77話 〈六月中旬〉土の力
ひとまず持ってきた食料を長に預けた後、稲夫たちはアオイの案内で村の端にある空いた小屋へ荷を置きに行った。
道中、何人もの村人がこちらを見ていたが、既に長の話が通っていたのか声を掛けてくる者はいなかった。その対応から歓迎されていないことだけは十分に伝わってくる。
「早速畑と田んぼの様子を見に行こう」
「それなら村から畑の方が近いから先に畑に行こうか。ついてきな」
稲夫達はアオイの案内で村から出ると、浜を離れて歩き始める。林を抜けて、波の音が聞こえなくなる頃、よく耕された畑が見えてきた。
「あれがアオイ達の畑か。結構広いな」
畑にはアワやヒエ、他にも芽を出したばかりの植物が植えられていた。しかし、アワとヒエは葉の色が黄緑や黄色っぽく変色し、茎が細くて草丈も低い。一目で育ちが悪いことが窺えた。
「あんたらが長の言っていた稲夫ってやつか?」
ふいに声がかかる。声のした方を見ると、鍬をもった小柄な男が立っていた。
「オカか。アンタ、もう長から話は聞いてるんだね」
「ああ、さっき長の使いが来て話は聞いた。その二人の事も、お前の事も。よく村に顔を出せたな」
その顔は少しもアオイの帰還を喜んでいない、冷たい目をしていた。アオイは何も言い返さずに視線を伏せる。重苦しい雰囲気が漂い始めた中、それを払うためにも稲夫は一歩踏み出した。
「どうも米田稲夫です。田畑の育ちが悪いと聞いたので、様子を見に来ました」
「……よそ者が。いきなり来たあんたらに何が分かるんだ?あんたらに田畑を見せたところで――」
「長は稲夫様に田畑を見せると決めたはずだ。異論があるなら長に言え」
「ちっ……勝手な事はするなよ」
タケルが低い声で告げると、オカはその体格と携えた矛を一瞥し、舌打ちしながら道を譲った。
「それじゃあ、見させてもらいますね」
稲夫は畑に生えているアワとヒエの前まで歩くと、屈んでまじまじと観察する。上の若い葉も色は薄いが、下の古い葉ほど黄色く変色している。
「この葉の変色はいつからですか?」
稲夫は振り返りオカに問いかけた。
「芽が出てある程度育ってからだ。最初はもっと青かった」
「その後、何かしました?」
「潮のせいだと思ったからな。塩を流すために、水をたっぷり撒いた」
稲夫は思わず畑の向こうへ目をやる。浜からはかなり距離があり、その間には林もある。潮風がまったく届かないとは言えないが、目の前の症状はどうにも塩害らしくない。
「塩害なら育ちそのものが悪くなったり、葉先や縁が焼けたように傷んだりすることが多いんだけど……」
「何?違うのか?」
稲夫はアワの葉を持ち上げる。上の若い葉も色こそ薄いが、黄色く変色しているのは下の古い葉ほど目立っている。やはり、塩害とは症状の出方が違う。
「そうなると肥料……土の力が足りないのかもしれませんね」
「土の力がないだと?そんなことない!確かに不漁で、いつも鋤き込んでいた魚のアラを十分な量を確保できなかったが、その代わりに大量に草葉を鋤き込んだ!」
オカの土に汚れた手には、長年鍬を振るってできたらしいタコが浮かんでいた。
「大量に?それはいつ頃入れました?」
「種を蒔く前だ。刈った草や集めた枯れ葉なんかも入れた」
稲夫はもう一度、黄ばんだ葉を見る。
(魚の肥やしが減ったなら、単純な肥料不足か?でも代わりに草も入れてる……それだけで、ここまで酷くなるか?)
稲夫は立ち上がり、改めて畑を見回した。畝の端には土が細く削られた跡が残り、その先は畑の外へと続いている。雨でできたものにも見えるが、先ほどオカが水をたっぷり撒いたと言っていたことが頭に引っかかった。
「さっき、水を撒いたって言ってましたけど……どれくらいやったんですか?」
「何日か続けたぞ。塩を流すなら、中途半端じゃ駄目だと思ってな。畑の外まで水が流れるくらい撒いた」
そこまで聞いて、稲夫の中でようやく話がつながった。
「たぶん、窒素が足りていないんだと思います」
「ちっそ?なんだそれ?」
「作物が育つために必要な、土の力の一つです。魚の肥やしが減ったせいで、今年は最初からそれが足りなかった。そのうえ水を何度も大量に流したから、土に残っていた分まで流れてしまったんだと思います」
「じゃあなんだよ……塩を流そうとして水を撒いたせいで、余計に悪くなったってことかよ!?」
「オカ!落ち着けって!」
オカは握っていた鍬を地面へ放すと、荒い足取りで稲夫との距離を詰める。その間へアオイが割って入り、オカの胸元を片手で押しとどめた。
「そもそも今年は魚の肥やしが少ないとのことだったので、それに水のやりすぎが重なったんだと思います」
「おれは信じないぞ!そもそも、それが分かったところで結局どうするんだ!」
「尿を水で薄めて撒きます」
「は?」
「え?」
オカだけでなく、アオイまでも気の抜けた声が出る。
「本当は時間をおいて発酵させたいけど、時間がないから仕方ないな。アオイ、使わない土器ないか?」
「ア、アンタ正気か!?いくら何でも尿を撒くって……」
「もちろんそのままぶっかけるわけじゃないよ。濃すぎれば逆に作物を傷めるから、しっかり薄めて株元に少しずつ撒くつもりだ」
アオイは何とも言えない顔で畑と稲夫を交互に見る。その横からオカが身を乗り出した。
「いくら長の言いつけがあったとしても、そんなこと認められるか!」
「いや本当なんだって!これが一番効果的なんだって!」
稲夫はオカに真剣に話すが、オカは聞く耳を持たない。そんな二人を見ていたアオイが、深くため息をついた。
「オカ、ここは従おう。どのみちアタシ達にはどうにもできなかったんだからさ」
「だからって尿を撒くってどうなんだよ!?もっとマシな方法があんだろ!?」
「それはアタシも思うけど……でもアンタは何か別の方法を思いつくのか?」
「それは……」
「ないんだろ。ならここは任せよう」
「……何かあったら畑に埋めてやるからな」
オカは最後まで納得していない様子で吐き捨てると、鍬を担ぎ直した。渋々ながらも、試すこと自体は認めてくれたらしい。
(やっぱりこの手の話をすると、全然信じてもらえないな……)
オカの疑わしそうな視線を受けながら、稲夫は深いため息をついた。
※魚のアラなど魚由来のものを使った肥料は「魚肥」といい、窒素やリン酸を含む有機質肥料として利用されています。
※土の中に塩分が多く残ると作物の生育に悪影響が出ます。その対策として、真水を使って土中の塩分を洗い流すことを「除塩」といいます。




