きっと君は来ない
琴音の自室。夕食後に鈴華はそこを訪れ、琴音の本音を探ろうとした。
「琴音、ぶっちゃけどうなの?」
「何が?」
琴音は顔も上げずに、ベースのネックを布で拭いている。
「美都梨のバンドだよ。来るの、来ないの?」
鈴華の問いかけに、琴音の手が止まった。彼女は何も答えず、ただ俯いたまま、指先でベースの弦をそっと撫でる。沈黙が、部屋に広がる。
鈴華はため息をついて、言葉を続けた。
「前のバンドと違って、皆上手いってことは分かるよね?」
「うん。この前偶然、練習中に部室の前を通ったんだ。扉越しでも上手いのが分かったよ」
琴音の声は、小さかった。
「じゃあ、音楽に真剣だってことも伝わってるよね?」
「うん」
鈴華は琴音の正面に回り込み、両腕を組んだ。
「それが分かっていて、何で参加しないかなー?」
琴音は答えない。視線を落としたまま、唇を噛んでいる。
「ねえ……アンタ、もしかして美都梨が苦手なの?」
「違う」
琴音がはっきりと首を振った。
「美都梨はすごくいい子。バンドのこととは別に、私とも友だちになってくれた。そんな子と親友なんだから、文乃ちゃんも凄くいい子なんだと思う」
「まさかと思うけど、アタシがいるのが問題なの?」
鈴華のストレートな問いに、琴音は初めて顔を上げた。
「それは絶対にない」
「ますます分かんないよ!アンタは一体どうしたいのさ?」
鈴華が声を荒げる。
琴音はゆっくりと息を吸い込み、それから静かに言葉を紡いだ。
「今の私には……時間が必要なんだ」
「そんな待ってたら、いつの間にか高校卒業しちゃうよ!」
諦めに似た鈴華の言葉が、部屋に響く。
琴音は再び俯き、少しのあいだ何も言えずにいた。やがて、彼女の口から絞り出されるような声が漏れた。
「鈴華には……鈴華には、私の気持ちは分からないよ!鈴華にはずっと、自分の居場所があるんだから!」
「居場所なんて、自分で作るもんだろ!それにオマエ、周りの人間が助け舟を出してんのも分かんないのか!」
「うるさい!そうされた側は惨めなんだよ!自分じゃ何も出来なくて、誰かの好意にただ乗っかってるだけだって、思い知らされるんだ!」
「え……琴音?」
鈴華の声が、急に小さくなる。琴音は荒い呼吸を繰り返しながら、自分の膝の上に置かれた手を見つめていた。その指先は、わずかに震えている。
「お願い……もう出て行って。このままだと、心にも無いことを言って、鈴華を傷付けてしまうから。」
「分かったよ……」
ドアノブに手を掛けた後、鈴華は思い出すように振り向いて琴音に向き合う。
「ねえ琴音……バンドでさ、すごく突然なんだけど、初のステージ演奏が決まったんだ。」
「……そうなの」
「この週末に甲府駅北口の広場で15分だけな。琴音も見に来なよ。ほら、自分の居場所……見つかるかもしれないだろ?」
「うん、考えておく……」
「じゃあ、もう行くね。おやすみ、琴音。」
「うん、おやすみ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あくる日、美都梨は琴音を廊下の隅に呼び止めた。
「いきなりだけど、私たちの初ステージが決まったんだ。」
琴音は少しだけ目をそらし、それから頷いた。
「うん、週末の甲府駅でしょ?鈴華から聞いてるよ。おめでとう」
美都梨は一度、深く息を吸い込んだ。
「ねえ……琴音も参加しない?」
「え?」
琴音の表情が、一瞬で固まる。
「どうかな?」
美都梨は笑顔を作って、もう一度問いかけた。
琴音はしばらく俯いていたが、やがて静かに首を振った。
「……ダメだよ、直前のアレンジ変更になるでしょ。そういうのは演奏の質を落とすよ」
「そうかぁ……」
美都梨の声が、わずかに沈む。
琴音はその変化に気づいているのかいないのか、言葉を続けた。
「美都梨はバンドマスターなんだから、演奏の質を落としちゃダメだよ」
その言葉に、美都梨は顔を上げた。
「ねえ琴音……正論に逃げないでよ。琴音を誘うのが、どんどん難しくなっちゃうでしょ」
美都梨の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
