君の声に恋してる
彼女の中学時代3年間は、ただひたすらに音楽へと捧げられた。
部活動には所属せず、学校が終われば真っ直ぐに帰り、取り憑かれたようにギターを掻き鳴らす日々。あの初夏のフェスで浴びた、圧倒的な音と声の記憶。
それを自らの手で再現したいという渇望だけが、美都梨のすべてだった。来る日も来る日も、指先の皮が擦り切れ、硬くなるまで弦を押さえ続けた。
休日はもちろん、平日であっても日に6時間ギターを抱えていた時期もある。
美都梨が通っていた中学校は、全国大会にも出場するような吹奏楽の強豪校だった。放課後の校舎からは、いつも厳しい練習の音が響いてくる。休みの日でさえ、彼らは楽器を手放さない。ジャンルも、目指す場所も全く違う。言葉を交わしたことすらほとんどない。けれど、遠くから聞こえてくるそのひたむきな音色に、美都梨は勝手に「同士」のような連帯感を感じていた。彼らがこれほどまでに打ち込んでいるのだから、自分も負けてはいられない。
そうやって、孤独な練習のモチベーションに変えていたのだ。あの絶対的なお手本と同じ音を奏でたい。その一心で弦を弾き続けた結果、中学を卒業する頃には、大抵の楽曲は満足に弾きこなせるようになっていた。
美都梨は決して、特別な才能に恵まれた天才ではなかった。少なくとも本人はそう思っている。ただ、どうしようもなく好きだったから、泥臭い努力を継続することができた。本当に、ただそれだけのことだ。そして、演奏技術の向上と並行して、彼女は作曲の勉強にも手を伸ばし始めていた。あの孤高の背中を目指して。
彼が紡ぎ出すような、洗練されていて、それでいて魂を震わせるような音楽を、ただひたすらに追いかけて。歩みはひどくゆっくりとしたものだったけれど、それでも確かに、美都梨は自分の足でその道を歩み始めていた。
あの孤高の背中を追いかけるうちに、美都梨は途方もなく高く、分厚い壁にぶつかってしまった。自分の手にあるギターの鳴りが、彼のそれとは決定的に違いすぎるという残酷な事実に直面したのだ。
彼女がミュージシャンを志したときから愛用しているギターは、決して悪いものではない。中級者からプロ奏者にまで幅広く使われている、評判の良いモデルだ。
それでも、あの絶対的なお手本の領域に並び立つには、70年代に製造された同モデルでしか表現できない特有の「鳴り」が必要だった。メーカーが当時のモデルを復刻することはある。完成度は極めて高く、見た目も音の傾向も瓜二つだ。しかし、決して同じにはならないのだ。
表面的な空気感は模倣できても、長い年月が木材の奥深くに染み込ませた本物の響きだけは、どうやっても真似しきれない。それは単なる物理的な古さではなく、楽器が経てきた歴史そのものが発する、言葉にならない魂の震えのようなものだった。
あの男と同じヴィンテージギターを手にしたい。
いつしか彼女は、ただひたすらに、
そう狂おしいほどに望むようになっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
放課後の教室。窓から差し込む傾きかけた西日が、机の上のノートをオレンジ色に染めていた。部活動に向かう生徒たちの喧騒が遠く聞こえる中、美都梨は幼馴染で親友の難波文乃と向かい合って、深いため息を吐き出した。
「へえ、美都梨の欲しいギターって、そんなに高いの?」
文乃は理知的な銀縁のメガネを押し上げながら、不思議そうに首を傾げた。
「そうなんだよー。とてもじゃないけど、高校生がポンと買えるような代物じゃなくてさ」
美都梨は机に突っ伏し、恨めしそうにうめいた。
「でも、そのギターじゃなきゃいけない理由があるんだよね?」
「もちろん!」
美都梨は勢いよく身を乗り出し、熱を込めて語り始めた。
