本音
「いやいや、だって母さんが作ってないって言うんだったら一体誰が…」
この家で料理ができ、あの雑炊を作る事ができるのは母さんしかいない。
だって、あの雑炊は間違いなく母さんが作ってくれていた誰にも真似できない懐かしさのある味だった。
「…夢でも見たんじゃないのぉ?」
最初こそ困惑していたものの、俺が冗談を言っていると思ったのかうっすらと笑っている。
「いや……そんな」
「なーに。そんなにお母さんの雑炊食べたかったの〜」
自慢げに笑い、萎縮している俺の方を見た。
時々発症する、母さんのからかいは話せば話すほどエスカレートしていくばかりなので、これ以上突き止めるのを辞めて自分の部屋に戻った。
…だとしたら、一体誰が…。
…本当に夢を見ていただけだったのか…?
自分に起こった出来事に頭を抱え、到底ぐっすりと眠る事が出来る様な状態じゃなかった。
しかし、体育祭がもう目前に迫っており明日も学校を休むわけにはいかない。
きっと、身体がまだ不調子だから、変な夢でも見たのだろう。そう自分に言い聞かせると、思いの外自然に悩みの種が飛んでいき、眠りについた。
「……」
「…もぅ…ねた……?」
誰かに話しかけられたのか…?夢と現実の狭間から誰かに声を掛けられた気がした。無性にその声に返事をしたくなって、俺は眠りから目を覚ました。
「…おはよう」
「「………っ!?!?」」
目を覚ますと、部屋は暗く、はっきりとは見えないが確かにひなの顔が、視覚いっぱいになるまで迫っていた。
それに、ひなの吐息が顔に触れているのを感じた。
お互い思いもよらない事に出くわしてしまった驚きで時が止まったかの様に硬直していた。
「……おはよう」
気まずさを誤魔化す様な顔を作り俺を見つめている。
ひなは俺に何をしようとしていたのか。
目を覚ますと嫌っている兄の布団の上で何故か妹が四つん這いになっている。
これは、隕石が自分の家に落ちてくるぐらいの何十億分の一と言う奇跡を遥かに超える事象が今目の前で起こっている事を意味する。
「…あ、ごめんなさい」
普段、隣の部屋から聴こえてくる太陽の様な明るい声とは違って、今にも切れてしまいそうな、細い声で謝り、そっと布団から離れた。
「…何か俺に用でもあったんじゃないのか?」
ひなが俺の部屋に来た記憶がここ最近は残念ながら思いつかないが、少なくとも小さい頃は何か伝えたい事だったり見て欲しい事があれば俺の部屋によく来ていた。
俺と目を合わせたくないのか、ひなは床を見つめて小さく口を開いた。
「……ご、ごめんなさい…」
「いや、さっきの事は俺も少し驚いたけどそんな何回も謝らなくていいよ」
「そうじゃなくて…」
何か他に言いたい事があるのか、その言葉を口に出してしまうのを恐れているのか、弱々しい声になっている。
それ程思い詰められるほど俺に何かしてしまったとしても当の本人は全く見当がついていない。
「…か、かさ」
「傘…?ぁあ、昨日の傘ね…昨日の帰りは大丈夫だった?」
「……」
「…いやぁ〜まさか母さんの予報が当たるとはなぁ…」
「……」
「今日は昨日の雨が嘘の様に晴れやがって……許さんぞ!天気の神様っ!」
「……」
「でも、今日晴れてたって事は空に虹がかかってんじゃない?い〜な〜。俺も虹をこの目で見たかった〜」
「……」
俺の一人語りが止まると、静かな時間が部屋全体を包みこんでしまった。
「…なぁ、ひな。もしひなが傘を貸した事を気に病んでいるならそれは余計な悩みだ。ひなが勝手に俺の傘を借りたならともかく、俺がひなに貸したくて傘を貸したんだ」
「…!でも、私が傘を借りなければ!」
「それは、違う。単にお兄ちゃんが学校に傘があったにも関わらず傘も持たずに帰ろうとしたからこうなったの。ひなが何か責任を負う必要は−」
「嘘。お兄ちゃんは学校に傘なんて置いてなんてなかった……それを知ってて、私は傘を借りたの。だから!私が悪いの!私がお兄ちゃんに甘えてしまったから!」
「いつも、いつもお兄ちゃんばかりに迷惑かけて!きっとお兄ちゃんもこんな無愛想な妹より愛嬌のある妹の方が良かったに決まってる…!!」
「…そんな事想ってたのか。だか残念だ。俺はお前が妹で良かったとずっと思ってる」
「…そんな都合の良い言葉…信じれるわけがないよ!」
「だって、そうでしょ!!今日だって私はお兄ちゃんが風邪を引いて辛い思いをしてる時も何もできなかった!お兄ちゃんに迷惑ばかりかけて……もう嫌だ…」
兄に甘えた自分の幼さと、自分の力ではどうしようもできない空虚感に苛まれ、後悔の波に飲み込まれているようだった。
「…雑炊」
「……っ」
「美味かった」
「……え」
下を向いていた顔が少し動いたような気がした。
「母さんに聞いても作ってないって言うからさ、幻でも見てたんじゃないかって思ってたんだけどさ…」
自分でも可笑しな事だと思いながら話を続ける。
「その雑炊にはさ、鰹節が振りかかってたんだ。もう、ずいぶん前の事だけど…」
−十年前
これは、家族分のお皿に豆腐を俺が出して、ひなが最後に醤油をかけていた時だった。
「…お兄ちゃん!最後にこれ!これかけよー!!」
「…ダメ!絶対にダメ!」
ひなの小さな手には強く握られていた、鰹節の袋があった。
「なーんーで!!かつおさん踊らせたいからかけるー!」
「これは俺のだから!かけなくていいの!」
「むー!いやだ!いやだ!お兄ちゃんのとうふにもかけるの!」
俺はこの頃、口の中でくっ付く鰹節が好きではなかった。
それとは反対にひなは、鰹節がゆらゆらと揺れる姿を見るのが好きだった。
冷たい豆腐にかけたところで鰹節はゆらゆら揺れないと言うのに。
だが、その頃から、ひなは何でもかんでも鰹節をかけては、ゆらゆら揺れている姿をまじまじと見てケラケラと笑っていた。
「…こんな事あったの覚えてる?」
「……」
声に出さずゆっくりと首を縦に振った。
「…すげぇ嬉しかった」
「……それも嘘−」
「…兄のため愛情こもった雑炊を作ってくれる妹なんて世界中探してもいないに決まってる」
「……」
「俺はこんな思いやりのある妹が居てくれて幸せ者だよ」
「……っ…、………ぅ……」
今まで溜まりに溜まっていた苛立ち、痛み、妬み、喜び、沢山の感情が入り混じった苦しみの涙がとめどなく流れていた。