琴音は何も言わず、ただ唇を噛んで俯く。沈黙が、二人の間に流れる。
「せめて、私たちの演奏を見に来てよ」
美都梨が、最後の賭けのように言葉を紡いだ。
琴音は顔を上げ、少し迷ったような表情を浮かべた。
「……考えとくね、行けたら行くよ」
その答えに、美都梨は内心で呟いた。(これは来ない人の言い方だよな)しかし、彼女はつとめて明るく振る舞おうとした。めげちゃダメだ、めげちゃダメだ、めげちゃダメだ――心の中でそう唱えながら。今は琴音を説得することより、目の前の初ステージに集中しなければいけない。
自分にそう言い聞かせて、彼女は無理やりにでも気持ちを切り替えようとした。
「三顧の礼」は三度にして成らず。三度の試みでついに諸葛孔明を配下に迎えた劉玄徳、それと比べ自分は……。その事実を悔しがりながらも、歴史上の偉人と同じことを15歳の高校生が成すのは無理がある。夢の中で会った軍師山本勘助も「大切なのは回数ではなく、誠を尽くすことが肝心」と説いていたっけ。そう思い出しては、自分を納得させるしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
初夏を迎えた甲府の街には、太陽が眩しく輝き、やがて訪れる真夏を予感させていた。控え室代わりのテントの下、美都梨は脚を震わせながら平静を装っている。
限られた時間で精一杯の準備をしたものの、完璧主義な彼女が満足いくレベルの完成度に、その演奏は達していなかった。やはりベース不在という状況は致命的で、アレンジで工夫しても納得しきれる出来映えには至らなかった。そんな不満と緊張で、美都梨は逃げ出したくなる本音と戦いながら、他のメンバーに心配をかけまいとしていた。
突然決まったステージ演奏につき、衣裳はおろかバンド名すらまだない。衣裳は学校の制服を着てその代わりとして、バンド名は「甲府市立酒折高校軽音部(仮)」と間に合わせるしかなかった。曲のアレンジからバンド名まで、突貫工事もいいところである。いやむしろ、仮設工事とでも呼ぶべきか。
「ねえ、ブレザーは脱いで演奏しない?」
文乃の提案に促されるように、三人はブレザーを脱いだ。文乃はブレザーを裏返すように折り畳み、表側の布が置き場所に触れないように机に置く。美都梨は表側のままで二つ折りにして机に置いた。鈴華は……表側で二つ折りになるように、パイプ椅子の背もたれに掛けた。後で跡が残りそうな扱いではあるものの、この姐御はお構いなしである。
その後美都梨は思い出したように、シャツの袖をまくりはじめた。
「おぉ美都梨、気合い十分だね?」
鈴華がからかうように言う。
「長袖だと袖口がギターの弦に当たるんだ。それに峠先生も、ステージでは腕まくりするのが定番だからね」
美都梨が答えると、文乃が頷いた。
「そっか、変な音が鳴ると演奏に影響するもんね。今日は割と暑いし、私もそうしようかな」
「んじゃ私も」
鈴華が続けて袖を捲る。
「ドラム演奏だって、半袖の方が動きやすいもんね」
三人が袖を捲り終えたところで、係の者が彼女たちにステージ準備が整ったことを伝えた。
晴天の初夏、土曜日の午後である会場は、様々な年代の人々が集まっている。女子高生バンドがこのイベントで演奏するのも珍しいため、珍しそうな視線が彼女らに注がれる。
美都梨は深く息を吸い込み、一歩を踏み出す。マイクの前に立ち、まばらな観客を見渡す。
美都梨の声が、少しだけ震えていた。
「み、皆さん、こんにちは!甲府市立酒折高校軽音部です!私たちは今年春に結成したばかりで、バンド名すらまだありません。今日は初ステージですが、ど、どうぞよろしくお願いいたします!」
まばらな拍手が広場を包む。
憧れの峠先生のライブが始まる時とは雲泥の差である。数千人の拍手とまばゆいスポットライトに包まれてギターを掻き鳴らすあの方と比べると、今の自分の立ち位置はままごとのようである。例えあの方と同じギターを手にしても、そこには大きな溝があるという現実が、眼前に容赦なく突き付けられる。
(めげちゃダメだ、めげちゃダメだ、めげちゃダメだ……やりきれ!この際、初陣が負け戦でも構わない!)