「一番大事なのは、木材の乾燥なんだ。古いギターは木が芯まで乾ききっているから、鳴りが全然違うの。何十年もかけて、ゆっくりじっくり自然乾燥するのがミソなんだよ。……とはいえ、ただ古ければいいってわけでもなくてさ。ぶっちゃけ、古いうえに鳴りもいい個体に巡り合うのは、ほとんど賭けに近いんだよね」
工務店で働く父親譲りなのか、木材について語る美都梨の口調には、どこか職人じみた熱がこもっていた。
「へえ、そうなの」
自宅でピアノ教室を開く母親の元で、幼い頃からクラシックの英才教育を受けてきた文乃は、面白そうに美都梨の熱に浮かされたような顔を見つめている。二人の付き合いは長い。美都梨の父親が、文乃の家の防音室を施工した時からの縁だ。
「本当はさ、峠先生と全く同じお揃いのギターにしなくても、機材や弾き方でそれっぽい音は再現できるはずなんだ。だけど、自称一番弟子としてはさ、先生と同じ時代を生きた年代の品に、どうしてもこだわりたいんだよね」
「なんだか、片思いみたい」
文乃の口からポロリとこぼれたその言葉に、美都梨は思わず目を丸くした。
「キレイにまとめるね。流石は文学少女。正にそれだよ」
美都梨は図星を突かれた照れ隠しに、少しおどけた声を出した。
「ずっと先生の背中を追いかけているのは、叶わない片思いだよ。でも、憧れってそういうものでしょう?はい!私、音楽に恋するうら若き乙女です!」
「はーい、宣言いただきました」
文乃は読みかけの文庫本を閉じ、クスクスと笑い声を上げた。
「うーん、でもその気持ちは分かるかも。私にも、ピアニストとしてずっと憧れている演奏家がいるからね。同じ空気を吸っているような感覚になりたいっていうのは、表現者なら誰でも持つ欲求じゃないかな」
「さすがは文乃、我が親友!分かってらっしゃる!」
美都梨は大げさに天を仰いだ。
「……あーあ、どこかにそのヴィンテージギター、落ちてないかなー」
「落ちてるって、お財布や定期券じゃないんだから」
文乃の呆れたようなツッコミに、美都梨は力なく笑うしかなかった。
「だよねー」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
令和の時代において、骨董品としてプレミア価格がつけられたそのヴィンテージギターは、数十万から数百万円もする。とてもではないが、一介の高校生に買えるようなものではない。それでも何とかならないかと、美都梨は来る日も来る日も考え続けた。アルバイトを掛け持ちしたところで、何年かかるか分からない。宝くじにでも当たるか、いっそ法に触れるような稼ぎ方でもしない限り、絶対に不可能だ。
その冷酷な結論に行き着いた夜、彼女は自室のベッドで布団を被り、どうしようもない悔しさに声を殺して泣きじゃくった。スマートフォンに映る、手の届かないヴィンテージギターの画像を睨みつけながら、ギリギリと奥歯を噛み締める。こだわりすぎだと言われれば、それまでだ。そんなことは、自分自身が一番よく分かっている。
親友の前ではおどけて見せたが、諦めきれるはずがなかった。でも、表現者であるならば、その一音に命を懸けてこだわってなんぼではないか。誰にも届かない暗闇の中で、美都梨の魂だけが、狂おしいほどの熱を帯びて静かに燃え続けていた。
「悔しい。それでも欲しい」
そうつぶやき涙を流す美都梨は、やがて疲れ果てながら眠りについた。そんな時に見る夢とは、ひどく奇妙なものである。
ふと気づくと、視界に入る景色は見知らぬ天井である。美都梨は静寂に包まれた広大な日本家屋の畳の上に座っていた。いや、その重厚な造りは、家屋というよりはお屋敷、あるいは武将の館と呼ぶ方が相応しい。さらに奇妙なのは、上座に鎮座している人物だった。
ろうそくに灯され、威風堂々たる体躯に狩衣を纏い、鋭い眼光を放つ坊主頭の男。甲府の地で育った人間ならば、一目見ただけでその正体を理解できる。
武田信玄、その人だった。




