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倭鏡伝  作者: あずさ
10話「静かに鎮め夕月夜」
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8封目 私の太陽

 そこは、薄暗い部屋だった。

 夏の割に冷えた空気に触れ、ルナは小さく身震いする。


 ――ルナ自身は一から造られた存在ではない。

 母親の腹から生まれてきた。

 それでも奇妙な懐かしさを感じずにはいられない。

 全てはきっと、こういう場所から始まったのだ。

 獣人が造られた時点で、全ての歯車は動き始めていたのだ。


「……よく選んだな」

「…………」


 ルナはすぐに振り返ることはなかった。そこにいたのはわかっている。

 相手も特に隠れていたわけではない。ただ声を掛けるタイミングに迷っていたのだろう。

 声の調子、息遣いからもわかる。


「大樹のお兄さん、ですよね。……それとも王と呼んだ方が?」

「どっちでもいい。どっちも俺であることに変わりない」

「……そうですか」


 曖昧にうなずき、ルナは小さく笑った。

 葉が怪訝に眉を寄せる。


「大樹と似てないですね」

「……よく言われる」

「けど同じです」

「?」


 彼もきっぱり言う人だった。

 言い方は似てないけれど、迷いもなく自分の名前を褒めてくれた。瞳を綺麗だと言ってくれた。信じると言ってくれた――。


「……本当にいいのか?」


 気遣うような声音で現実に引き戻される。

 ルナは顔を上げた。葉の表情は厳しい。


「出来るだけ丁重にはする。それでも……結局は実験だ。痛いときも苦しいときもある。耐えられなくなるかもしれない。……そもそも失敗する可能性だって……」

「いいんです」


 はっきりと。もう、迷いはない。決めたことだ。


「……どうせ、もう私に居場所は残されていません」


 ヒトに見つかった。仲間に追い出された。自分は独り。

 もう、残された道はここしかない。ここでしか生きていくことは出来ない。

 葉は目を細めた。わずかに顔を伏せる。


「恨むなら俺を恨んでおけよ」

「え?」

「こうなったことを恨むなら……その原因を憎むなら、それは俺にしてくれ」


 そう言った彼は真剣で。

 ルナは思わず微笑んだ。彼はやはり大樹の兄だ。優しいヒト。


「弟思いなんですね」

「いや……」

「……私は恨んでなんかいません。本当に」


 恨むことなんて出来なかった。全てを恨んでしまった方が、いっそ楽だったのかもしれないけれど。


「私はずっと暗闇の中にいました。楽しいことも希望も見えなくて、――生きていることにすら疑問を抱いてしまいそうな毎日で」


 森の奥でひっそりと隠れ、獲物を食らい、ただただ生きる毎日。

 生まれたときからそれが当たり前のはずだったのに、なぜか満たされることはなかった。

 何かをずっと焦がれて、けれど諦めて。

 それはもしかしたら父のせいだったのだろうか。

 ヒトである父が、ヒトであることを教えてくれたから。

 獣とは違う温もりを教えてくれたから。

 それとも、この血に眠るわずかなヒトの部分がずっと訴え続けていたのか――。

 それは今でもわからないけれど。


「そこに太陽が現れて、周りを明るく照らしてくれたんです。太陽は外の世界を見せてくれました。笑顔を思い出させてくれました。大樹は……私にとって太陽だったんです」


 温かい、明るい太陽。心のどこかでずっと焦がれていた太陽。

 ただ――その太陽は優しすぎた。明るすぎた。


「太陽は私たちの血に染まった場所すら明るく照らしてしまいました。……だから私、怖くもなったんです。眩しすぎて……私はいつか、その太陽まで血で汚してしまうんじゃないかって。自分の手で曇らせてしまうんじゃないかって……」


 それだけは嫌だった。それだけは怖かった。

 大樹が腕を怪我したとき――そのせいで彼に襲い掛かってしまったとき、心底自分の血を責めた。自分に嫌悪した。

 大切なヒトを襲うのは、もう、過去だけでいい。


 だからこの話にも乗ったのだ。こんな自分を変えたくて。

 ――今度は、大切なヒトを守れるようになりたくて。


「それに……ここで諦めてしまったら、私は二度と……どんなことをしても輝くことは出来ないんじゃないかと思って……」

「……参った。強いもんだな」

「太陽が強くしてくれたんです」


 微笑を浮かべた葉に、さらに微笑み返す。


「太陽が照らし続けてくれる限り、月は何度だって輝いてみせます」


 ――交渉成立。

 きっぱり言い切った自分に、葉は軽く息をついた。

 安堵したような、けれどどこか悲しげな様子で。


「……このまま研究室に行く前に、一度、倭鏡をしっかり見ておかないか?」

「え……?」


 葉がカーテンを開き、窓を開ける。

 とたんに薄暗い部屋が明るさに包まれた。

 窓から身を乗り出せば、視界一杯に広がる青空。緑。小さな家々。

 のびのびとした世界が、そこにはあった。


 その中に自分たちはいた。

 自分も、他の獣人も、大樹も、他のヒトたちも。


「……やっぱり広いんですね」


 いつか、思い切り駆け回ってみたい。もっともっと見てみたい。そんなことを思う。


「……もういいか?」

「はい。ありがとうございました」


 頭を下げ――もう一度だけ目を向けた瞬間、何かが視界の隅に引っ掛かった。

 思わずまた身を乗り出す。

 動いている何か。走っている、何か。


「だい……き?」


 見間違えるものか。けれどなぜ彼が?


