69話 〈六月上旬〉眠れぬ夜
「ウォーーン!オォーーン!」
虫とカエルの声がこだまする夜、それを引き裂くような鋭さでオウカの遠吠えが響き渡った。
「んん……オウカが何度も吠えるなんて珍しいな……」
その遠吠えで、住居で寝ていた稲夫は目を覚ました。まだ眠気の残る目をこすりながらゆっくりと体を起こすと、横で寝ていたタケルとミズキも同じように身を起こしていた。
「……妙ですね。オウカがあれほど吠えるのは初めてです」
「何かあったのでしょうか?」
タケルはすでに眠気など吹き飛んだように外へ意識を向けていた。一方のミズキは何が起きているのか分からないらしく、不思議そうに住居の入口へ目を向ける。
「アオォーーン!」
稲夫たちが起き出してからも、オウカの声は止まらない。一度、二度、三度と、夜の村へ長い遠吠えが響いてくる。
「起きちゃったし、ちょっと様子を見てくるか」
「……俺も行きます」
稲夫は「よっこらせ」と爺臭い掛け声とともに腰を上げ住居を出る。その後ろから、鉄製の矛を背負い、弓矢を手にしたタケルが続く。
そして、入口をくぐる直前、タケルは振り返った。
「ミズキ、お前は住居から出てくるな」
「え?……わかりました?」
突然言われたミズキはきょとんと目を瞬かせたものの、素直にうなずいた。
稲夫とタケルが住居を出ると、再びオウカの遠吠えが響いた。
「アオォーーン!」
外は暗く、月明かりだけが村を淡く照らしていた。日中に雨が降っていたこともあり、生暖かく湿った空気が肌へまとわりついてくる。
その中で、オウカは村の南側の一角に立ち、柵の向こうへ向かって何度も声を上げていた。
「どうしたオウカ?仲間の狼でもいたのか?」
「ウォォォーン!」
近づいてきた稲夫へ一度だけ視線を向けたものの、オウカはすぐさま村の外へ向き直った。近くに仲間の狼がいるようには見えない。それに、誰かへ襲いかかろうとしているわけでもなく、ただしきりに外へ向かって遠吠えを続けている。
「村の外に何かあるのか?」
稲夫もその視線を追った。
――何もない。
というより、何も見えない。暗いし、遠いし、何より眠い。目を凝らしてみれば、柵の向こうに茂みらしき黒い塊があるような気がする。それくらいだった。
「…………」
稲夫がぼんやりと闇を眺めている隣で、タケルだけは微動だにしない。じっと村の外を見据えたまま、手にしていた弓へ一本の矢をつがえる。そのままゆっくりと弦を引き絞ると、弓が大きくしなり、張り詰めた弦がかすかに軋んだ。
「タケル?」
何をしているのかと声をかけた時、タケルの手から矢が離れる。弦が鋭く鳴り、放たれた矢が夜の空気を裂いて飛んでいった。
「ぐあっ!?」
「え?」
矢が消えた先から、聞き覚えのない男の悲鳴が上がった。それまで静かだった茂みが、一斉にガサガサとうごめき始めた。
タケルの表情が変わった。
「敵だ!!!戦える者は村の南に集まれ!!!」
夜を割るような怒号が村中へ響き渡る。
「見つかった!全員飛び出せ!」
今度は暗闇から、鋭い女の声が飛んだ。その声を合図にしたように、茂みの中から次々と弓や槍を手にした人影が飛び出してくる。暗がりのせいで顔までは分からないが、その数は十人どころではない。
「うおっ!?て、敵!?マジで!?」
眠気など一瞬で吹き飛んだ。目の前で起きていることを理解する間もなく、タケルはすでに次の矢をつがえている。そして堀へ駆け寄った男へ狙いを定め、そのまま射る。
「ぎゃあぁっ!」
矢が胸元へ深々と突き刺さり、男が倒れた。タケルは続けざまに次の矢へ手を伸ばし、次々と迫る男たちへ射かけていく。
「回り込め!向こうの柵がない場所まで走れ!」
再び女の声が響くと、男たちは堀に沿って一斉に走り出す。
「狙いは門か!」
タケルはもう一本矢をつがえ、門へ走る男達の背へ放った。その結果を確かめることもなく、自らも柵に沿って駆けていく。
「えっと、その……」
稲夫だけが、突然の出来事に状況を飲み込めず、その場に立ち尽くしていた。
タケルも男たちも門の方へ走り去り、怒号や足音まで遠ざかっていく。ほんの数秒前まで目の前で人が矢に射抜かれていたのに、何をすればいいのか分からないまま、自分だけがそこに残されていた。
(もしかして、これって夢?起きたらタケルが騒いでるだけだったり?)
