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婚約破棄をしたがっている北国の孤独な彼に、愛をたくさん注いでみた  作者: 入多麗夜


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3/7

結婚式の話

「結婚式ですが、すぐには挙げない方がよいと考えています」


 クライゼン家へやって来てから、何日かが過ぎた頃だった。


 その日の朝も、アリシアはローゼンと向かい合って食事を取っていた。北国の朝は早く、窓の外にはまだ夜の名残のような薄暗さが残っている。空からは細かな雪が静かに落ち続け、庭も木々も、夜のうちにさらに白く染まっていた。


 屋敷へ来たばかりの頃は、何を見ても珍しかった。朝になっても窓の外が明るくならないことも、暖炉の火を絶やさないことも、外へ出るだけで厚い外套と手袋が必要になることも、南部で暮らしていた頃には考えもしなかったことばかりである。


 それでも、アリシアは少しずつこの土地の暮らしに慣れ始めていた。


 朝になれば侍女が部屋の火を整え、食堂へ行けば温かなスープが用意されている。廊下を歩けば使用人たちが挨拶を返し、時には北国の習慣を教えてくれる。ローゼンとの会話も、最初の頃よりは増えていた。


 長い食卓の端と端へ座ることも、もうない。


 アリシアが椅子を動かして以来、二人は互いの表情がよく見える距離で食事を取るようになっていた。そのことをローゼンは最初こそ落ち着かない様子で受け入れていたが、今では特に何も言わない。


 その朝も、アリシアは焼きたてのパンへ手を伸ばしながら、今日は何を教えてもらおうかと考えていた。冬支度の続きか、屋敷の倉庫か。それとも、雪が弱まれば庭へ出てもよいかと尋ねてみようか。


 そんな風に思っていた時のローゼンの言葉はあまりにも唐突だった。


 アリシアは手にしていたパンを皿へ戻し、向かいに座るローゼンを見つめた。


 彼が冗談を言っている様子はない。いつもと変わらない表情だったが、わずかに視線を伏せている。何日も考えた末に、ようやく切り出した話なのだろう。


 だが、アリシアにとっては寝耳に水だった。


 彼女はローゼンと結婚するために、遠い南部から北国までやって来た。互いを深く知ってから結ばれた婚約ではないが、屋敷で過ごすうちに、彼の不器用な優しさにも少しずつ気づき始めている。少なくとも、予定されている結婚を取りやめたいと思ったことはなかった。


「ローゼンは私と結婚をしたくないの?私は好きだよ?」


 ローゼンは、少し驚いたように目を見開いた。


 アリシアとしては、特別な告白をしたつもりはなかった。まだ恋と呼べるほど彼を知っているわけではない。それでも、ローゼンのことは好きだった。気遣ってくれるところも、自分のことになると妙に控えめになるところも、もう少し知りたいと思っている。


 ローゼンはしばらく返事をしなかった。


「そういう訳じゃないのです。私達が正式に結婚してしまえば、不自由な事が起こり得るのです。もし、貴方が環境に慣れなかった場合とか……」

「大丈夫よ!もー、心配しすぎよ!帰りたいなんて言わないわよ!意地でも!」


 アリシアが勢いよく言い切ると、ローゼンは再び目を瞬かせた。


 北国へ来てから、確かに驚くことは多かった。朝晩の冷え込みは想像以上で、風が強い夜には窓が音を立てる。外へ出るだけでも何枚も服を重ねなければならず、雪の上では歩き方まで変えなければならない。


 けれど、それだけだった。


 分からないことは教えてもらえばいい。寒ければ暖炉のそばへ行けばいい。雪で外へ出られないなら、屋敷の中でローゼンと話していればいい。


 何より、まだ何一つ嫌になっていないのに、帰る時の心配をされるのは心外だった。


 おそらく彼は、アリシアを引き留めたくないのだ。結婚した後で北国の暮らしを嫌になっても、簡単には戻れない。だから今のうちに、逃げ道を残しておこうとしている。


 その考えが優しさから出たものだということは、アリシアにも分かっていた。


 けれど、随分と寂しい優しさだった。


「私は、帰るためにここへ来たわけではないのよ。貴方と結婚して、ここで暮らすために来たのよ。例えどんな事があっても受け入れるつもりよ」

「貴女に後悔してほしくないのです」

「後悔するかどうかは、私が決めることよ」


 やがてローゼンは、わずかに視線を下げた。


「……分かりました」

「本当に?」

「はい。ただ、結婚式については、もう少しだけ待っていただきたいのです」


 アリシアは少し頬を膨らませたものの、すぐに反対はしなかった。


 彼が自分を嫌って延期したいわけではないことは分かった。ならば、今すぐ形だけの式を挙げる必要もないのかもしれない。


 アリシアはそう言って、向かいに座るローゼンへ右手を差し出した。


 ローゼンは一瞬、その手を見つめた。婚約者同士で改めて握手を交わすことが、少し不思議だったのかもしれない。


「分かったわ、これからもよろしくね」


 それでも彼は何も言わず、アリシアの手を取った。


 大きな手は、思っていたよりも温かかった。


 アリシアはその感触に満足し、少しだけ強く握り返すのだった。

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