僕等の想いも きっとよみがえる
見るからに大掛かりなメンテナンスが必要な状態であるそのギターを、美都梨は敢えてその場で弾こうとはしなかった。急すぎる棚ぼた展開に、彼女の心はまだ全く追いついていなかったからだ。
それに何より、ここで下手に触れて愛着を持ってしまい、もしこのギターが二度と音を鳴らせない状態だと判明した時の衝撃に、彼女は耐えられそうになかった。祖母の家を後にした美都梨は、その足で真っ直ぐに行きつけの楽器店へと向かった。
納藤楽器はこの街の老舗で、甲府駅から徒歩5分ほど、甲府市役所の近くに位置する。この街で楽器演奏をする者ならば、大抵はこの店のお世話になるのが定番である。
美都梨が初めてギターを手にした頃から世話になっており、弦やピックなどの消耗品は、いつもここで買うと決めている。中森という馴染みの店員は、腕が良いと評判の楽器修理士でもあり、いつもどおり1階のギターコーナーで修理作業をしていた。
「おお、美都梨ちゃん、久しぶりだね。」
「中森さん、こんにちは。これを見て欲しいんです。」
「これは随分と年代モノだね。どこで手に入れたの?」
カウンター越しにハードケースを受け取った中森は、中身を見た瞬間に目の色を変えた。
「夢の中で信玄公……じゃなくて、祖父の遺品として出てきたんです。これって、70年代のヴィンテージですよね?ずっと放置されていたみたいで、鳴るかどうかも分からないのですが……使える状態にできそうですか?」
美都梨は祈るような気持ちで尋ねた。
「お爺さんの遺品となれば特別な一品だね、安心して。少し時間は掛かるけど、蘇らせるからね」
中森の力強い言葉に、彼女はようやく少しだけ肩の荷を下ろすことができた。
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数日後、再び店を訪れた美都梨を待っていたのは、見違えるように生まれ変わったテレキャスターだった。
中森の話によれば、ギターを一度部品ごとに完全に解体し、長年の汚れを落としてから再調整するという、一番念入りなメンテナンスを施してくれたらしい。交換が必要な消耗部品だけを新調したが、それ以外はオリジナルのままだ。
磨き上げられたボディは、年季の入った焦茶色に鈍く輝き、まさにあの方が抱えているギターと瓜二つだった。あの方と同じデザインのストラップを通し、美都梨はゆっくりとそのギターを肩に掛けた。テレキャスター特有の角張ったボディが腹に触れ、その存在感を示す。
「重い……」
彼女の口から、自然とその言葉が漏れた。夢の中で感じたあの感触が、今確かな現実として彼女の腕の中にあった。これが本物。長い間、時代の空気を吸いながら静かに眠り続け、たった今、長い眠りより目覚めたばかりの楽器。
店のアンプに早速繋いで試奏する。テレキャスター特有の音の厚みに、年月を経た楽器特有の重厚感、それでいて木の乾燥がもたらす軽やかさ。得も言われぬ充足感に、美都梨の瞳が潤む。
「ジッちゃん、ありがとう……。中森さん、本当にありがとうございます」
震える声で礼を言うと、中森は少し照れくさそうに笑った。
「実はね、美都梨ちゃん。僕みたいな職人はね、古い物を蘇らせるのが一番冥利に尽きるんだよ。そして君は、その価値をちゃんと分かってくれている」
「中森さん……」
「世の中はなんでもかんでも新品をありがたがる風潮だけど、美都梨ちゃんみたいな若者が、古い物を大切に受け継いで使ってくれると、修理士としては本当に嬉しいんだよね」
「中森さん……このギターは、祖父からのプレゼントだと思うんです。私がずっと鳴らしたかった音が、これでやっと鳴らせる気がします」
「そうだったか。美都梨ちゃんも、いつの間にか立派な職人の顔になってきたね。頑張って」
「はい!」
美都梨の笑顔が、店内の柔らかな照明に照らされていた。
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ギターを布で拭き、ケースに収めながら、中森がふと思いついたように口を開いた。
「そういえば美都梨ちゃん、修理しながら思っていたんだけど。このギターって、なんかカブトムシみたいじゃない?」
その一言に、美都梨の肩がぴくりと跳ねた。さっきまで食い入るように見つめていた愛機を、思わず半歩ぶん遠ざける。
「うっ……中森さん、私は虫嫌いなんですよ」
「えっ、そうなの?いやぁ、男子からしたらカッコいい虫なんだけどなぁ」
中森は悪気なく笑ったが、美都梨の表情は晴れない。眉をしかめたまま、ギターの角張った胴を見つめる。
