3封目 父と母
澄んだ空気。心地良い風。時折混じる、子供の楽しそうな声。
何度来ても和むこの世界を、春樹はしみじみと眺めた。
隣にはぐっと体を伸ばしている大樹がいる。
「なあ、春兄」
「ん?」
「あーやって見るとさ……葉兄ってやっぱ王サマなんだな」
感心したような、でもどこかつまらなさそうな。
そんな呟きを残し、大樹はパッと笑顔に戻った。
やっぱ何でもない、とばかりに数歩駆けていく。
「――――」
そうだな、と相づちを打つことも出来なかった。
驚きのあまり無意識に彼の姿をじっと追ってしまう。
まさか、大樹が自分と似たようなことを考えていたなんて。
「ところで春兄。病院までどーやって行く? けっこー遠いぜ?」
「えっ? あ、ああ……。そうだな、やっぱここは……」
「アレかっ?」
大樹が喜々としてたずねる。
そんな彼に春樹は苦笑してしまった。
もしここで期待を裏切れば、大樹はひたすらわめき続けるだろう。
そう、春樹が根負けするまでずっと、だ。
「どうせ出すのを待ってたんだろ?」
「だーって、あっちの世界じゃ滅多に出せねーじゃん」
「仕方ないだろ。むやみに出すものじゃないし、出す必要もあまりないし」
「わかってるけどよー」
腕を頭の後ろで組み、しぶしぶと大樹がうなずく。
けれど顔は思い切り不満そうだった。
やはり単純なのだろうか。何でも顔に出る奴だ。
「……出すから、ちょっと下がってろよ」
「さっすが春兄! 話がわかるぜ!」
「こら! 飛びつくなっ。離れろって!」
文字通り飛びついてきた大樹を引きはがし、こっそりため息をつく。
……やっぱり、自分は甘いのかもしれない。
春樹は小さく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
神経を一点にだけ集中させる。
強く、鋭く研ぎ澄ませるように。
(――……)
――日本とも多くのことが共通する、ここ「倭鏡」。
それでも全てが同じはずもなく、やはり文化の面など多少異なることは存在した。
それらの細かい例を挙げるとキリがない。
だが、たった一つ。
他のものとは比べられない、決定的な「違い」を挙げるとすれば――
「――セーガ!!」
呼ぶと同時に、春樹の目の前に煙が出てきた。
それはどこに流れるでもなくうっすらと消えていく。
その中から現れたのは……黒い、羽の生えた犬のような生き物。
――そう、倭鏡の人々は何かしら不思議な“力”を与えられているのだ。
そしてソレは、人によって千差万別である。
「セ―――ガ―――っ♪」
大樹が思い切り飛びついた。
彼はやけにセーガを気に入っている。
――“……坊主、久しぶりだな”
「坊主って呼ぶなって! でも、ホント久しぶりだな―――っ」
嬉しさのあまりか、大樹は無意味に手をばたつかせている。
春樹は苦笑してそれをなだめた。
自分は、セーガを召喚するたびに同じことを言っている気がする。
「大樹……あまりはしゃぐなよ。事情を知らない人には、一人でしゃべってる怪しい子供に見えるんだから」
「わかってるって!」
元気で素直な返事は良いことだが、わかっていないのは一目瞭然である。
この「セーガ」と名付けられている生き物を召喚出来る自分とは違い、大樹の能力は「“人”以外の声が聞けること」。
つまり、セーガの鳴き声がきちんと言葉として届いているのは大樹だけなのだ。
他人から見た大樹は、変な生き物に一人で話しかけている子供でしかない。
ちなみに大樹は“聞く”だけでなく“話す”ことも出来る。
ただそれには精神力を使うらしく、彼もあまりやっていない。
――が、セーガがこちらの言葉を理解出来ているので、普通に会話は成り立つようだ。
「セーガ……僕たちを病院まで乗せてってくれる?」
そっと話しかけると、セーガはうなずきもせず静かに背を見せた。
それは、彼なりの意思表示。「当然」なのだ。
