2封目 むかしむかし、あるところのお話
「ふざけんなよっ!!」
――そう言って勢いよく立ち上がったのは大樹だった。
彼は顔を赤くして懸命に睨んでくる。
「ふざけんなよ葉兄! こんな……こんなときにくだらない冗談なんか言ってんじゃねーよ!」
「……葉兄。僕もそう思うよ。今のは笑えない」
大樹よりずっと落ち着いた様子で、春樹も淡々と諫めてきた。
彼は飲み物に口をつけ、一息つく。
それから自分と拓真を交互に見やった。
「僕は瀬名さんのことなんて知らないし……余計なことは言えないけど。でも、一からちゃんと説明してくれないと。そんな言い方じゃ拓真さんも納得出来ないよ」
「……そうだな」
ため息と共に肩の力を抜く。
それにしてもこの弟は本当に中一だろうか。何なんだ、この落ち着き。
「確かにこのままじゃ語弊があるだろうな」
「それってどーゆう……」
「まあ待て? 一から話すにはちょっとややこしくなる。……そこで、一つの条件だ」
「条件?」
もどかしそうに拓真が顔をしかめた。
彼としては何でもいいからさっさと話してほしいのだろう。
それは大樹も同じらしく、彼は渋々と再び腰を下ろした。少々ムスッとしている。
「条件は簡単だ。これから俺が一つの話をする。それを信じること」
「……? 話?」
「――あるところに、“倭鏡”という一つの世界がある」
「葉兄!?」
再び話を遮ったのは大樹だった。今度の彼は顔が青い。
「何で……!」
「チビ樹は黙ってろ」
「でも!」
「うるせえ」
きっぱり言い放つと、今度こそ彼も黙り込んだ。
しかし表情が泣きそうに歪む。
春樹が立ち上がりかけ――それも葉が制した。
拓真だけがきょとんとしている。
大樹の様子に全く良心が痛まないわけではなかった。
だが今は仕方ない。
葉は息を整え、改めて口を開いた。
「その“倭鏡”というのは俗に言う異世界だ。言語や地形も日本と酷似している。そんな共通点が多数あったせいか、元々日本と倭鏡は繋がりやすかったんだ」
「それは……何? 物語なわけ?」
「いいから聞けよ。質問は後だ」
話はまだ終わっていない。これからだ。
「あるとき、一人の……世の中に絶望した少女が倭鏡へ入り込んでしまった。今まで、いくら繋がりやすいといっても本当に人が世界を渡ったことはなかった。だからこの原因は今でもはっきりしていない。あえて言うなら、少女の強すぎる願いが二つの世界を引きつけたんじゃないか、というのが定説だ。それほど少女の心は救いを求めていた――……」
ひょんなことから異世界へやって来てしまった少女は目の前の光景に驚いた。
溢れる緑や楽しそうな子供の声。
のんびりと会話を交わす人々。
動物たちだって笑い合っているような気がする。
――これは夢?
少女のよく知る光景ではなかった。
少女はこんなに平和な空気を知らない。
こんなに光で溢れ、眩しくなってしまうような世界を知らない。
――夢なら醒めないで。
こんな世界をいつも描いていた。いつも追い求めていた。だから。
『どうしました?』
突然声をかけられ、少女は身をすくめた。そして恐ろしくも思った。
振り返った先に待っているものは何だろう?
天国? 地獄? それとも――それよりひどい現実の世界?
