傘
「そうだった傘…」
今日の朝、ひなに貸したんだった。どうせ母さんの事だから、念の念の為に言っていたと思っていたのに…まさか的中してしまうとは。
母さんの事を信じなかったばちが当たったのか、俺の思いとは裏腹にいっそう雨足が強くなり、矢の如く地面めがけて放たれている。
まぁ…これでひなが濡れず無事に家に帰ってくれれば、俺はそれでもう……。
「なぎせーんぱーい!」
そんな時、背中から、この重い雨雲を吹き飛ばしてしまいそうな明るい声が聞こえた。
「…ぁあ、誰かと思えば佐藤か」
誰かと思えばなんて言っても、俺を先輩などと呼んでくれる人物は考えなくても一人しかいなかった。
「あー、今凪先輩私だと不満そうって顔してるー」
不満げに頬を膨らませ、こちらを鋭い目つきで睨んでいる。
「いやいや、俺は今日もこうやって可愛い後輩と帰れて幸せ者だよ」
「…そう言いながら最近は私一人で帰ってたんですけどー」
「ぁ、それは、あれだよ。な?メールでも送っただろ?友達と帰る予定があったって」
なぜか俺と佐藤とは放課後一緒に帰ると言う、誰もが理解し難い習慣が存在していた。時には、一緒にご飯を食べ、時には、寄り道しながら帰ると言った、七色の青春を謳歌していた。
しかし、最近は予定もあった事から、メールを通じ、放課後帰れない事を伝えていた。
「むー。どうせ、私と帰るのが嫌になって、居もしない友達と帰るなんて嘘ついているに決まってる!」
珍しく悲観的な佐藤の目には何か浮かび上がってくるものがあった。
いや、待て。そんな事より、居もしない友達と言う非常に棘のあるワードを言う辺り、いつも通りの生意気さは健在だった。
「おい、後輩。残念だったが、俺はこう見えても友達の一人や、二人ぐらいは居るんだな」
「へー。そうなんですかー。そりゃまぁ、一人や二人ぐらいは誰でもいるでしょうし…」
「あーいや、違う!一人や二人って言うのは…少なくともこれくらいは友達いますよーって言う表現の一種であって、実際は何十人も-」
「…凪先輩」
「ど、どうしたんだよ」
「大丈夫です。後輩と先輩かもしれませんが、私は凪先輩のこと友達だと思ってますから」
「全く慰めになってない!」
むしろ、開いた傷口を余計に広げている。棘のある言葉が傷口に深く刺さった。
「で、先輩はこんな所に突っ立って何してるんですか?」
「え?ぁあ、雨止んでくれって願ってた」
佐藤と訳のわからない話をしていたせいで、俺も訳のわからない事を口に出していた。
「…なるほど…凪先輩、傘忘れたんですね?」
口角をあげ何だか嬉しそうな表情で、こちらを観察する様に見ている。
「…まぁ…そういう事になる」
妹に貸して傘持ってこれなかった、なんて言ってしまえば、佐藤は俺をめいいっぱい存分に、からかうに決まってる。
「そのまま帰ると雨に濡れちゃいますし、そのまま帰る訳にはいかないですよね〜」
「まぁ、そうだな」
「そうは言っても、この雨の強さだと…直ぐには止みそうにはないですよね〜」
「……佐藤?お前何かたくら−」
「…私の傘に入りますか?」
「え……いや、それは佐藤に迷惑をかけるからやめておく。その心遣いはありがたく頂きます」
俺を散々からかっている佐藤だが、容姿、コミュニケーション、人柄の良さから同学年はもちろん、他学年でも人気がある。
そんな人物と、どこの誰かも分からない俺が一緒の傘に入って下校している所など目撃されてしまえば…。
「またそんな事…そのまま帰ったら、先輩が雨に濡れちゃいますよ?」
「俺は大丈夫。足は速いからな」
非難の言葉の嵐に飲まれるくらいなら、これぐらいの雨の方が、俺にとっては楽だった。
「…50メートル走何秒ですか?」
「…7秒」
「うそ、9秒」
「ゔぅ……はい」
「先輩、前に体力テストの話を私にしてたの忘れたんですか」
「だとしても、記憶力すごすぎないですかね」
確かに、体力テストの話を佐藤に持ちかけた事はあったけれど、そんな事いちいち覚えてるなんて思ってもいなかった。
「別に記憶力は良くないです。先輩だから…」
「ん?」
「…!?だから!先輩は足、遅いんですから、黙って私の傘に入りなさいっ!いいですかっ!」
「……」
間髪を入れずに話したせいか、顔をイチゴの様に赤く染め、なぜか恥ずかしがる様にこちらの目線を逸らしている。
「俺が佐藤の傘に入ったからって、何か得する事がある訳でもないのに…どうして」
もう俺の心は、本当に佐藤が気にしていないならば、傘に入っても良いんじゃないかと傾いていた。ただ、俺は何言われようが良くても、佐藤の本心がまだ分からないので、最後の一歩が踏み出せずにいた。
俺の様な、陰でヒソヒソと学校生活を過ごしているのではく、スポーツ万能、学力優秀、容姿も整っている、人気な奴だったら、佐藤の傘に難なく入る事が出来たのだろうが…。
「…それは……先輩最近元気無さそうだったから……そんな先輩を……元気付けたい!からって理由じゃダメですか…?」
「…!!」
俺は、こんな下向きな俺が嫌いだと思った。
目の前で、上を向き振り絞りながら出した一言一言の大きな言葉に、俺の弱さを痛感させられた。
いつもは、冗談めいた事ばかり言い、幼さを覗かしていたが、こういう時は人が変わったかの様に俺の何倍、何十倍も、大人で、勇気があって、そのギャップに俺は惹きつけられていた。
「…ありがとう。あれ、と言うか先生に呼び出されたんじゃなかったのか?」
「あ、はい!私、副委員長に推薦されましたっ!」
厚い雲を一瞬に吹き飛ばしてしまいそうな屈託のない笑顔に目が離せなかくなっていた。
−あと、何故か次の日風邪をひいた。