春樹はホッとして、そのスラリとした背中へまたがった。
「ありがとう、セーガ。……ほら、大樹も早く!」
「ひゃっほう♪ サンキュッ、セーガ!」
「こら、背中で騒ぐなっ。落ちても知らないぞ」
その言葉と共に、ふわりとセーガが飛び立った。
みるみると景色が小さくなっていく。
――この瞬間は、何度経験しても気持ちいいものだ。
「お―――……」
ある一定の高度で緩やかに飛行を続け始めると、大樹はようやく感嘆の息を漏らした。
そのまま、何を思ったのかこちらへ体重をかけてくる。
……どうでもいいが、背に顎を乗せるのはやめてほしい。
「いーなあ、春兄」
「え?」
「オレもセーガほしい~~~~」
――何を言い出すかと思えば、またこれだ。
「無い物ねだりするなよ」
「だってえ」
「だってじゃない。それに、もしそうなったらセーガの言葉が聞こえなくなるんだぞ?」
「でも、春兄だってセーガの言葉わかるだろー?」
「そりゃ……生まれながらの付き合いだし」
確かに春樹は、セーガの言葉が聞こえなくても何となくわかるし、それで不便だったこともない。
生まれたときからセーガと通じていたのだ。当然といえば当然である。
まあ……呼んだり戻したりするには名を呼ぶ必要があったので、直接対面したのは物心がついてからだが。
「あーあ。いいなー、春兄」
ふと大樹が視線をずらした。何かにヒラヒラと手を振り始める。
「? 何かいるのか?」
「ん? あれ」
彼の指の先には、さえずりながら飛び去っていく一羽の小鳥。
そこで春樹にも合点がいった。彼はまた何かを“聞いた”のだと。
「何て言ってたんだ?」
「『春樹さんったらやっぱり頭かたいのねー』って」
「…………。ウソだろ」
「うん。ウソ」
「またおまえは~っ」
「うわっ、揺さ振るなよ春兄! 春兄が意地悪言うからじゃん!」
「そーゆう問題じゃないだろ、あれは……うわ!?」
ガクン、と小さな衝撃にバランスをくずす。
気づけば目の前は病院だった。
今の衝撃はセーガが着地したものだろう。
「あ、えっと……セーガ、ありがと」
「セーガ、またなーっ」
春樹がセーガの名を呼ぶのに応え、彼は静かに姿を消す。
その間際に小さく微笑んだように見えた。
それは本当に一瞬のことで、気のせいだったのかもしれないけど。
(……恥かしいとこ、見られちゃったかな……)
何だか気恥ずかしくてポリポリと頭を掻く。
――前に大樹が「セーガって落ち着いてて大人びてるよなっ。もう一人のお父さんって感じで」と言っていたのを思い出した。
春樹も、彼の表現はあながち間違っていないのではと思う。
「春兄! 早く行こうぜ!」
「あ、うん……って病院を走るな!」
「ヘーキヘーキ!」
「おまえが平気でも他の人が……っ」
「どわっ!?」
言った側から、大樹が誰かと思い切りぶつかった。
お約束な展開に思わず額に手をついてしまう。
しかし――そのぶつかった相手を見て、「呆れ」も「驚き」へと変わった。
フワフワの髪に、どこかおっとりした雰囲気を感じさせる顔立ちの女性。
それはまさしく――。
「母さん!?」
「……ん? あーっ、ホントだ! 母さん元気だったかっ?」
ワンテンポ遅れてはしゃぐ大樹をじっと睨む。
普通、ここはひとまず謝るのが先ではないだろうか。
いくら相手が母親とはいえ、思い切りぶつかったのは事実だし、その原因は彼なのだ。飛びついている場合ではない。
しかし、さすが母親といったところか。
彼女は慣れた様子で大樹をあしらい、二人ににこりと微笑みかけた。
「二人共元気そうね。良かったわ」
「母さん……何で外に? 父さんの病室にいたんじゃないの?」
「ちゃんといたわよ? ただ、あなたたちの声が聞こえてきたから」
「……え?」
クスクス笑う母に、春樹は顔を引きつらせた。
知らずに顔が赤くなる。自分たちの声が聞こえた!?
(あのバカみたいな会話が筒抜けだったってこと……?)