美都梨は心の中で自分を叱咤し、マイクに向き合う。
美都梨が最初のコードをかき鳴らした瞬間、広場の空気が変わった。
それまで雑踏の一部だった彼女たちの立つ場所が、急に「ステージ」として輪郭を持ち始める。
通行人の足が、一つ、また一つと止まった。
鈴華のスネアが鳴る。その音は、甲府盆地の夏の陽炎を震わせ、文乃のキーボードが、その震えの上に涼やかな風を乗せる。
美都梨の声はまだ震えていたが、その震えごと、メロディが観客の耳に届いていく。
ベンチに座っていた老人が、目を閉じた。彼の瞼の裏に、40年前の夏が蘇っている——そんなふうに見えた。
一曲目が終わり、美都梨はMCに移る。
「えー、私はロックの中でも、シティポップがお気に入りです。私たちからすると祖父母の世代の音楽でして、これは日本独自のジャンルとされています。80年代特有の、日本が元気だった頃の上昇感、未来は明るいという希望が感じられるんです。このシティポップを令和の甲府で歌いたい、そしてこの街を盛り上げたいと思っています」
会場に拍手が響く。心なしか、演奏前よりも心が籠っている。
会場にいるお年寄りにも、MCが響いたらしい。
3曲、15分間。美都梨の指は弦を滑り、鈴華のスティックがリズムを刻み、文乃のキーボードが音色を重ねる。
ベース不在の穴を埋めるべく、文乃が左手で低音を補い、美都梨がカッティングでリズムを強調する。
不完全ながらも、三人の音は確かに一つに絡み合っていた。
やがて最後の曲が終わり、美都梨がマイクを握る。
「オン・ドラムス、青山鈴華。オン・キーボード、難波文乃。そしてギターアンドボーカル、私、山下美都梨でした!」
拍手が、先ほどよりも少しだけ大きくなった気がした。
美都梨は息を整え、最後の言葉を紡ぐ。
「次にお会いする時には、ベーシストを加えて、より厚みのある音をお届けしたいです。皆さんどうぞまた、よろしくお願いします!」
テントに戻ると、鈴華が真っ先に口を開いた。
「突貫工事でも意外と上手くいったじゃん?」
「うん、手応えは十分だったと思う」
文乃が頷きながら、美都梨の方を見る。
「美都梨は――」
しかし、その言葉は途中で止まった。余りの集中にエネルギーを使い果たしたらしく、放心状態の美都梨がそこにいた。
彼女はギターを抱えたまま、虚空を見つめている。
「うん、相当疲れてるみたい」
文乃が苦笑する。
「座らせてあげなきゃね」
鈴華が美都梨の腕を引いてパイプ椅子に座らせた、その直後だった。
「今外に伊藤琴音さんって子が来てるわよ。あなたたちに会いたいって言ってるけど、通していいかしら?」
係の者の言葉に、三人の動きが止まる。やがて、テントの入り口から現れた琴音は、どこか居場所なさげに立っていた。
「皆んなお疲れ様、演奏聞いたよ」
琴音の声は、少し震えていた。
「やっぱり音の厚みを出すには、ベースが不可欠だと思う。アレンジで工夫するにも限界があるから……だから……その……」
彼女は一度、息を飲んだ。
「ほら、知ってのとおり、私はベースが弾ける訳だし……」
「琴音」
美都梨が立ち上がり、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「変な理屈に逃げなくていいんだよ。一緒に演奏しよう?」
その言葉に、琴音の表情が崩れた。
「美都梨、皆んな……ごめん。ごめんね!」
彼女の声が、涙交じりに弾ける。
「ベースは私が弾きたい!美都梨の夢に私も乗ったから!」
「琴音、お前バカヤロー!」
鈴華が飛びつくように琴音に抱きついた。
「散々心配させやがって!ずっと待ってたんだぞ!」
「鈴華、ごめんね」
「琴音のベースが鳴らないと、私も寂しいんだからな!」
「ほんと、ごめん!」
琴音が謝ると、鈴華は彼女の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「罰として……よーし、よーし、よーし、よーし、よーし」
「鈴華、私をペットみたいに撫で回すのはやめて」
琴音が抗議するが、その口元はわずかに緩んでいる。
「でも、まんざらでもないんでしょ?」
鈴華がニヤリと笑う。
「うん……ちょっと恥ずかしいけど……嬉しいかも」
「そりゃあ良かった!よーし、よーし、よーし、よーし、よーし」
鈴華が再び撫で回そうとした、その時だった。
「……ねえ鈴華、どさくさにまぎれて胸を揉むのはやめてくれる?」
琴音の冷静な指摘に、鈴華の動きがピタリと止まる。
「バレたか!いつの間にかまた成長してるなと思ってさ。今サイズ何?」
「公共の場で何てこと言うんだ!」
琴音が顔を赤らめる。
「鈴華ぁ、デリカシー!」
文乃が呆れた声を上げる。
その様子を、美都梨はまだ少しぼんやりとした頭で眺めていた。
初陣は終わった。そして三顧の礼は、少し時を置いて成就した。
御館様、軍師様、我ら「南蛮楽器衆」は、これにて旗揚げが適いそうです。