「そう言われても、私にはゴキブリと区別が付きませんよ……」
「……そこまで深刻なの?」
さすがの中森も苦笑いになった。だが、すぐに気を取り直したように、作業台の脇を指先で軽く叩く。
「うーん、でもカブトムシは英語で『ビートル』って言うでしょ。正確には甲虫全般らしいけどさ。これなら『ビートルズ』みたいで、音楽寄りな単語なんだけどね」
「あ、確かに……」
美都梨は小さく瞬きをした。
ただの”虫”として拒絶していた言葉が、英語になった途端、不思議と別の輪郭を帯び始める。ビートル。たったそれだけで、湿った土の匂いや甲虫の脚音より先に、古いレコードジャケットや、世界を変えた四人組の名前が胸に浮かぶのだから、人間の認識というものは案外あやふやだ。
改めて見ると、そのギターはたしかに甲虫めいていた。頑丈さを帯びたボディライン。深い茶色の塗装。光の当たり方によっては黒にも赤にも転び得る、硬質でいてどこか有機的な艶。無骨な見た目なのに、完全な工業製品には見えない。長い時間を経た物だけが持つ、体温のようなものがそこにはあった。
元祖ロックバンドとして語られるビートルズを連想させる響きも悪くない。むしろ、美都梨のように音楽の来歴を大事にする人間にとっては、少し出来過ぎなくらいだった。
とはいえ、虫嫌いの彼女にとって、新しい相棒を虫呼ばわりするのは、それなりに勇気のいる決断でもある。
「……ビートル、か」
試しに口の中で転がしてみると、思ったより語感が悪くなかった。短くて、硬そうだが、どこか愛嬌がある。カブトムシという日本語の生々しさは薄れ、代わりに古い輸入盤のジャケットみたいな洒落た響きだけが残る。
中森はそんな美都梨の反応を見て、してやったりという顔で頷いた。
「でしょ?虫っていうより、相棒のコードネームっぽいじゃん」
「コードネームって言われると、ちょっとカッコよく聞こえますね」
「そうそう。見た目はいかついのに、呼び名は妙に可愛い。そのギャップもいい」
美都梨はもう一度ギターに目を落とした。修理を終えて整えられたその姿は、店に持ち込んだ時よりもずっと堂々として見える。古びているのではなく、時間を生き延びてきた顔だ。
「……よし。じゃあ今日から、君はビートルで」
小さくそう呟くと、胸の内にまだわずかな抵抗は残りつつも、それ以上にしっくり来る感覚があった。
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帰宅後、美都梨はそのギターを父の工に見せた。夕食前の居間には、テレビの小さな音と、台所から漂う出汁の匂いが混ざっている。そんな生活の匂いの中へ、彼女は少し誇らしげに新しい相棒を連れ込んだ。
「お父さん、見て。名前、決めたんだ」
「名前?」
新聞から顔を上げた工の視線が、ギターへと移る。
「ビートル」
「ビートル?ドイツの車のことか?昔の車なのによく知ってたな」
「違うよ、お父さん。カブトムシみたいだからだよ」
「あぁ、そういうことか。ん?お前は虫嫌いだったよな?」
「そうだけど、これは別なの」
美都梨は少しだけむっとしながら、ギターのボディを撫でた。工はその様子を見て、可笑しそうに笑う。
「毎日ビートルを抱えてりゃ、そのうち虫嫌いも直るかもな」
「はいはい、期待しないで待っててね」
軽口を返しながらも、美都梨の手つきはどこか優しい。工はソファに深く座り直し、改めてギターを眺めた。
「にしても良かったな、美都梨。親父がそんなビンテージギターを持っていたなんて、俺も知らなかったからな」
「やっぱりそうなんだ?」
「俺が生まれる前にギターを弾いていたのは、お袋から何となく聞いてはいたけどな。でも俺にギターの話をしたことは無かったからなぁ」
工の言葉に、美都梨はふと黙った。
祖父が若い頃にどんな音を鳴らしていたのか、彼女はまだ知らない。けれど、その人が抱えていたギターを今は自分が抱えていると思うと、不思議な縁のようなものを感じる。誰かの青春だった木と弦が、時間を越えて自分の手の中にある。その事実だけで、このギターはただの中古品ではなくなっていた。
「……じゃあ、この子はじっちゃんの時代から生き延びてきたんだね」
「大げさだけど、まあそういうことになるかもな」
「そっか」
美都梨は小さく頷いた。ビートル。その名は、虫嫌いの自分を少し困らせる。それでも、古い時代を背負ってなお鳴るこのギターには、妙に似合っている気がした。
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「あのギターを持って、躑躅様にいらっしゃい」