『あの……』
震える声で振り返った先には、一人の男性。
スラッと背の高い彼は、少女と目線を合わせるように軽く屈んだ。
柔らかく、優しく微笑む。今まで少女が見たことのないような笑顔で。
『大丈夫ですか?』
なぜか、泣きたくなった。
ああ、ああ……どうか夢なら醒めないで――。
「――倭鏡の王と出会った少女は恋をした。王の方も少女に惹かれた。こうして二つの世界はひっそりと繋がっていたんだ。……少女は一人の親友を除いて、このことを口外しようとはしなかった。倭鏡の存在が知れて、その場が荒されることを恐れたんだ。倭鏡は一種の桃源郷みてーなもんだったからな」
「桃源郷……」
「ただ……結局二人が結婚することはなかった。少女は現実を、……強く生きることを選んだんだ。王もそれを止めようとはしなかった。きっと少女の気持ちがわかったんだろ。
そうして月日が流れ、少女も大人になり、別の男と結婚した。子供も生まれ、その子供も結婚し……とうとう孫が出来た。……その頃になって急に懐かしくなったんだろうな。少女だった彼女は、孫に倭鏡の話をするようになったんだ。孫の方もその話を喜んだ。何度だって聞いた」
『ねぇ、おばーちゃんは倭鏡が好きだったの?』
『もちろんだよ』
あの空気も、あの空も、海も、星も、緑も。あの人も。
彼女は忘れたことがなかった。忘れられるはずがなかった。
だから今もこうして話す。本当に信じられる相手に。
『倭鏡にはね、不思議な生き物もたくさんいるんだよ』
『ウサギさんは?』
『小さいのから大きいのまでいるよ。フワフワでまん丸なウサギもいたかな』
『可愛い?』
『すごく』
そう言うと、目の前の少女はキラキラと瞳を輝かせた。
そして最後は必ず笑顔で言うのだ。「私も行きたい」と。
そうやって純粋に話を聞いてくれるのが嬉しかった。
無邪気に喜んでくれるのが好きだった。
だから彼女は笑う。
あのとき、倭鏡にいなければ出来なかったであろう笑顔で。
『いつか、百合ちゃんも行けるかもしれないね』
『本当?』
『本当。あそこは、百合ちゃんみたいに純粋な子が行きやすいからね』
『行けたらいいなあ』
そう笑う孫娘の笑顔は本当に純粋で。
彼女は眩しさに目を細め、そっと微笑んだ。
「――そうして、孫は倭鏡に多大な興味を持つようになった。それは倭鏡の方も全く同じだった。王の方にも孫が出来たんだな、男の。……そして互いに関心を持ち、憧れ、焦がれ……一つの偶然が起きた。もしかしたら必然だったのかもしれねぇけど。願いが叶い、孫の方も倭鏡に来ることが出来たんだ。その孫と、祖父からよく話を聞かされていた現王はすっかり意気投合しちまった。……そして今度こそ結ばれたんだ」
そこまで言い、葉はみんなを見回した。
拓真は相変わらず首を傾げている。
大樹はうつむき、何か考え込んでいるようだった。
春樹に関しては目を瞠っている。ここまで細かい話を聞いたことはなかったのだろう。
「……話はそれで終わり? それが一体……」
「その孫娘が、俺らの母親だって言ったら?」
「――え?」
「そして王の跡を継いで、今倭鏡を治めているのがこの俺だって言ったら?」
「何言って……」
全く予想していなかったのだろう。
拓真の瞳が動揺に大きく揺れた。
それを懸命に押し止め、じっとこちらを見てくる。少々不快そうに。
「訳わかんない話で誤魔化すつもり? 俺が聞きたいのはそんな物語じゃ……」
「言ったろ? 条件だって。おまえがこの話を“真実”だって信じるなら、俺はおまえの兄貴の話もしてやるよ」
「な……っ」
拓真が言葉を失う。
理解出来ないのだろう、こちらの考えが。
葉としてはそれでも構わない。
「ちなみにおまえの兄貴は信じたぜ、この話」
「…………」
「ま、今すぐってのも無理だろうな。時間をやるよ。……明日、学校は休みだろ?」
「そうだけど……」