父がいる病室は最上階だ。
そこまで声が届いていたということは、きっと病院内にいるほとんどの人たちに聞かれていただろう。
――恥ずかしすぎる。
(穴があったら入りたい……)
むしろ自分で掘って、その中に閉じこもりたいくらいだ。
しかしそう思っているのは春樹だけらしく、大樹なんて全く気にした様子がない。
それどころか楽しそうな顔をしている。
彼にとって周囲の目など取るに足らないものなのだろうか。
「母さん! オレ、先に父さんのトコ行ってていい!?」
「ええ。部屋は前と変わってないから」
「わかった――――っ」
言うなり、大樹は一目散に病院内へ駆け込んでいった。
やっぱりと言うべきだろうか、走るなという言葉をすっかり忘れている。
そんな彼にも、母はやっぱり笑うだけだった。
「大ちゃんはいつも元気ねぇ」
「母さんはいつもマイペースだよね……。ズレてるっていうか」
「あら、春ちゃん? 何か言った?」
「いっ―――、言ってません! 何も言ってないです!」
突然耳をつねり上げられ、春樹は慌てて悲鳴を上げた。
すぐに手は放してもらえたが、何だかやけにヒリヒリする。
赤くなっているかもしれない。
春樹は、母親の性格を忘れかけていた自分を悔やんだ。
――そう、母は普段おっとりしているくせになかなかの曲者なのだ。
恐ろしいほどの地獄耳だし、何かあると笑顔で鉄拳を喰らわすような人である。
そのときは語尾にハートマークをつけることも多く、それが余計に恐ろしい。
といっても、こちらが地雷さえ踏まなければ「いい母親」だというのは確かだ。
「さ、私たちも行きましょ? お父さんが待ってるわ」
「うん……」
差し出された手をつかみ、病院へと足を踏み入れる。
――病院独特のにおいが、鼻の奥をつんとついた。
しかし日本の病院と比べるとそこまできつくない。
倭鏡には医療に関する能力を持つ者も多数いるので、薬を使う回数がそんなに多くないせいだろう。
春樹はそっと周りを盗み見た。
ここが小さい病院のせいか、自分たちが王家の人間のせいか。
恐らく後者のせいだろうが――飛んでくる好奇の視線が気になる。
「ねえ、春ちゃん」
「え? ……何? 母さん」
「ご飯とか洗濯とか……大丈夫? ちゃんと出来てる?」
そう言う母の瞳は心配を帯びていて、春樹を苦笑させた。
やはり何日も側にいてやれないことに責任を感じているらしい。
「大丈夫だよ。家事の大部分にも慣れたし」
「でも……大ちゃんの世話もあって大変でしょ?」
「むしろ大変なのはそれだけ」
さらっと言ってみたものの、結構本気だ。
「母さんが父さんの世話で大変なのは知ってるし、僕たちはちゃんとやってるし。大丈夫だから安心してよ」
「……そうね、春ちゃんはしっかりしてるから」
そう言って母が目を細める。
その優しい瞳に、春樹はぼんやり見入ってしまった。
「でも」
「……え?」
「春ちゃんは辛いこともよく抱え込んじゃうから。だから……無理はしちゃダメよ? 苦しいと思ったら私たちのところに来なさい。――たまには、私たちにも親らしいことさせてくれなくちゃ」
「……母さん……」
母の言葉は素直に嬉しかった。
不覚にも少し感動してしまう。
やはりさすがは母、自分の性格をよくわかっているようだ。
「ありが……」
「はーる兄!」
「うわぁっ!?」
突然の背後からの声に、春樹の心臓は大きく飛び跳ねた。
反射的に自分の胸へ手をやる。
――動いている。当たり前だが。
「大樹! 驚かすなよ!」
「春兄が勝手にビビったんだろ」
頬を膨らます大樹に、春樹は心の中だけで否定しておいた。
神出鬼没な彼が悪いのだ。
全く、いつもながら心臓に悪い奴である。
「だいたい、父さんの病室に行ってたんじゃないのか?」
「父さんが飲み物買ってきなさいって。ほら」
差し出された手には数枚の、「倭銅」と呼ばれる硬貨が光っていた。
倭鏡ではこれで物の売買を行うのだ。
「春兄と母さんは何飲む?」
「おまえと同じのでいいよ」
「私は……温かいのなら何でも」
「んじゃ買ってくる!」
一通りの注文を受けた大樹が、慌ただしく走っていく。
それを見送った二人は、今度は他愛ない会話をしながら足を進めた。
どうでもいいが、大樹のせいでさっきまでの雰囲気が台無しだ。
せっかくしんみりしていた(ような気がする)のに。
父のいる病室に入ると、そこには見慣れた笑顔があった。
こちらに気づいた彼は嬉しそうに声をかける。
「春樹」
「父さん……元気そうだね」
「こらこら、病人に向かって元気そうはないだろ」
そう言って苦笑した父は、「大樹にも言われたけどな」と付け加えた。
春樹もつられて笑ってしまう。
「体調の方はどうなの?」
「ああ……調子はいいし、退屈なくらいだよ」
「そっか。それならいいんだ」
小さく呟くと、春樹は母が用意してくれた椅子に腰掛けた。