「何だって?」

「あそこに……」

「……結界を破ったっていうのか?」


 葉が目を細めて呟く。

 彼が何を思っているのか、ルナにはよくわからなかった。

 ただ妙に心が騒ぐ。

 大樹が走ってくる。ここへ向かってくる。もう、別れを告げたはずなのに。


「……下に行くか」

「え?」

「どうせ研究室に行くには一旦降りるわけだし……それならチビ樹が上まで来る必要はないだろ」

「そう……ですね」


 うなずきながらも動揺を隠せない。


(大樹……)


 ――何であんたは、そこまで必死になれるの?


「……大した根性じゃねぇか」


 そう呟いた彼の口調は、どこか楽しげだった。



◇ ◆ ◇



 走って走って、とにかくひたすら走って。

 感覚がおかしくなりそうだった。

 それでも止まらない。止められない。

 自分に今一番出来ることは、とにかく走ることだと思うから。これが今自分に出来る精一杯のことだと思うから。


 辿り着いた建物のドアに寄りかかる。

 大樹は体重を乗せるようにしてドアを開けた。

 それほど新しくない戸なのか、ギシギシと錆びたような音がする。


「大樹……」

「春にぃ……ルナは……」


 何とか呼吸を落ち着けようとする自分に、中にいた春樹が駆け寄ってくる。

 彼の瞳は心配に染まっていた。


「大樹、大丈夫か?」

「だい、じょぶ……っ」


 苦しい。けれどそんなことは気にしていられない。

 会わなければ。ルナに会わなければ。


「ルナさんは葉兄と上の階にいるよ」

「うえ……」

「大樹! 話し合いが終わればちゃんと降りてくるから!」

「だって……!」

「今無理したら会う前に倒れるだろ!」


 腕をつかまれたまま叱咤される。

 大樹はズルズルと座り込んだ。

 もう限界がわからない。足が重たい。震えて思うように動かない。

 荒く息を繰り返していると、春樹が顔を覗き込んできた。


「……結界破って、ここまで来て。大丈夫。おまえは頑張ったよ」

「……はるに……」


 彼の笑顔に、無性に泣きたくなった。

 ――駄目だ。まだ終わっていない。終わらせてはいけない。

 泣いている場合では――。


「……大樹」

「ル……っ」


 静かに現れた少女の姿に、大樹は慌てて立ち上がった。

 ふらついたが春樹が支えてくれる。


「ルナ……!」


 その名を口にしたとたん、薬のように苦いものが込み上げた。


 行くな、とか。実験なんかする必要ない、とか。

 言いたいことはたくさんあった。全部ぶちまけてやろうと思った。

 けれど、彼女を目の前にした瞬間、それは音もなく崩れ去ってしまって。

 それはまるで、小さな掌から砂が零れ落ちていくように。水が流れ落ちていくように。


 ――どうして言える?

 彼女の真剣な、揺るぎない瞳を目の前にして。出会ったときと同じように真っ直ぐなその瞳を見て――自分が余計なことを言うなんて出来ないではないか。

 大樹はぎゅっと拳を握り締めた。

 ルナに歩み寄る。彼女がわずかに身体を強張らせたのがわかった。


「ルナ……手、出して」

「え……」


 彼女は瞬き、恐る恐る両手を出す。

 大樹はそっと手を開いた。

 転がり落ちてくる――桃色の光と、袋に入った星の数々。


「これ……」

「へへっ。かんざしとコンペイトウ! コンペイトウ、好きだったろ? 頑張ってまたもらってきたんだぜ! 色んなお店行って!」


 こんなことしか、浮かばなかったけれど。

 こんなことしか、出来ないけれど。


「ルナはバイバイって言ったけど……オレは言わない。ぜってぇ言ってやらない」

「大樹……?」

「だってオレ、ワガママだからっ……」


 だから。

 別れの挨拶なんか、言うもんか。バイバイなんてするもんか。


「オレ……またいっぱい持ってくるから! 他にもルナの知らないもの、たくさん教えるから! だから……だかっ……」


 言葉に詰まる。これ以上言うと泣き出してしまいそうだった。

 けれど、出来るなら笑顔で見送ってやりたい。

 目の前の彼女は、自分で自分の道を選んだ。

 それなら、精一杯に応援してやりたい。


「……ありがと、大樹」


 ルナが微笑む。

 かんざしとコンペイトウを嬉しそうに握り締めて。


「…………っ」

「ね、大樹。泣きたいときに泣けることも必要だけど……でもやっぱり、大樹は笑っているのが一番いいよ。だから一度思い切り泣いたら……次には、ちゃんと笑ってみせてよ。――だって」


 金色の光が輝く。とびきりの笑顔。


「大樹は私のお日さまなんだから」



◇ ◆ ◇



 ――眩しいほどの笑顔を残し、ルナは葉と共に外へ出て行った。

 出て行く間際、葉が「時々なら面会も大丈夫だろ」と言っていたのが救いだ。

 それなら約束を守れる。これからもたくさんのことを教えられる。バイバイとは言わなかったし、また会うことが出来るのだ。

 それなのに。


「……っふ……ぅ……っ」


 なぜか、悲しみが込み上げてくるのを止めることは出来なかった。


「大樹……」

「はるに……っ」


 心配そうに覗き込んできた春樹にしがみつく。

 今、誰にも顔を見られたくなかった。きっと、すごく情けない顔をしている。


「ごめっ……今だけだから……」

「……うん。いいよ?」

「…………っ」


 ルナが言ったように、一度思い切り泣いたら、すぐに笑ってみせるから。

 ちゃんと笑えるようになるから。

 ――今は、この気持ちを洗い流そう?

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