75話 〈六月上旬〉約束
日が暮れて辺りが暗くなった頃、稲夫たちは村へ戻った。広場に皆を集め、アオイの村が深刻な食料不足に陥っていること、今後は塩と食料を交換していきたいこと、そして稲夫自身も現地へ向かうつもりであることを伝えると、小さなどよめきが上がった。
「いやいや、稲夫様まで行く必要あるか?あいつらオレ達を襲った連中だろ?」
「……ワタシも、危険だと思います」
「分かってる。でも上手くいけば、これから塩を交換してもらえる。それにタケルもついてきてくれるから」
ヤナギとイトハが揃って不安そうな表情を浮かべた。
「戦士長が同行するなら大丈夫だとは思いますが……」
「本当かい?タケルさん一人で何とかなるの?」
「問題ない。戦える者が多く死んだ今なら、逆に俺一人で村を制圧できる」
ツチハルは「流石にそれは難しいのでは……」と困惑した様子で口を開いたが、タケルのあまりに動じない様子を見ると、それ以上は何も言わず口を閉ざした。
皆がそれぞれ不安を抱えながらも口をつぐむ中、黙って視線を伏せていたミズキがゆっくりと顔を上げる。
「村の方々を救うためであり、稲夫様がお決めになったのであれば、巫女として反対はいたしません」
完全に不安が消えたわけではないのだろう。それでも、タケルが同行し、何より稲夫自身が決めたこととあって、それ以上反対する者はいなかった。
「皆、ありがとう」
それから、明日の朝に出られるように準備を進めた。荷造りが終わる頃には、夜もすっかり更け、空には月が高々と昇った。
「食料よし、水よし、全部揃っているな」
全ての準備が終わって稲夫が確認を終えた頃、少し離れた場所に立つミズキの姿が目に入った。ミズキは月を仰ぎ、静かに手を合わせている。
「天におわす神々よ、遠き地へ赴く稲夫様の御身に災いの及ぶことなきよう、禍を退けたまえ」
祈りを終えたミズキがゆっくりと手を下ろす。その背中へ、稲夫は声を掛けた。
「ごめんな、心配かけて」
「稲夫様……」
振り返ったミズキは、すぐには言葉を続けなかった。しばらく稲夫を見つめたあと、静かに口を開く。
「他でもなく、稲夫様がお決めになったことです。その意思に従うのは、巫女として当然のことです……ですが――」
そこでミズキは言葉を切った。視線を彷徨わせ、何かを言うべきか迷っているようにしばらく黙ったあと、ようやく続きを口にした。
「巫女ではなく、私個人として申し上げるなら……反対です」
ミズキは視線をそらしたまま自身の衣を握り締めた。握られた衣に深い皺が刻まれる。
「もし、何かあって稲夫様が戻ってこれなくなったらと考えると、私は行かせたくありません……」
月明かりの下、ミズキの瞳がわずかに潤む。
「ちゃんと戻ってくるって約束するから」
「……どうやって、ですか?」
ミズキは俯き加減のまま、稲夫を見上げた。その視線の訴えに、稲夫は答えに窮した。
(気をつけるから、じゃあ納得してくれないよな……)
以前、嵐の時にミズキを一人にさせて心配させたことを思い出す。あの時は「嵐が来たら次は大人しくする」と答えられたが、今回ばかりはそう簡単には納得してくれそうにない。
(どうやって約束を守ることを示せるか……ん?約束?)
稲夫の脳内で昔の思い出が蘇る。幼い頃、婆さんと約束をするたびによくやらされていたものがあった。
「ミズキ、指切りしよう」
「指切り?」
「ああ、約束するときのおまじない。お互い小指を絡めて約束を守ることを誓う、儀式みたいなものだな」
「儀式……分かりました。やらせて頂きます」
ミズキは神妙な顔で小指を差し出す。稲夫はその小指に自身の小指をそっと絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
そう言い終えると、ミズキの小指を離す。改めて真面目に指切りをすると思いのほか恥ずかしい。少しの沈黙の後、気恥ずかしさを咳払いで誤魔化す。
「これで指切りは終わったよ」
ミズキは絡めていた小指をしばらく見つめる。
「あの、この儀式は約束を守れなかったら、針を千本飲むことになるのですか?」
「あー……それはたとえであって、破った罰がある訳では――」
「今から針を千本集められるでしょうか?でも、あの植物なら棘が多少大きいですが、すぐに集まるかもしれません」
真面目な顔で考え始めたミズキを前に、稲夫は眉間を押さえる。
「これは……這ってでも帰ってこないとな」
「ふふっ、冗談ですよ」
ミズキは小さく笑みを浮かべながら、目元に溜まった涙を指先で拭った。
「稲夫様、どうか無事に帰ってきてください。約束、ですからね?」
「……ああ、ちゃんと帰ってくるよ。約束だ」