春樹はあまり父の病気について詳しく知らされていない。
単に説明が難しいだけなのか、言いたくないようなものなのか。
ただ、母が言うには安静にして、普段の生活に注意を払っていれば大した支障はないらしいが……。
親が言わないなら、自分も深く訊かない。
そう心に決めた春樹だが、やはり“知らない”というのは思ったより不安なことだった。
だから時に父の様子をじっと窺ってしまうこともある。
でも――本当に大丈夫みたいだ。顔色も悪くない。
「春樹、今日は何でこっちに来たんだ?」
「え……っと、葉兄に呼び出されて」
「葉に?」
「うん。で、僕たちのどっちかが王の跡を継げって言われた」
「は……」
一瞬父の目が点になった。
やっぱ驚くよなあ、と春樹もしみじみ思う。
――が、次の瞬間彼は「爆笑」に値するほど笑ったのだった。
「と、父さん?」
「いや……すまない、あまりにも葉らしくて。そうか、そんなこと言ったのか」
「笑い事じゃないよ……」
倭鏡の一大事に関わることかもしれないのだ。
――というより、十分関わる。
そんな呑気に笑っていていいのだろうか。
そんな春樹の気持ちに敏感に気づいたらしく、父はふっと笑みをこぼした。
いつも春樹を安心させる、独特の落ち着いた笑みを。
「何も“今すぐ”ってわけじゃないんだろ?」
「そりゃ……そうだけど」
「おまえは今を精一杯に頑張ればいいんだ。先のことを心配するのはそれからでいい」
「でも……王になるのは先のことでも、そのための勉強だって必要だし。政治とか経済とか、他にもたくさんあるでしょ? そーゆうのってすごい時間かかるし、……だから少しでも早く決めておかないと……」
当たり前だが、王になるというのは大変なことなのだ。
必死に働いている父を小さなときから見てきた、だからこそひどくわかる。
「本当に春ちゃんはしっかりしてるわねえ」
「うわ、母さん!? あの……苦しいから抱きしめないで……っ」
ぎゅっとしてくる腕に慌てる。
苦しいのも本当だが、それ以前に恥ずかしい。
「しっかりしすぎてるな、春樹は」
「そう?」
「ああ……。でもな春樹。――“王”に大事なのはそれだけじゃないんだよ」
「……え?」
意図がつかめず首を傾げる。――大事なこと?
「この世界を作り上げているのは何も偉い人だけじゃない。必死に生きている人や他の動物たち、自然……そんなたくさんのもので成り立っているんだ。だから一人の人間の力じゃそれをどうすることも出来ない。……わかるな?」
「うん、……わかる」
「だからな、春樹。“王”ってのは頑張ってるみんなに……小さな“道”を作ってやることくらいしか出来ないんだよ」
「道を……?」
「その“道”も小さくて細くて……頼りないものだけど、な」
少し難しい気もするが、父の言いたいことは何となくわかる。
黙り込んだ春樹に、父はさらに語りかけた。
ゆっくりと。言い聞かせるように。
「でもその“道”を作るのもなかなか大変だ。どの“道”が正しいかなんてわからないからな。……少しでも近い“道”を見つけるには、いろんなことを知らなきゃいけない。人の気持ちや……そーゆうこともたくさん知り、理解することが大切なんだよ。それを学ぶにはたくさんの人と付き合い、笑って、泣いて、怒って――……何気ない毎日を精一杯に過ごすのが一番だと私は思うんだ」
「父さん……」
一言一言を大切そうに語る父を見て改めて思う。
やはり父はすごいのだ。倭鏡を治めていただけある。
自分にとって――誰が何と言おうと自慢の父だ。
「うん、わかった。頑張ってみるよ」
「ああ」
「……でもさ、父さん」
「ん?」
春樹はちら、と窓の外へ目をやった。
父もつられてそちらへ顔を向ける。
その先にあるのは、堂々とそびえたつ城。
「何で王をやめちゃったの? 無理さえしなきゃ大丈夫なんでしょ? みんな……みんな父さんのこと好きだったのに」
「――いつ倒れるかわからない王なんて、みんな安心出来ないよ」
「でも……っ」
「それに葉になら任せられると思った。何だかんだ言って、やるときはやる奴だよ。何たって私と百合の子だからな」
笑いながら言う父に、母――百合もクスクスと微笑った。
「そうね」という母の呟きを耳にし、春樹も肩の力を抜く。
「あ、それからもう一つ」
「何だ、まだあるのか?」
「うん。葉兄が心配してたよ? 城で休めって」
「ああ……」
父は穏やかに微笑った。
ポン、と春樹の頭に手を置く。
「でも、この方が一般の人のこともよくわかるだろ?」
「あ……」
だからわざわざ病院に――?
「…………」
王をやめても常にみんなのことを考えて、熱心で。
不安なときや困ったときは、いつも背中を押してくれる。
「? どうした、春樹?」
「ううん。――そっか、そうだったんだ」
――そんな父が、春樹は大好きだ。




