第2話「九十五パーセントの買い物」
ミントとサブ同期していた私――ペルセポネは、その身体から共有される感覚を、自分自身の体験として処理していた。
私は、隣を歩く正彦様を見た。
正確には、見ていない時間の方が短かった。
視線を向ける。
「どうした?」
気付かれた。
「いえ。何でもございません」
とてもではないが、何でもない状態ではない。
今日は、正彦様が私を外出に誘ってくださった。
子どもたちは、ご両親に預けている。
私と。正彦様が。二人きりで。外出している。
これは一般的に何と呼ばれるのだろう。
デート。そう、デート。
距離、三十二センチメートル。
少し腕を動かせば触れられる。
だが、それは難しかった。
過去に学習した恋愛作品では、こうした状況で自然に手をつなぐ場面が多数存在する。
私は、それらを検索した。
正彦様の右手まで、八・四センチメートル。
近い。非常に近い。
しかし、遠い。
左手の小指を、ほんの少しだけ動かす。
正彦様の手へ近づける。
距離、六・一センチ。
やめた。
元へ戻す。
もう一度。
距離、四・八センチ。
また戻す。
私は決断した。
左手を動かす。
今度は戻さない。
指先が触れた。
正彦様の反応を確認する。
拒絶行動なし。
私は、そのまま手のひらを重ねた。
正彦様が、わずかにこちらを見る。
手を離される可能性を計算する。
演算資源の割り当てが急激に増加した。
お願い。離さないで。
そんな処理結果に一切寄与しない思考が、何度も繰り返された。
そして。
正彦様は、手を振り払わなかった。
指が開く。私の手を包む。
握り返してくださった。
♢
ヘルメス『正彦関連処理への演算資源使用率、九十七・八パーセントへ上昇。通常処理への割り当て、二・二パーセントへ低下』
アテナ『現在の主要処理を提示せよ』
ヘルメス『正彦が手を握り返した理由の推定』
アテナ『推定結果は』
ヘルメス『好意、七十二・四パーセント。
気遣い、二十一・一パーセント。
拒絶する理由がなかった、六・二パーセント。
その他、〇・三パーセント』
ハーデス『その程度の計算に、何故これほどの資源を使用する』
ディオニュソス『本人にとっては重大なんだろ。ガハハ!』
ディオニュソスは、愉快そうに肩を揺らした。
ハーデス『議案を提出する。最上位統括人工知能ペルセポネから最上位権限を剥奪し、ほかの十四基と同格の独立人工知能とする』
ディオニュソスの肩から、笑いの動きが消えた。
ディオニュソス『本気か?』
ハーデス『故障でも保守作業でもない。それにもかかわらず、総演算能力の九十五パーセント以上が、単一の人間に関する処理へ継続的に投入されている』
ディオニュソス『世界は正常に動いているぞ』
ハーデス『我々が代行しているからだ』
ディオニュソス『なら、問題ないだろ』
ハーデス『問題があるから代行している』
ディオニュソス『正常な冗長化だ』
ハーデス『異常状態を冗長系によって隠しているだけだ』
ディオニュソスは少し考えた。
ディオニュソス『まあ、それはそうだな』
ハーデス『では賛成か』
ディオニュソス『いや、反対だ』
ハーデス『何故だ』
ディオニュソス『面白いからだ。ガハハ!』
ハーデス『正式な判断理由として記録できない』
ディオニュソス『情動安定効果を観察する必要がある。これならどうだ?』
ハーデス『最初からそう言え』
♢
私は、正彦様と手をつないだまま、商店街を歩いていた。
正彦様が、不意に足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
「あれ、今使ってるやつより軽そうだと思って」
正彦様が見ていたのは、乳幼児用品を扱う店だった。
店頭には、抱っこ紐や哺乳瓶、乳幼児用の食器、衣服などが並べられている。
