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婚約破棄をしたがっている北国の孤独な彼に、愛をたくさん注いでみた  作者: 入多麗夜


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18/23

初めての小さな喧嘩

湿度高め

 近くで談笑していた夫人が、驚いたようにこちらを振り返る。隣にいた令嬢も、扇の陰からちらりと視線を向けてきた。楽団の音は変わらず流れているし、大広間全体が静まり返ったわけではない。けれど、少なくとも周囲の数人には、今の声が届いてしまったらしい。


 ローゼンも、ほんの少しだけ目を見開いた。


「悪かった、アリシア。そんな声を大きくしなくても」

「大きくもなるわよ。貴方、今かなり失礼なことを言ったのよ?」

「君を疑ったわけではない」

「そうは見えなかったわ」


 アリシアは扇を胸元で握り、少しだけ頬を膨らませた。


「私はただ、昔の知人と少し話しただけよ。それなのに、変な男が彷徨いているだとか、相手が勘違いするだとか言われたら、まるで私がその気になれば簡単に誰かへ心を移すみたいじゃない」


「そういう意味ではないよ」

「じゃあ、どういう意味?」


 ローゼンは答えようとして、言葉を止めた。


 その一瞬の沈黙で、アリシアは大体分かってしまった。これは心配だけではない。もちろん心配もしているのだろう。ローゼンはそういう人だ。けれど、それだけならこんなに言葉を選ばない。


 アリシアは、じっと彼を見上げた。


「嫉妬したの?」

「……本当に心配したんだ」


 ローゼンは困ったように視線を落とした。


 その態度に、アリシアは少しだけむっとした。嫉妬されたことが嫌なのではない。むしろ、そういう感情を向けられること自体は、嬉しくもある。けれど、それを心配という言葉で包んだ結果、アリシアが軽率な人のように聞こえるのは納得がいかなかった。


「私はね、貴方に嫉妬されるのが嫌なんじゃないの。それだけ想ってくれているのだから嬉しいわよ。でも、私が他の殿方にうつつを抜かしているみたいに言われるのは嫌なの」


 アリシアは扇を目元に当てた。

 泣いてはいない。けれど、泣いているふりをするくらいは許されると思った。


「ひどいわ、ローゼン。私は、心の底から愛しているのに!貴方が夜にあんなことやこんなことをしておいて、私が他の殿方を見るわけがないでしょう!!」

「ち、ちょっと待って欲しい。何を言い出しているんだい?」

「それに、私が他の殿方に心を移すですって? そんなことできるわけないでしょう!貴方があんなに大事にして、あんなに優しくして、あんなに離してくれないのに!」

「アリシア……!それはダメだ……!」

「聞こえればいいのよ!私は浮気なんてしませんって、はっきり分かっていただけるでしょう!貴方が私を!こんなに貴方なしではいられない人にしたんでしょう!」


 ローゼンは完全に言葉を失った。


 その様子を見て、アリシアは扇で目元を隠したまま、さらに肩を震わせた。もちろん、本当に泣いているわけではない。涙など一滴も出ていない。けれど、声の震わせ方も、俯き方も、少しだけ傷ついた婚約者のように見せるのも我ながらに名演技だと思った。


 さすがのローゼンも、このまま大広間の真ん中に立たせておくのはまずいと思ったのだろう。


「アリシア、少し来てほしい」


 そう言うなり、彼はアリシアの手を取った。


 強引というほどではない。けれど、いつものような余裕もないらしい。アリシアの指先を包む手は温かく、少しだけ力が入っていた。ローゼンは周囲に短く会釈をし、それ以上誰にも声をかけられる前に、アリシアを連れて大広間の端の誰もいないバルコニーへ向かった。

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