プロローグ:Sparkle
そのカッティングは、心に波を刻んだ。
そのファルセットは、世界を書き替えた。
そのパフォーマンスは、人生を定義した。
そうして山下美都梨という少女は、音楽という熱にあてられた。
彼女の原点は小学6年生の初夏にあった。
ロック好きの父親工に連れられて足を運んだ、地元山梨での野外音楽フェス。むせ返るような青草の匂いと、肌を刺す初夏の日差しが、少しだけ退屈していた彼女を包み込んでいた。
音楽そのものは嫌いではなかったけれど、特定のバンドに熱を上げるような年齢でもなかった美都梨は、ステージの上で次々と入れ替わる大人たちを、ただ年相応の好奇心で眺めているだけだった。まだ自分だけの特別な何かを見つけていない、どこにでもいる平凡な少女の瞳に、その男は唐突に映り込んだ。
ニット帽を目深に被り、長髪を揺らすその男は、使い込まれた焦茶色の渋いエレキギターを抱えていた。マイクの前に立ち、彼がその弦を弾いた瞬間。空気が、いや、世界そのものの位相が変わった。
スピーカーから放たれたその音は、鼓膜を通り越して、美都梨の心臓を直接鷲掴みにした。周囲を埋め尽くしていた観客の歓声も、初夏の風の音も、すべてが遠くへ退いていく。全宇宙の暗闇の中に、ただ彼女とその人のみが取り残されたかのような、圧倒的な孤独。だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。
彼が静かに息を吸い込み、マイクを通して第一声を発した瞬間。美都梨の内に閉じこもっていた暗闇は、眩い光の奔流によって一瞬にして打ち砕かれた。それは、どこまでも高く、伸びやかな歌声だった。甲府盆地を囲む山々を越え、初夏の青空の果てまで突き抜けていくような、圧倒的な透明感と力強さ。
都会の洗練を纏いながらも、なぜか魂の根源に触れてくるような神聖な響きを持っていた。鋭いギターの音色が少女の心をかっさらい、天から降り注ぐようなその歌声が、空っぽになった彼女の心を優しく、しかし絶対的な力で満たしていく。
あまりの美しさに、彼女はただただ圧倒されていた。完全に、心を奪われてしまっていたのだ。12歳の少女が抱えていたちっぽけな世界観は、その音と声の完璧な調和によって、見事なまでに塗り替えられてしまった。彼女の視線の先で、一切の無駄を削ぎ落とした職人のような手つきでギターを奏でるその男の名は、峠達郎。
80年代のシティポップ全盛期に数々の名曲を生み出し、孤高の天才と称されたシンガーソングライター。メディアへの露出を極端に嫌い、ただひたすらに完璧な音を追求し続けるその妥協なき姿勢は、多くの若手ミュージシャンにとって手の届かない憧れであり、生きた教典でもあった。
今なお語り継がれる生きるレジェンドが放つ、圧倒的な本物の輝き。それが、山下美都梨が真の意味で音楽の洗礼を受け、人生をかけて追い続けるべき絶対的なお手本を見つけた、運命の出会いであった。
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「お父さん……私もあれ、やってみたい」
フェスから帰る車中、美都梨がぽつりと呟いた。
「ん?ギターのことか?」
ハンドルを握る工が、ちらりと娘の横顔を窺う。
「うん、エレキギターっていうんでしょ?」
「そうだ、ロックバンドの花形だな」
工の声が、少しだけ誇らしげに弾む。
「私もあんな音、鳴らしてみたいの。あのロン毛のおじさん、凄くいい音出してたから」
「おお、お前も峠達郎が好きか。美都梨も渋いな、良いセンスだ」
「どうしたらあんな、キラキラした音が出せるんだろう……」
美都梨の瞳は、まだあのステージの余韻に揺れていた。かつて自身もロックスターに憧れた工は、娘の志に気前よく応じた。
エレキギターは言うに及ばず、アンプや周辺機材、教則本に至るまで、ギターライフを始めるために必要な一式を買い揃えると決めてしまったのだ。美都梨が何かを始めたいと、自ら切り出したことはそれまでなかった。
一人娘の頼みならばと、我が子可愛さに父親の甲斐性を発揮してしまうのだった。
工に連れられて、甲府駅近くの楽器店に足を運んだ美都梨が、渋くてカッコいいと選んだのは、サンバースト色のギターだった。
楽器の中央から外周へ、黄、赤、黒とグラデーションを描くその塗装は、地肌の木目を塗りつぶさずに活かす、昔ながらのスタイルである。
10万円の価格帯に属するそのギターは、プロ向けの品質には及ばないものの、初心者の子供が持つには十分に上等な品だった。
その値段には珍しいマホガニー製のボディは軽量に作られ、腹部に位置する部分には、身体への当たりを和らげる削り加工まで施されていた。そのため小学生の美都梨にも比較的抱えやすく、長時間の練習には大いに役立った。
マホガニー特有の軽くて甘いニュアンスの音は、彼女が初めて手にした相棒として、その後の3年間、彼女の指先から流れ出す全てのフレーズを支え続けることになる。家に帰ると、美都梨は早速ギターケースを開け、まだほのかに木の匂いの残るそのボディを膝の上に乗せた。工が教則本を開き、基本的な構え方やピックの持ち方を説明する。
「こうやって、ピックは親指と人差し指で軽く挟むんだ。力みすぎると、かえって弦に引っかかるからな」
工は自分の手で空中にフォームを示しながら、娘の指先が自然と動くのを待つ。美都梨は渡された薄い三角形のピックを、何度も持ち直しながら正しい角度を探る。
父親の手が触れることはなく、ただその言葉だけが、彼女の指先を導いた。「そうそう、そんな感じ。最初は誰だってうまくいかないもんだ。焦らなくていいぞ」
工はソファに腰掛け、娘の様子を温かい目で見守ることにした。美都梨は何度も同じフレーズを繰り返し、やがて小さな成功を手にする。
部屋に響いた初めてのクリーンな音色は、彼女自身の耳にも、確かに美しく聞こえた。その夜、美都梨の部屋からは、不器用ながらも確かな意志を宿した音が、遅くまで途切れ途切れに響いていた。
彼女の長い旅路は、こうして始まったのである。




