雪解けの日の約束
雪解けの日の朝、アリシアはふと目を覚ました。
部屋の中には、夜の名残がまだ薄く残っていた。厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光は淡く、暖炉には赤い火がわずかに残っている。寝台の上には二人分のぬくもりがまだ籠もっているはずなのに、アリシアが無意識に手を伸ばした先には、冷え始めた敷布しかなかった。
いつもなら隣にあるはずの温もりが、なかった。
つい先ほどまで誰かが横になっていたことを示すように、枕には浅い窪みが残り、掛け布団もローゼンがいた側だけ少しめくれている。眠っている間に寄り添っていた名残なのか、アリシアの長い髪が数本、空になった枕へ流れていた。
それを見た瞬間、眠気が一気に遠のいた。
最初は、少し早く執務へ向かったのかと思った。ローゼンは朝が早い。領主としての仕事が多いことも知っている。けれど、その日は何かが違った。部屋の空気が妙に静かで、昨夜まで確かに隣にいた人の気配だけが、すっぽりと抜け落ちている。
アリシアは掛け布団を押しのけ、身体を起こした。
寝間着の襟元は少しだけ乱れ、ほどけかけた髪が肩から胸元へ落ちている。いつもなら身支度を整えてから部屋を出るところだが、今はそんな余裕はなかった。厚手の羽織を急いで肩へ掛け、冷えた床へ足を下ろす。
部屋を出ると、廊下はまだ薄暗かった。使用人たちが本格的に動き始めるには少し早い時間だ。窓の外からは、屋根の雪が解けて落ちる水音が、一定の間隔で静かに響いていた。
アリシアは足早に玄関へ向かう。
そして、扉の近くに立つ彼を見つけた。
普段の執務服ではない。外出用の厚手の上着を着て、使い込まれた黒い外套を肩に掛けている。手には小さな花束があった。北国で春の初めに咲く、淡い色の花。アリシアも最近、その花がこの土地で春を告げるものとして大切にされていると教わったばかりだった。
その姿を見た瞬間、ただの外出ではないと分かった。
「……ローゼン?」
振り向いた彼は、少しだけ目を見開いた。
アリシアは息を整えながら近づいた。
「貴方が部屋からいなくなっていたから」
それだけ言うと、ローゼンの視線がわずかに下がった。すぐに謝られそうな気がして、アリシアはあえて少し明るい声を出した。
「こんな朝早くに出かけるの?一人で?ま、ま、まさか浮気じゃないよね!?」
本気で疑っていたわけではない。
ローゼンに限って、そんなことをするとは思っていなかった。それでも、重くなりすぎそうな空気を少しだけ軽くしたかっただけだ。
ローゼンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから少し笑いながら答えた。
「北国の地に君より可愛い人なんていないよ。そういうのじゃないから心配しないで」
思わぬ返事に、アリシアはぱちりと瞬きをした。
そして、すぐに笑ってしまった。
「あはは!冗談だよ。貴方に限ってそんな事をしないって分かってるわ。起きたらいなかったのには、ちょっとびっくりしたけど」
ローゼンは視線を伏せた。
「……悪かった。君を心配させるつもりはなかったんだ」
「うん。貴方がそういうつもりじゃないのは分かってる。でも、つもりがなくても心配はするの」
アリシアはそう言って、彼の手元を見た。
花束。黒い外套。まだ明けきらない朝。誰にも告げずに出て行こうとしていたこと。
「どこか、大事なところへ行くの?」
アリシアはそれ以上、問い詰めたりはしなかった。
やがてローゼンは、小さく口を開いた。
「……友人に会いに行くんだ」
「そう……昔からの友人?」
「そうだね」
アリシアは花束をもう一度見た。
「一人で行くつもりだったの?」
「そのつもりだった」
「私も行っていい?」
ローゼンは驚いたようにこちらを見た。
「楽しい場所ではないよ」
「うん。でも、貴方が毎年会いに行くくらい大事な人なら、私もちゃんとご挨拶したい」
「……挨拶?」
「そう。あなたの婚約者ですって。いつもローゼンを心配している人ですって、ちゃんと言うの。それに話したい事も色々あるしね」
アリシアは少しだけ笑う。本当は、もう一つ伝えたいことがあった。
まだローゼンにも、屋敷の者たちにも言っていないこと。先に彼に伝えたいと思っていたこと。けれど、こんな朝早くに一人で出て行こうとするものだから、少しだけ困ってしまったのだ。
だから、アリシアはついていくことにした。