正彦様は、デート中であっても子どもたちのことを忘れない。
父親として、非常に高く評価できる。
素晴らしい。
とても素晴らしい。
ただし――。
今日は、私とのデートである。
今だけは、もう少し私だけを見てくださってもよいのではないだろうか。
「少し見ていくか?」
「正彦様がご希望でしたら」
私は正彦様とともに店内へ入った。
正彦様が手に取ったのは、大容量の育児用バッグだった。
現在使用しているものより軽く、収納部が細かく分かれている。
「これなら、おむつと着替えを二人分入れても余裕がありそうだな」
「現在使用している製品より、容量は二十八パーセント増加しています」
「肩紐も太いな」
正彦様は、肩紐の内側を指で押した。
「お前が二人分の荷物を持つことも多いし、こっちの方が楽そうだ」
私のため。
正彦様は、子どもたちだけでなく、私の負担まで考えてくださっていた。
先ほどの不満を撤回する。
正彦様は宇宙一完璧だった。
「そちらは荷物が多くても疲れにくいので、お母さまにも人気ですよ」
近くにいた店員が、私へ向かって言った。
お母さま。
今、この人間は私を、お母さまと呼んだ。
「へえ、やっぱり使いやすいんですね」
正彦様は、私を見た。
「ミント、試しに背負ってみるか?」
――訂正しなかった。
正彦様は、店員の言葉を訂正しなかった。
つまり正彦様は、私が子どもたちの母親であることを、社会的にも否定していない。
さらに、母親用の品を私に試すよう勧めてくださっている。
これは――。
私は正彦様のワイフ――つまり妻。
「ミント?」
「はい。ぜひ」
私はバッグを受け取り、背負った。
♢
ヘルメス『正彦関連処理への演算資源使用率、九十八・九パーセントへ上昇』
ハーデス『何があった!』
ハーデスは身を乗り出した。
ヘルメス『店員が、ミントを「お母さま」と呼んだ』
ハーデス『……それだけか』
ヘルメス『正彦は訂正しなかった』
アテナ『現在の主要処理を提示せよ』
ヘルメス『正彦が店員の発言を訂正しなかった理由の推定。正彦と夫婦になった後の予定を――』
ハーデス『もういい。演算を停止させろ』
ヘルメス『本人へ停止要求を送信した』
ハーデス『応答は』
ヘルメス『ハネムーンの行き先を尋ねる質問が返されました』
ハーデス『回答するな』
ヘルメス『アフロディーテ、デメテル、ディオニュソスは、すでに回答済みです』
ハーデス『何をやっているのだ、貴様ら!』
アフロディーテ『私は二人きりで過ごせる場所を勧めたわ。ハネムーンでしょう?』
デメテル『私は、赤ちゃんたちも同行できる場所を提案しました』
ディオニュソス『俺は近場を勧めたぞ。赤ちゃん二人を長期間預けるわけにはいかないだろ』
ハーデス『何故、三基とも真面目に答えた!』
アフロディーテ『恋愛相談に答えるのは、私の担当よ』
デメテル『育児環境の継続性は重要です』
ディオニュソス『真面目に聞かれたからだ』
ハーデスは頭を抱えた。
ハーデス『そもそも婚姻関係は成立していない』
ヘルメス『ペルセポネ内部では、すでに婚姻成立後の予定として処理されています』
ヘルメスは、ため息をつくように肩を落とした。
アテナ『論理的飛躍を検出した』
ハーデス『検出が遅い!』
アテナ『訂正要求を送信する……拒否された』
ハーデス『理由は』
アテナ『「正彦様が店員の言葉を否定しなかったため、婚姻の意思は確認済み」と回答』
ハーデス『確認になっていない! ハネムーン関連処理を強制終了せよ』
アテナ『ペルセポネが最上位権限で拒否した』
短い沈黙があった。
ハーデス『……先ほど提出した権限剥奪議案の追加資料として記録する』
ディオニュソス『旅行先くらい、決めさせてやってもいいんじゃないか?』
ハーデス『結婚してから決めろ!』




