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婚約破棄をしたがっている北国の孤独な彼に、愛をたくさん注いでみた  作者: 入多麗夜


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山の麓の墓地

 山の麓の近くへ着く頃には、朝の光が雪解けの地面を淡く照らしていた。


 屋敷を出た時には白く霞んでいた空も、少しずつ青みを帯びている。道の端には冬の名残が残り、踏みしめるたびに湿った土が小さく音を立てた。アリシアは厚手の外套に身を包み、ローゼンの隣を歩いていた。


 北国の春は、南部の春とはまるで違う。


 南部なら、春はもっと明るく、柔らかく、花の匂いを連れてくる。けれどクライゼン領の春は、雪の下からゆっくり息を吹き返すような季節だった。冷たい風の中に、ほんの少しだけ土の匂いが混じる。白い雪の隙間から、小さな草が顔を出す。それを見つけるたび、アリシアはこの土地の人々が春を大切にする理由が少し分かる気がした。


「ここ、思っていたより歩くね」


 息を整えながら言うと、ローゼンがこちらを見た。


「疲れた?」

「大丈夫。ちゃんと歩けるよ」

「もう少ししたら着くよ」


 山の麓に近づくにつれて、道は細くなっていった。屋敷から続いていた踏み固められた道は途中で途切れ、木々の間を抜けるような小道になる。雪解け水がところどころに浅い流れを作り、土は柔らかく沈みやすい。


 アリシアは足元を確かめながら歩いた。


 ローゼンがこれほど大切にしている場所へ、自分が本当に踏み込んでいいのかは分からなかった。だが、隣を歩く彼が時折こちらを気にしてくれるたび、来てよかったとも思った。彼が一人でここを歩いていたのだと思うと、それだけで胸が苦しくなる。


「ここ、毎年来ているの?一人で?」

「そんな感じかな。ベインとの約束もあるし、そろそろ訪れようと思っていたんだ」


 雪解けで柔らかくなった土は思った以上に歩きづらかった。足元へ気を取られているうちに、少しずつローゼンとの距離が開いていく。


 それに気づいたローゼンが足を止め、アリシアへ手を差し出した。


「転ばないように」


 アリシアは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しくなってその手を取った。


「ありがとう。今日はちゃんと頼るね」

「……それは、君に言われると少し困るね」

「いーの!もう、夫婦みたいなものだから、どっちが言ってもいいんです」


 そう言って笑うと、ローゼンの目元がほんの少しだけ和らいだのだった。




 ◇




 二人は、やがて目的地へ着いた。

 そこは、山の麓にひっそりと広がる墓地だった。


 人の出入りが多い場所ではない。木々に囲まれ、雪解け水の音だけが静かに響いている。地面にはまだ白い雪が薄く残り、その間から春の淡い草が少しだけ顔を出していた。


 いくつもの十字架が立て付けられていた。


 新しいものではない。風雪に晒され、木の表面は少しずつ色を失っている。中には傾いたものもあり、根元に苔をまとったものもあった。その一つ一つに、かつて誰かがいた。名前があり、帰る場所があり、待っている人がいた。


 アリシアは、そこでようやく理解した。

 ローゼンが「友人に会いに行く」と言った意味を。


 胸がきゅっと痛んだ。ローゼンが毎年一人でここへ来ていたこと。誰にも告げず、朝早くに屋敷を出て、花と酒を持って、この場所まで歩いてきていたのだ。その姿を想像すると、胸の奥が熱くなった。


 ローゼンは、アリシアの手をそっと離した。


 そして、持ってきていた花束とは別に、外套の内側から小さな酒瓶を取り出した。飾り気のない透明な瓶に、琥珀色の酒が入っている。


 彼は一番手前の十字架の前で足を止めた。


 膝をつき、瓶の栓を開ける。冷えた空気の中に、強い酒の匂いがわずかに広がった。ローゼンはその酒を、ほんの少しだけ十字架の根元へ注いだ。雪解けの土に、琥珀色の酒が染み込んでいく。


 それから、次の十字架へ向かう。


 そこでも同じように膝をつき、酒を注ぐ。さらに次の十字架へ。ひとつ、またひとつ。どの十字架の前でも、必ず少しだけ足を止める。言葉はない。ただ、彼は一つ一つの十字架の前で膝をつき、酒を注ぎ、目を伏せた。


 アリシアは少し離れたところで見守っていた。


 声をかけていいのか分からなかった。明るく励ますには、あまりにも静かな場所だった。ここで軽い言葉を口にすれば、この場所の静けさを乱してしまいそうで、彼女はただ黙っていた。


 やがてローゼンは、空になった瓶を外套の内側へしまった。


 そして、十字架の並ぶ墓地へ向き直ると、その場に膝をついた。


 冷たい土に片膝をつき、両手を静かに組む。目を閉じ、頭を垂れるその姿は、領主として民の前に立つ時の彼とは違って見えた。いつも背筋を伸ばしているローゼンが、今はただ一人で、十字架の前に膝をついていた。


 アリシアも、彼の後ろでそっと膝をついた。


 裾が土に触れることも、冷たさが膝に染みることも気にならなかった。ローゼンと同じように手を組み、十字架の並ぶ方へ静かに頭を下げる。


 彼女は、ここに眠る人たちの名前を知らない。


 どんな声で笑ったのかも、どんな酒を好んだのかも、誰を待たせていたのかも知らない。ローゼンが彼らとどんな話をして、どんな夜を越え、どんな別れをしたのかも分からない。


 それでも、祈ることはできると思った。


 どうか、安らかでありますように。どうか、ローゼンが今日ここへ来たことが、少しでも届きますように。そして、もし許されるなら。


 アリシアは閉じた目の奥で、静かに願った。


 やがて、ローゼンはゆっくりと目を開けた。


 隣を見ると、アリシアはまだ頭を下げていた。彼女の肩に、春先の冷たい風が触れている。ローゼンは無意識に、自分の外套を少しだけ彼女の方へ寄せた。


 その小さな動きに気づいたのか、アリシアがそっと顔を上げる。


「……終わった?」


 ローゼンは少しだけ間を置いてから、頷いた。


「うん。終わったよ」


 ローゼンは立ち上がり、土のついた膝を軽く払った。アリシアもそれに続いて立ち上がる。彼女の裾にも、雪解けの泥が少しついていた。ローゼンはそれを見て、何か言おうとしたが、アリシアは先に小さく笑った。


「大丈夫。これくらい、ちゃんと落ちるよ」

「……すまない。寒い中、付き合わせた」

「いいのいいの!伝えたいこともちゃんと伝えられたし」


 アリシアはそう言って、十字架の並ぶ方へもう一度だけ頭を下げた。それからローゼンの隣に戻り、来た道の方を見る。


「戻ろうか」

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