ビートルを抱えた美都梨は、祖母に促されるまま、躑躅ヶ崎神社へと向かった。
甲府最大の規模を誇るこの神社は、かつて武田信玄の一族が住んだ館の跡地に建っている。
甲府駅北口から一直線に伸びる緩やかな上り坂を登りきった頂上から、街を見下ろすその姿は、まさにこの街の守り神と呼ぶにふさわしい。
信心深い祖母のことだ。祖父のギターが蘇ったのだから、供養も兼ねて神社にお参りするのがよいと思ったのだろう。美都梨はそう予想していた。
しかし神社に到着すると、状況はもう少し複雑だった。
「こっちよー、予約はしてあるから」
祖母に手を引かれ、社務所に入れられた美都梨は、そこで初めて、これからギターをお祓いすることを知った。
「ええ?お婆ちゃん、私そんなお金持ってないよ」
「いいのいいの、私が出すから。こういう大事なときには、神様仏様の力をお借りするものなのよ」
拝殿に通された2人は床几に座りしばらく待っていた。やがて狩衣に烏帽子姿の神職が来て、厳かに御祈祷を始める。台の上に横たえたビートルには、うやうやしく大幣が振られ、その身が清め祓われた。
その後はしばらく低頭したまま、宮司による祝詞奏上を聞き続けることになる。上代語による独特の響きは心地よく、このところの興奮で寝不足気味だった美都梨の意識を奪うには十分すぎた。
「南蛮琵琶は、その鳴りを取り戻したと見えるな」
その声に顔を上げると、そこに立っているのは武田信玄だった。
「娘よ、また会えたな」
「これは……お館様、なぜこちらに?」
「はて、おかしなことを聞く娘じゃ。この社は、もとを正せば我が一族の屋敷ぞ」
「確かに……。はっ、申し遅れました。お館様におかれましては、ご機嫌麗しゅう、恐悦至極に……」
「よいよい、かように堅苦しい挨拶は聞き飽きておる。それより南蛮琵琶じゃ、その後いかに?」
「はい、恐れながら申し上げます。その後しばらく、職人に預けましたところ、見事に息を吹き返しておりまする。誠に良い鳴りにて、あれほどの一品は天下広しと言えど、滅多に探せるものではございませぬ」
「それは良い!それでこそ、そなたに託した甲斐もあったというものじゃ」
「はい、恐れ入ります!」
「ところで、そなたのお婆殿は、なかなかに信心深いと見えるの」
「はい、それはもう。私が志を立てようとしており、ならば神仏に祈願すべしと、そう言って連れてこられた次第にて」
「うむ。その志とは、琵琶の才にて世に打って出るということじゃな」
「はい」
「しからば、旗揚じゃ。先ずはそなたの仲間を募るがよい。差し詰め『南蛮楽器衆』かの。そしてこの街に、そなたらの調べを満たすのじゃ」
「誠に出来ましょうか……私に」
「怖気づくか……しかし、このわしにはお主の天下取りの野心が見えるぞ。なあに、わしも天下を狙った身じゃ」
「これは……恐れ入ります」
「うむ。琵琶名人の美都梨よ!そなたはその才を以て天下に号令せよ!府中、甲斐一国は言うに及ばず、この日の本にその音を響かせるがよい!」
信玄の右手に握られた扇子は真っ直ぐと美都梨に向けられ、彼女は反射的に背を正して返事をする。
「……お、お館様!この美都梨、励みまする!」
突然の声に、周囲にいた一同が目を丸くした。
急に低頭の姿勢から直った美都梨の口から、令和女子高生からは決して聞くことのない、古めかしい言い回しが飛び出したからだ。
「……あれ?……あ、すみません」
我に返った美都梨は慌てて、バツが悪そうにうつむいて座り直す。
しかしそれと同時に祝詞奏上も終わる頃合いであった。
御祈祷を終えた後、宮司が美都梨に話しかけてきた。
「もしかして、信玄公と話していたのですか?」
「あら、やっぱりそうなの?ここは信玄公のお屋敷があった場所だからねぇ。」
天然ながらも察しの良い祖母も、微笑みながら尋ねてくる。
「宮司さんの祝詞があまりに心地よくて。すみません……寝落ちしていました。そうしたら信玄公が夢に出て来て……旗揚げだとか、天下に号令せよとか。」
居眠りしてしまった手前、美都梨は居心地悪そうに返事をするしかなかった。
「……そうでしたか。ならばぜひ、信玄公の言葉を信じて行動してみましょう。なんと言っても、この地の守り神からのお告げですから。」
至極当然という具合に美都梨の言葉を肯定する宮司を見て、美都梨は納得してしまいそうだった。神を相手にする仕事とはこういうことなのかと。
「あの……そういうものなのでしょうか?ただの居眠り中に見た夢ですが?」
「ええそれでも、御祈祷中に起こったことですよ。人知の及ばぬ世界からの言葉として、受け止めてみましょう。」
春の穏やかな風が、拝殿にも優しく流れる午後であった。




