんだよね」

私は息を呑んだ。

家族しか知らない、私の誕生日の悲しいジンクス。


「しょうくんは2006年の9月1日。ケーキは嫌いだったよね」

「ひな!」

「しょうくん!!」


私たちは、周囲の目も、敵対関係にあることも忘れ、全力で抱き合った。

宿敵の伯爵の腕の中は、私が世界で一番知っている、大好きな夫の温もりがした。


コンコン。


「「!?」」


その時、無情にも扉が叩かれた。

私たちは瞬時に離れ、身なりを整える。


「入れ」


「……っ、汚らわしいですわ」

私は必死に演技する。

「レナード卿? サラーム卿がお呼びです」


夫は瞬時に、冷酷な伯爵の顔に戻っていた。

「ああ、すぐに行くと伝えてくれ」

極上のイケボで応じる彼。私は笑いを堪えた。

扉が閉まり、向こうで足音が遠ざかるのを確認し、私たちは再び顔を見合わせた。


「今の言葉、演技だよね?」

「当たり前でしょ。酷い事言ってごめんね。」

「でもひな、演技上手だね。僕はもう限界だよ」

「そんな事ない。しょうくんだって上手だよ。それに、私も内心バクバクで。」

「お互い大変だったね。それより最悪なんだよ。僕の家族ときたら、君の家族をどうやって陥れようかと常に考えているんだ。まったく恐ろしい人たちで」

「私の家族もよ。なんて野蛮な人たちなのかしら。理解できないわ」

「ひな、知ってる? 君のお義母さん、僕が結婚の挨拶に行った日の夜、わざわざ僕を駅まで送ってくれたじゃない。あの時、車の中でね、お義母さんが僕に頭を下げたんだ。『うちの娘は、頑張りすぎてしまうところがあるから、もしこの子が疲れて立ち止まっていたら、どうか怒らずに、一緒に美味しいものでも食べて、ただ隣にいてやってください。この子には、弱音を吐ける場所が必要なんです』って。」

「お母さん……」

「お義母さんは、自分がひなに厳しく接してきた自覚があったみたいだよ。本当はもっと甘えさせてあげたかったけど、一人でも生きていけるようにって、つい厳しい言葉ばかり選んでしまった……って、少し泣いてたよ。だから、僕に対して『私の代わりに、世界で一番この子を甘やかしてあげてほしい』って託されたんだ」

母との思い出が胸に込み上げてくる。

少し、涙を流してしまった。

私の両手を優しく取る夫。

「心配はいらない。必ずこの騒動を収めて、また二人でいられるようにしてみせるよ」

私は夫の顔を見て、心から安心できた。


しかし、新婚旅行の続きをするには、あまりにも環境が悪すぎる。


「そうだ、ひな。まずは、二人だけの時間をなんとか作ろう。そうすれば、お互いの家族の手の内を話し合いながら、お互いに一緒にいられる」

「ええ! 賛成よ!」

「でも、今はまずは戻らないと……怪しまれる。……頑張ってね、ひな」

「あ、待って。……しょうくん、ネクタイが」

「ああ、ありがとう♪」


私は、彼の歪んだネクタイを優しく整えてあげた。

「ンフフ♪」

思わずこぼれた笑み。

そして、彼は周囲を警戒しながら、私の唇にそっと、けれど確かな熱を込めてキスをした。


「……また、すぐに」


宿敵の仮面を被った最愛の夫は、そう言い残して夜会の喧騒へと消えていった。


(……よし。新婚旅行の続き、異世界編。絶対に、この殺伐とした状況を生き残って、円満完遂させてやるんだから。)

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