そうであってほしい。そう現実逃避しかけたところへ、駆ける足音が近づいてきた。
「稲夫様!」
振り返ると、弩を抱えて南側へ走っていたヤナギが、立ち尽くしている稲夫に気づいた。
「ヤナギ!お前も起きてたのか!」
「あんだけ騒がしかったら嫌でも起きますって!それより、まずいですよ!」
息を切らしながら、ヤナギはタケルが駆けていった方へ顔を向けた。
「柵はもうほとんど完成してるんですけど、門だけまだなんですよ!あそこだけ塞がってない!」
「門……!タケルもそっちに向かった!」
「だったら急ぎましょう!」
ヤナギが弩を抱え直すと、そのまま走り出した。
「ちょっ、俺も行くぞ!」
稲夫も慌てて後を追う。頭の中ではまだ何一つ整理できていない。それでも足だけは止めず、二人で南側の門へと急いだ。
走るにつれて、前方から聞こえる怒号や悲鳴が次第にはっきりしてくる。
やがて見えてきたのは、柵と柵の間にぽっかりと開いた出入口へ殺到する敵の姿だった。
「うぉおおお!」
しかし、その狭い出入口をタケルが鉄の矛を振るい、たった一人で迫りくる敵を押し返していた。
「死ねっ!」
男の一人が槍を突き出す。タケルは半身になって穂先をかわすと、そのまま鉄の矛を男の胸元へ突き刺す。
「がっ……!」
矛を引き抜くと同時に血が散り、男は膝から崩れ落ちた。
「何だこいつ!つえぇ!」
「柵をよじ登って回り込め!」
再び女の声が飛ぶ。何人かの男たちが門前から離れ、格子状に組まれた柵へ駆け寄った。堀を越え、柵に張り付くようにして手を掛ける。
「させるかよ!」
ヤナギがすぐさまそちらへ走った。弩を構え、柵をよじ登ろうとしている男へ狙いを定めると、乾いた音とともに矢が放たれる。
「ぐあっ!?」
矢を受けた男の手が柵から離れ、そのまま堀へ転げ落ちていく。
「うおっ!?当たった!?」
ヤナギの動きが一瞬だけ止まったが、すぐに我に返ると、次の矢へ手を伸ばす。
稲夫もその様子を見ながら、どう動けばいいのか分からず立ち止まっていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「稲夫様!ご無事で!?」
「ツチハルさん!」
ツチハルが息を切らして駆け寄ってきた。手には弩を抱え、その肩には見覚えのある弓と矢筒が掛けられている。
「巫女様から、これを稲夫様にと」
ツチハルは肩から弓と矢筒を外し、稲夫へ差し出した。いつも練習に使っている、自分の弓矢だった。
「俺の弓……」
「それと――無理はなさらぬように、と」
稲夫は弓矢を受け取った。いつも使っているものと何も変わらない。だが、それなのに今は妙に重い。
「私はヤナギと右手から援護します!稲夫様は左手を!」
「わ、分かりました!」
ツチハルは弩を抱え直すと、ヤナギのいる方へ駆けていった。
その背中を見送り、改めて手元を見る。気づけば自分も弓を持って戦場に立っている。
(……やるしかない)
弓を握り直し、門の左手側へ走る。すると柵の向こうに、弓へ矢をつがえている一人の男を見つけた。
(いた!敵だ!)
すぐさま足を止め、矢をつがえる。これまで何度も繰り返してきた動作で弓を構えて弦を引き、男へ狙いを合わせる。
――そこで、手が止まった。
(これ、指を離したら……あいつ死ぬんじゃないか?)
当たり前のことだが、その当たり前のことを今になって初めて理解した。向こうにいるのは的ではなく人だ。この指を離せば、矢はあの男へ飛んでいく。
(本当に……射ていいのか?)
迷っている間に、男の顔がこちらを向いた。男は弓を持ち上げ、稲夫へ向かって矢をつがえる。
「ひっ」
稲夫は反射的に、弦を押さえていた指を離した。
弦が鋭く鳴り、矢が飛ぶ。
矢は男の眉間へ突き刺さると、その場で崩れ落ちた。
(……死んだ?)
男はピクリとも動かない。
稲夫は弓を握ったまま、先ほど弦を離した自分の指へ目を落とした。
(俺が……殺した?)
周囲では怒号も悲鳴も続いているのに、その全てがやけに遠く聞こえた。頭の中には霧でもかかったように何も浮かばず、稲夫はその場に立ち尽くした。
「この村には、一歩たりとも踏み入らせん!!!」
その時、タケルの怒号だけが、遠のいていた音を突き破るように耳へ届いた。
稲夫ははっと顔を上げる。
門の前では、タケルが何人もの敵を相手に矛を振るっていた。突き出された槍を払い、踏み込んできた男を押し返し、自らの体で出入口を塞いでいる。
少し離れた場所では、ヤナギが必死に弩へ次の矢をつがえている。ツチハルもまた、弩を構えて敵を狙っていた。
(……何してんだ、俺)
敵はまだ押し寄せている。自分がここで立ち尽くしている間にも、皆は戦っている。その背後には田んぼがある。畑がある。そして、そこで暮らしている人たちがいる。
(考えるのは後だ……今は、村を守る!)
震える手で矢筒へ手を伸ばし、次の一本を取り出す。そして再び敵へ向けて弓につがえた。