「なら泊まってけ。春樹、準備出来るだろ?」
「え? うん……大丈夫。客室も空いてるよ。掃除もしてあるし」
慌ててうなずく彼に苦笑する。こいつは本当に家政婦並だ。
「拓真さんは? 親とか大丈夫ですか?」
「……どうせ寮生活だから……電話だけ貸してもらえれば」
そう呟いた拓真は、ひどく曖昧な顔をしていた。
◇ ◆ ◇
夕食もそこそこに済ませた拓真は、案内された部屋で一人ぼんやりとしていた。
勢いやら何やらでここまで来てしまったものの、何だか妙な展開になってしまったものだ。
訳のわからない物語を聞かせられるわ、肝心の話は聞き出せないわ、なぜか泊まるはめにまでなってしまうわ。
どうも踏んだり蹴ったりである。
もっと計画的に動くべきだったろうか。
いや、どうあがいてもあまり大差ない気もするが……。
ガチャ
「? ……大樹」
ノックもなしに入ってきたのは、神妙な面持ちをした大樹だった。
最初に少し話しただけでずい分打ち解け、もう互いに名前で呼び合っている。
「どうしたのさ?」
あまり元気のない彼に首を傾げる。
そういえば夕食のときも口数が少なかった。
自分と話していたときは、元気が溢れ出てしまいそうなほどだったのに。
いつからこうだったろう、と考えてハッとする。
葉が倭鏡とやらの話を始めてからだ。
何か言おうとして「うるせえ」と遮られてから、どうも何か考え込んでいる様子だった。
「あの、さ」
「うん?」
「倭鏡の話……信じるよなっ?」
「……え?」
予想外の言葉に目を丸くする。
だが大樹は必死だった。間違いなく。
「拓真なら信じてくれるよな!? あの話、ちゃんと信じてくれるよな!?」
「ちょ……待ってよ。そりゃ信じたいけど……まだ今は混乱してて……」
彼は「条件」だと言った。
あの話を信じることが条件だと。だったら信じる他ない。
……そうは思うのだけど。
それにしては、あの話は突拍子がなさすぎた。
そもそも異世界だなんて現実離れしているにも程がある。
にわかには信じにくい。
(口先だけで「信じる」って言っても、あの人には通用しないんだろうな……)
きっと一発でバレるのだろう。そんな根拠のない予感がする。
「…………っ」
「大樹?」
「信じねーと許さねえからな!」
「はあ!?」
ビシッと指を突きつけられ、拓真は思わずすっとんきょうな声を上げた。何なんだ一体。
「それと! 葉兄は人殺しなんかじゃねぇからな!」
「え……」
「確かに何人か殺してそうな顔だけど! オレも何回かマジで殺されるって思ったことあるけどっ!」
「…………」
一応フォローのつもりなのだろうか。
大樹自身は真剣みたいだが、どうも逆効果な気がする。
「だから……!」
「……わかったよ」
本当はよくわからないのだが。
苦笑してうなずくと、大樹の顔がパッと明るくなった。
一転して笑顔すら浮かべている。
「ホントか!?」
「まあ、一応だけど……」
「やっぱ拓真っていい奴だなっ♪」
「うわ!?」
いきなり飛びつかれて仰天する。
彼のテンションの差にもまだついていけなかった。
落ち込んだり喜んだり忙しい奴だ。
だが、大樹自身は特に気にしていないようだった。
無邪気な笑みを向けてくる。
「へへっ♪ おやすみ!」
「あ、ああ……おやすみ」
返事を聞くや否や、大樹がバタバタと部屋を出ていってしまう。
彼がいなくなると、部屋はとたんに静かになった。
あまりの差に苦笑する。
(よくわかんなかったけど……)
どうも彼のことは憎めない。
話してみると普通に面白いし、兄が死んだときの自分と同じ年齢である彼には奇妙な親近感があった。
一度は弟がほしいと思ったことも拍車をかけるのだろうか。
と。
「え……と、入ってもいいですか?」
「ん?」
部屋の外からかけられた声に顔を覗かせる。
そこには、何やらたくさんのものを抱え込んだ春樹が、少し困ったように立っていた。




