71話 〈六月上旬〉支える手
静まり返った闇の中、稲夫はふらふらと井戸へ向かって歩を進めていた。戦っていた時には気づかなかった疲れが、一歩進むたびに両脚へまとわりついてくる。何度か足元をふらつかせながら、どうにか井戸まで辿り着いた。
井戸に縄を結んだ土器を下ろす。どぽん、と井戸底から水音が返ってくる。稲夫は縄を手繰り寄せ、水を満たした土器を引き上げると、その縁へ直接口をつけて一気に喉へ流し込んだ。
「ぷはっ!つめてぇ!」
乾いていた喉が一気に潤う。口元を腕で拭いながら息を吐くと、火照っていた体だけでなく、頭まで少しずつ冷えていくようだった。
(俺、人を殺したんだよな……)
稲夫は手元の土器へ目を落とした。月明かりもほとんど届かない水面は黒く、僅かに揺れているだけで自分の顔さえ映してはいない。
(仕方なかった……)
その言葉を意識した途端、先ほどまで遠ざかっていた戦いの光景が頭の中へ戻ってきた。
戦っている最中は、考えている余裕などなかった。ただひたすらに矢を射続けていた。
だが戦いが終わり一人になった途端、それまで押し込めていた恐怖や罪悪感が一斉に胸の奥からせり上がってきた。
(戦わなかったら、俺が殺されてたかもしれなかったんだ)
向こうが先に仕掛けてきた。自分だけではなく、村のみんなのためにも、死なないために戦った。
(だから……仕方なかったんだ)
目を閉じて自分に言い聞かせる。だが、閉じた瞼の裏側に、眉間に矢を突き立てたまま地面へ倒れていた男の姿が浮かんだ。
「うっ……」
胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われ、稲夫は思わず口元を押さえた。せっかく飲んだ水まで吐き出してしまいそうになり、何度か浅く息を繰り返す。
仕方なかった。そのはずだ。射たなければ、自分が射られていたかもしれない。
(なのに、なんでこんなに気持ち悪いんだよ……)
いくら理由を並べても、人を殺したという事実だけは消えてくれない。水の残った土器を置き、両手で顔を覆う。
「稲夫様」
ふと、背後から聞き慣れた声がした。稲夫が振り返ると、少し離れたところにミズキが立っていた。
「……ミズキ。まだ外に出ないほうがいい」
「兄様から事の顛末は聞いていますので、心配なさらないでください」
ミズキはそう答えると、稲夫の側まで静かに歩いてきた。
「ご無事で、本当に良かったです」
「ああ、なんとかな……」
どうにか笑おうとしたつもりだったが、うまくできている気はしなかった。
「………………」
沈黙が続いた。ミズキはどうしてこんなところに一人でいるのか、戦いで何があったのかも聞かず、ただ稲夫の傍に立っている。
「えーと、あのだな……」
稲夫は沈黙に耐えられず、必死に話題を探して周囲を見渡す。ミズキ、井戸、夜。普段なら思いつくとりとめのない話も、何も思いつかなかった。
やがて、やがて観念するように息を吐いた。
「……実は俺、初めて人を殺したんだ」
ミズキの顔を見るのが怖くて、視線を手元に落とす。
「俺が弓で狙われて、それで……仕方なく射った。あのままだったら俺の方が殺されてたかもしれないし、村だって襲われてたから、戦うしかなかったんだと思う」
言葉にすれば少しは整理できるかと思った。けれど、一つ話すたびに次の言葉が溢れてきて、余計に頭の中が散らかっていく。
「でも、正しかったのかなって……いや、あそこで射たなきゃ危なかったし、タケルもツチハルさんもヤナギも戦ってたし、俺だけ何もしない訳にはいかないし……」
自分でもまとまりのない話をしている自覚はあった。声も震え、うわずり始める。
「向こうが殺そうとしてきたからって、俺が人を殺してよかったのかなって……俺はどうすればよかったのかなって、他にどうしようもなかった気がして……」
そこまで話したところで、頬を何かが伝った。
「あれ?」
稲夫は手の甲で頬を拭う。濡れていた。
「その、これは……違くて……」
取り繕おうとしたが、止めようとするほど次から次へと涙が溢れてきた。
「悪い……いい齢の大人が、情けねぇ……」
稲夫は何度も頬を拭ったが、それでも涙は止まらなかった。息を整えようとしても、上ずった吐息ばかりが喉から漏れた。
「無理を、なさらないでください」
静かな声とともに、ミズキが一歩近づいた。そして、涙を拭おうとしていた稲夫の手を両手でそっと取る。
「今くらいは、いつもの稲夫様でいようとなさらなくてもいいんですよ」
「……ミズキ?」
ミズキは握った手を離さないまま、穏やかな声で続ける。
「こういう時に、誰かのお側にいることも……私の務めだと思っていますから」
「……ごめん」
それだけ口にすると、また涙が溢れた。
これまで、豊穣神として振る舞い皆を支えていかねばならないと、心のどこかでずっと思っていた。
けれど今は、自分の方がミズキの手に支えられていた。




