不器用な天使、君が欲しい
琴音のベーシストとしての才能が欲しい。
バンドメンバーに迎えて共に活動したい。しかし無理強いは出来ない。そのジレンマに、美都梨は頭を抱えていた。鈴華と琴音、そのドラムとベースの息の揃いようは、一朝一夕に身に付けられるものではない。家族同然に育ったからこその圧倒的な密度の濃さ、それでこそ醸し出される山の如く安定感。ロックバンドのリズム帯として、これ以上望めないほどに貴重な戦力だった。
琴音を軽音部の部室で見かけた日は、その後一度もない。鈴華ルートでの説得を試みてはいるが、上手くいく様子がない。
以前にいたバンドでは人間関係のトラブルがあったと聞くが、一体何があったのだろうか。いつ代わりのベーシストが見つかるかも分からない軽音部では、ベース不在で活動を進めざるを得ない。曲のアレンジも、自ずとベースの不在を埋め合わせる形になる。
「あーあ、ベース不在のロックバンドなんて、出汁を入れ忘れた味噌汁だよぉ。
奥行きのない残念感が漂うんだ」
そんな本音を胸に、美都梨は眠りについた。
夢の中で、美都梨は甲府盆地を見下ろす山に立っていた。しかしそこから見える建物は、令和の甲府のそれではない。木造茅葺の民家が点在する風景は、この地の百姓の暮らしをそのまま映し出している。二度あることは三度あるというが、また信玄公がお出ましになるのだろうか。
そんな考えを抱いた直後、背後で馬の蹄の音が聞こえ、こちらに近付いてくるのが分かった。視界に入ってきたのは、直垂姿の武士だった。
馬から降りたその武士は、左目には眼帯、顔には戦で負ったであろう古傷。同じく戦傷によるものと思しき、片足を引きずるように歩く姿。しかし漂う厳しさが弱さを一切感じさせない。それを見るにつれて、美都梨はその正体を確信し、慌てて平伏した。
「娘よ、そなたは何者じゃ?」
「美都梨と申します、この府中にて育ちました。恐れながら、甲斐の大軍師と名高い、山本勘助様とお見受け致します」
「いかにも。よう知っておるな」
「私とて甲斐の女子なれば、幼な子の時より聞かされておりまする」
「そなた、もしやいずれかの折にお館様に目通りした娘じゃな?南蛮琵琶の名手と聞き及んでおるぞ」
「はい、恐れ入りまする」
「良い面構えじゃ。肝が据わっておる。ところで、そなたはここで何をしておる?」
「実は……」
山本勘助から問われ、美都梨は自身が置かれた状況を語り始めた。自分が敬愛してやまない音楽の師がいること。その師と同じ時代を生きたヴィンテージギターを、夢の中で信玄公から託され、現実にも祖父の遺品として手に入れたこと。そのギターを携え、これから仲間を集めてバンドを組み、この甲府の街に自分たちの音楽を響かせようとしていること。しかし肝心のベーシストとして迎えたい人物が、過去の人間関係のトラブルを理由に首を縦に振らず、その説得に苦心していること——。
美都梨の言葉は、最初こそ戸惑いがちだったが、自身の夢と現実の奇妙な符合について語るうちに、次第に熱を帯びていく。信玄公から託されたギターを手にした以上、その期待に応えねばならないという責任感と、どうしても琴音というベーシストの才能を手放せないという切実な焦りが、彼女の口調の端々に滲んでいた。
「ほう。そなたの楽器衆に加えたい才覚者がおるが、首を縦に振らぬか」
「はい。このまま捨て置くには惜しい者なれど、無理強いする訳にも参りませぬ」
「そうか……そなたはかの国の諸葛孔明を存じておるか?」
「あの古の大軍師と名高いお方」
「いかにも。この孔明を召し抱えるにあたり、劉玄徳は三度その者の庵を訪ね、誠を尽くしてこれを迎えた。これを三顧の礼という」
「三度尋ねれば、その才覚者も仲間に加わると?」
「これこれ、三度とはあくまで例えに過ぎぬ。誠を尽くし訪ね参ることこそ肝心ぞ」
「はっ、失礼致しました」
「千里の道も一歩からと申す。焦らずに歩むがよい。わしが軍略の師と仰ぐ孫子曰く、『己を知り、敵を知れば、百戦危うからず』じゃ。先ずはその者のことを知ることから始めてみよ」
「軍師様、お知恵を授けていただきありがたき幸せ。この美都梨、励みまする」
「うむ、精進致せ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
美都梨は意を決して、琴音に直接声を掛けた。
「お茶でも行こうよ。琴音ちゃんのこと、もっと知りたいからさ」
琴音は一瞬驚いた顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「いいよ、お茶ぐらいなら。山下さんのことだったら、私も知りたい」
甲府駅で待ち合わせた二人は、喫茶店に入りアイスティーを注文する。しかし話は少しばかりぎこちなかった。
「そういえば、よく私を誘う気になったね。ほら私、鈴華と違ってノリ悪いから」
琴音がストローを弄りながら言う。
「おまけに身長もあるから、皆んな圧を感じるみたい。女子からもあまり話し掛けられないんだよね」
170センチあるというその身長は、美都梨の目には美点として映っていた。
