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指先の結婚指輪が機内の照明を反射してキラリと光る。
私たちは初めての新婚旅行に浮き足立っていた。これから始まる甘い生活、十年後の未来、いつか生まれる子供のこと。そんな、ありふれた、けれど最高に幸せな夢を想像しなが……。
「……はぁ、無理。これ、詰んでない?」
鏡の中に映る自分を見て、私は本日何度目か分からないため息をついた。
そこにいるのは、燃えるような真紅のドレスに身を包んだ、絶世の美女。艶やかな金髪に、全てを見透かすような冷徹な氷色の瞳。
エカテリーナ・フォン・アスガルド公爵。
通称、「氷の女公爵」。周辺諸国からは「血も涙もない鉄の女」と恐れられている、この領地の若き女主人らしい。
……いや、誰よ。
中身はただの「元一般人」なんだけど。
私が前世の記憶を思い出したのは、わずか二日……三日ほど前のこと。
本来なら、私は今頃、愛する夫と一緒に、地中海の青い海を眺めながらシャンパンを開けているはずだった。
『君を世界で一番幸せにするからね』
空港を出発した時の、あの浮かれた気分を返してほしい。
幸せの絶頂だった私たちの新婚旅行は、一瞬にして地獄へと変わった。
原因は、誰かが貨物室に持ち込んだ大量のモバイルバッテリーの発火、そして無慈悲な大爆発。
機体に穴が空き、急激に傾く視界の中で、隣に座っていた最愛の夫が必死に私の手を握りしめて「大丈夫だ、離さないから!」と叫んだ。
……それが、私の知る「前世」での最後の記憶。
そして目覚めたら、この殺伐とした異世界の、よりによって「悪役令嬢」みたいなポジションの女公爵に転生していたというわけだ。
「新婚旅行の続きが、なんでこんな殺伐とした世界なのよ!!」
私の叫びは、豪華な天蓋付きベッドの天幕に虚しく吸い込まれていった。
混乱する私に追い打ちをかけるように、側近たちは「隣領のレナード伯爵が、我が領の街道を封鎖しました!」「今夜の夜会で、あの狂犬に引導を渡してやりましょう!」と息巻いている。
今の私の現状。
最愛の夫、行方不明。
代わりに手に入れたもの、広大な領土と、それを狙うハイエナのような敵貴族たち。
そして今夜、私はその筆頭格である「宿敵」と対峙しなければならない。
(あぁ、ダメ……胃が痛い。元一般人の私には荷が重すぎる。……でも行くしかない。女公爵が逃げたら、本当に戦争になっちゃうし。)
私は震える膝を必死に叩き、完璧なポーカーフェイスを張り付けた。
心の中では助けて、と号泣しながら。
荘厳なシャンデリアが、痛いほどに会場を照らしている。私は豪華なドレスに身を包み、背筋を伸ばして歩く。足取りが震えないよう、奥歯を噛み締めながら。しかし最近、歯ぎしりのしすぎで、顎が痛い。胃に続き、体調のコンディションは最悪を極めていた。
(今すぐ帰りたい!)
しかし、私が一歩足を踏み入れると、それまで喧騒に包まれていた会場が、引潮のように静まり返った。
「氷の女公爵がお出ましだ……」
「なんて冷たい目だ。蛇に睨まれた蛙の気分だ」
あちらの側近達が色々と言ってくる。
(失礼ね。私は今、緊張で胃が捻れそうなのを必死で耐えてるだけよ。)
その時、対面の重厚な扉が、左右に大きく開かれた。
(……え?)
一瞬、息が止まった。
現れたのは、漆黒の軍服に身を包んだ、暴力的なまでに美しい青年。
夜を溶かしたような黒髪、理知的な琥珀色の瞳。すっと通った鼻筋。前世の芸能人の誰よりも整ったその男――レナード伯爵が、私を見据え、一歩ずつ近づいてくる。
(かっこよすぎる。……無理。死ぬほどタイプなんだけど……!)
不謹慎だとは分かっている。最愛の夫を探している身で、あろうことか「宿敵」の顔面に、心臓が跳ね上がってしまった。でもどちらかというと、私ではなく、エカテリーナがドキッとしているような感覚に近い。
不敵な笑みを浮かべ、彼が至近距離まで歩み寄る。
「お初にお目にかかる、エカテリーナ公爵。……噂通りの美しさだ」
低く響く、極上のバリトンボイス。
至近距離で見つめられ、私は危うく腰が砕けそうになるのを、精神力だけで食い止めた。そして側近の一人、政策秘書に用意させた原稿を即興で練習してきた。
「……お褒めに預かり光栄ですわ、伯爵。ですが、そのお言葉で私の領土を譲ると思ったら大間違いですこと」
私は精一杯、冷徹な女を演じた。彼に、一瞬でも心臓を奪われたことを悟られてはならない。彼は私の家を陥れようとする非道な「狂犬」なのだから。
……けれど。
「ふっ……貴女のような……その、貪欲な女性に、我が領の富を渡すわけにはいかないな(棒読み)」
……ん?
今、めちゃくちゃ棒読みじゃなかった?
さらに違和感は続く。完璧なはずのライバル貴族の彼が、さっきから会話の合間に、やたらと「ネクタイの結び目」を指でいじっている。
(その癖って……。)
緊張すると、右手の指先でネクタイを少しだけ緩める仕草。
……私は、世界で一人しか知らない。私の夫の「緊張している時の癖」にそっくりだったからだ。




