初対面の二人
アリシア・レインフォードがクライゼン領へ到着したのは、冬が本格的に深まり始めた頃だった。
南部を発ってから、随分と長い旅だった。
最初のうちは、窓の外に広がる景色が変わっていくことが面白かった。見慣れた明るい街並みが遠ざかり、果樹園が減り、やがて平原が増えていく。さらに北へ進むと、空の色まで少しずつ変わった。緑の残っていた野原は白く染まり、道の脇には雪が積もり始める。宿を出るたびに空気は冷たくなり、吐く息も濃くなっていった。
けれど、クライゼン領へ入る頃には、さすがのアリシアも口数が少なくなっていた。
寒かったからである。
「北国が寒いとは聞いていたけれど、ここまでとは思わなかったわ」
馬車の中でそう漏らすと、向かいに座っていた侍女が膝掛けをもう一枚重ねた。
「お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。少し驚いただけよ!心配しないで」
アリシアはそう答えながら、窓の外を眺めた。
雪は途切れることなく降り続いている。吹雪というほどではないが、風に流された白い粒が馬車の窓へ何度もぶつかっていた。道の両側には背の高い針葉樹が並び、その枝にも厚く雪が積もっている。
南部では見たことのない景色だった。
どこまでも白く、静かで、少しだけ寂しい。
けれど、不思議と怖くはなかった。
この雪の向こうに、これから自分が暮らす場所がある。そう思うと、胸の奥が落ち着かないような、それでいて少し楽しみなような、妙な気持ちになった。
「もうすぐ、お屋敷が見えてまいります」
御者の声が聞こえた。
アリシアは思わず背筋を伸ばす。
長い旅の間に、何度も考えていた。ローゼンはどのような顔で自分を迎えるのだろう。手紙のやり取りは何度かしたものの、そこに書かれていたのは旅程や体調を気遣う言葉ばかりだった。
寒さに備え、厚手の外套を用意してほしい。 などなど、どれも丁寧ではあったが、婚約者へ向けた手紙というより、遠方から招いた客人へ送る案内状のようだった。
ローゼンらしいと言えば、そうなのかもしれない。
それでも、これから夫婦になる相手なのだから、もう少し何かあっても良いのではないかと、アリシアは少しだけ思っていた。
やがて、木々の向こうに大きな屋敷が見えた。
クライゼン家の屋敷は、南部の貴族邸とは随分違っていた。明るい石造りの壁や広い庭園はなく、厚い石壁と急な屋根を持つ、頑丈そうな建物だった。
玄関前には、使用人たちが並んでいた。
そして、その中央にローゼンが立っていた。
厚手の黒い外套を身につけ、雪の中で静かにこちらを見ている。以前会った時と変わらず、落ち着いた様子だった。ただ、馬車が近づくにつれ、彼の表情がわずかに強張っていくように見えた。
緊張しているのだろうか。
それとも、南部から来た自分を見て、やはりこの婚姻は間違いだったと思っているのだろうか。
馬車が止まり、扉が開かれた。
冷たい空気が一気に入り込んでくる。
アリシアが外へ出ようとすると、ローゼンがすぐそばまで歩み寄り、手を差し出した。
「遠路はるばるようこそ。どうか足元に気をつけてください」
「ありがとうございます」
アリシアは彼の手を取った。
手袋越しでも分かるほど、大きな手だった。
踏み台へ足を乗せた瞬間、靴の裏が少し滑る。ローゼンの手に力が入り、アリシアの身体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ!大丈夫です。雪の上を歩くのは初めてなので、少し驚いただけよ」
「申し訳ありません。もっと滑りにくい場所へ馬車を止めさせるべきでした」
「こっちこそ、ここまで丁寧にさせて頂いて何だか申し訳ない気持ちになってしまうわ」
ローゼンは真剣だった。
まだ何も起きていないのに、自分の落ち度であるかのように考えているらしい。
アリシアが笑うと、ローゼンは少しだけ戸惑ったように黙った。
「長旅、お疲れさまでした」
「外で待っていてくださったのですか?」
「到着の時刻を聞いていましたので」
「寒かったでしょう?」
「これくらいは慣れています」
そう答えた彼の肩には、薄く雪が積もっていた。
慣れているとはいえ、寒くないわけではないだろう。
アリシアは少しだけ背伸びをすると、ローゼンの肩へ手を伸ばした。黒い外套に積もっていた雪を、手袋をした指先で軽く払う。白い雪はさらりと落ち、足元へ散った。
ローゼンは、わずかに目を見開いた。
「これは……?」
「私たち、これから婚約者になるのよ?これくらいはさせてほしいわ」
アリシアが何でもないことのように言うと、玄関前に並んでいた従者たちの間から、小さなどよめきが起こった。
「おぉ……」
誰かが、思わずといった様子で声を漏らす。
その声をきっかけに、家令や侍女たちの表情がわずかに和らいだ。中には嬉しそうに目を細める者までいる。
ローゼンは従者たちへ視線を向けたが、誰もがすぐに何事もなかったように目線を戻した。
「皆さん、随分と嬉しそうね」
アリシアがそう言うと、従者の一人が一歩前へ出た。
「失礼いたしました。領主様が女性にこのように気遣われるところを、初めて拝見したものですから」
ローゼンは少し居心地が悪そうに黙り込んだ。
アリシアはそんな彼を見上げ、くすりと笑う。
「では、早く中へ入りましょう。皆さんまで雪だらけになってしまいます」
「……そうですね」
ローゼンは短く答えると、今度はアリシアの手を取った。
先ほどよりも、ほんの少しだけ自然な仕草なのだった。