美都梨は何と答えるべきか分からず、黙って相槌を打つ。
「鈴華から聞いたかな?私さ、親と離れて暮らしてるんだ。仕事で海外住まいだから、鈴華の家で育ったの。もちろん良くしてくれてるよ。叔父さんも、叔母さんも、本当の親みたいに育ててくれた」
琴音の声が、少しだけ小さくなる。
「小さい頃からずっと気になってたんだよね。本当にここにいてもいいのかなって」
「そうなんだ……」
自分が経験したことのない悩みを打ち明けられて、美都梨は言葉を返せずにいた。実の両親とひとつ屋根の下に暮らし、安心して育った自分の境遇が酷く幸せに思えて、どこか申し訳なさすらも感じる。
気まずい空気を拭うべく、美都梨は自分なりに考えた末の提案を口にした。
「ねえ、よかったら楽器屋に寄ってかない?」
お互いの共通の趣味である音楽、それにまつわる場に行くことで、仕切り直しを図ろうとしたのだ。
「うん、行く。納藤楽器だよね?」
琴音の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「そだよ、私の行きつけのお店」
「この街で楽器をする人は、皆んな行くお店だもんね」
納藤楽器に到着し、一階のギターコーナーを眺めながら、琴音がぽつりと呟いた。
「前に居たバンド……私が人間関係でやらかして、鈴華にも迷惑掛けた。私はいない方が良いと思ってる」
美都梨は息を呑んだ。琴音の声には、自己嫌悪と諦めが混ざり合っていた。
「もう私、どうしたらいいんだろう?」
しばらくの沈黙の後、琴音が陳列されたベースを眺めながら呟く。
「こうして見ると、やっぱりベースってカッコいいな。……私にとってベースはね、鈴華と私をつなぐ存在なんだ。……青山家の皆んなと私をね」
やり場のない寂しさが、琴音の目に浮ぶ。美都梨は無言で頷くしかなかった。
「急にしんみりさせてごめんね。そうだ、ちょうど弦を交換する頃だったから、二階で買って来るよ。ちょっと待ってて」
そう告げて階段に消えていく琴音を、美都梨は無言で見送った。
「やあ、新しいお友達かい?」
背中から声を掛けられた美都梨が振り返ると、そこには中森が立っていた。いつも通り店番を兼ねて、修理スペースで作業をしている。作業台にはアルトサックスが横たえられ、どうやら今はその調整中らしい。弦楽器から金管、木管と、彼が扱う楽器の範囲の広さには、いつも驚かされる。
「そうなんです、彼女は凄腕のベーシスト。一緒にバンドしようって誘っているんですけど、断られてばかりで」
「そうなの、あの子じゃなきゃダメなんだ?」
「はい、あの子の従姉妹は凄腕のドラマーで既にメンバーなんです。二人の呼吸がピッタリ合うので、何とかベースの彼女も口説き落としたいんですけど」
「なる程ねぇ……」
中森は階段の方を一瞥し、穏やかな声で言った。
「あの感じは、気長に誘い続けるしかなさそうかな」
「ですよねぇ……」
中森から何か具体的なアドバイスが出るかもと、一瞬だけ期待した美都梨は溜め息交じりで答える。
「自分の居場所を探してるけど、まだ気持ちにブレーキが掛かって踏み出せない感じかな」
中森の言葉に、美都梨は深く頷く。
「うーん……その点はバンドが、あの子の居場所になれるはずなんですけどね。……やはり軍師様の言うとおり、1回お茶するぐらいじゃ無理か。」
「え?軍師?」
「あ、えーと、その……山本勘助みたいな軍師だったら、こんなときどうするかなぁ……なんて思って。」
「『疾きこと風の如ごとく』ってかい?僕に戦国武将の作戦は分からないけど。美都梨ちゃんは、あの子の友達になってあげればいいじゃない?」
中森の何気ない一言が、美都梨の胸の奥に静かに落ちた。
友達。
そうだ、琴音が求めているのは、バンドメンバーという機能的な関係性ではなく、もっと手前の、人間同士の繋がりなのかもしれない。
今の彼女にとっては、バンドに誘う口実ではなく、純粋に彼女という人間を知ろうとする姿勢そのものが、何よりの説得材料になるだろう。
「……そうですね。ありがとうございます、中森さん」
美都梨は小さく笑い、階段の方を一瞥した。まだ琴音は戻ってこない。
「あの子が戻ってきたら、今日はもうバンドの話はしません。ただ一緒にベースこととか、帰り道の話をしようと思います」
「それがいい。急いては事を仕損じるって言うからね」
中森はそう言って、優しく微笑み返した。
階段から琴音の足音が聞こえてくる。美都梨は背筋を伸ばし、自然な笑顔を顔に貼り付けた。バンドの話は今日はしない。その代わりに、この出会いをただの一度きりの茶会で終わらせないための、小さな種を蒔こう。
琴音が新品の弦のパッケージを手に姿を現すのを待って、美都梨は軽い調子で声を掛けた。
「ねえ琴音ちゃん、今度私の行きつけのラーメン屋、一緒に行かない?甲府駅の近くに割と最近できた味噌ラーメン」
琴音は一瞬、警戒したように目を細めたが、美都梨の表情にバンドの話を持ち出す気配がないのを察すると、小さく頷いた。
「……いいよ。ラーメンなら、私も嫌いじゃない」




