68話 〈六月上旬〉名に形を
「稲夫様!明日は雨とのお告げがありました!」
夕食を食べ終え、そろそろ寝る支度を始めようとしていたところへ、ミズキが駆け寄ってきた。
「そっか。じゃあ今日のうちに備えておかないとな」
「はい!よろしくお願いします!」
そう言うと、ミズキはそのまま軽い足取りで立ち去っていった。
(よろしくお願いします?)
何のことだろうと、稲夫は腕を組んで考え込む。妙に声も弾んでいたし、雨で外の作業ができなくなるというのに、まるで何か嬉しいことでもあるかのようだった。
「あ、そうだ。次に雨が降った時、文字を教えてほしいって言われてたんだっけか」
以前、台風の最中に田んぼの様子を見に行ったヤナギを連れ戻した際、ミズキから次に雨が降った日は文字を教えてほしいと頼まれていたことを思い出す。
「それであんなに嬉しそうだったのか」
先ほどの様子を見る限り、よほど楽しみにしていたのだろう。
(明日の朝は早そうだな……)
そんな予感を抱きながら、稲夫は就寝の支度を始めた。
※※※
翌朝、屋根を叩く雨音が絶え間なく続いていた。
「おはようございます、稲夫様」
一定の調子で響く雨音にまどろんでいた稲夫は、ミズキの声で目を覚ました。眠い目を擦りながら体を起こすと、すぐそばにはすでに身支度を整え、文字を書くための枝を二本握ったミズキが座っている。
「……おはよう。随分と早いな」
外は雨のせいもあってまだ薄暗く、隣ではタケルが静かに寝息を立てていた。
「もしかして、もう文字を習う準備ができてたりする?」
「はい!」
間髪入れずに、気持ちのいい返事が返ってきた。そこまで素直に肯定されると、起きたばかりだからもう少し待ってくれとは言いづらい。稲夫は諦めてミズキから枝を受け取り、まだぼんやりとしている頭に活を入れながら向き合った。
「じゃあ、まずは前に教えた文字からやってみるか。『みず』って書いてみてくれ」
「わかりました!」
ミズキは枝を使い、住居のむき出しになった地面へ『みず』とひらがなで書いてみせた。
「正解だ。次は『かわ』って書いてみてくれ」
「はい!」
今度もほとんど迷うことなく、地面に『かわ』と書いていく。
「正解。凄いな、ちゃんと覚えてるじゃないか」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに笑うミズキの書いた文字は、以前よりも随分と形が整っていた。教えていないところでも、自分なりに練習を続けていたのだろう。この様子なら、ひらがなはもう一通り覚えていそうだった。
「ひらがなは覚えていそうだし、今日は漢字を書いてみるか」
「漢字、ですか?」
聞き慣れない言葉だったのか、ミズキが首を傾げる。
「漢字ってのは、文字そのもので意味を表す文字だ。たとえば、さっき書いた『かわ』だと、水が流れる川と動物の皮、どっちか分からないだろ?」
「確かに、同じ音では分かりませんね」
「だから漢字を使って意味を示すわけだ。水が流れる川なら『川』、動物の皮なら『皮』だ」
そう説明しながら、稲夫はミズキが書いた『かわ』の横へ、『川』と『皮』の二文字を書いた。
「なるほど!これなら同じ音の『かわ』でも、漢字であれば『川』か『皮』か一目で分かるのですね!」
新しい玩具でも与えられたように、その目が輝いた。
「そういうこと。たくさん種類があって覚えるのは大変だけど、覚えればとても便利だ」
「ほかにも漢字があるのですね。どれくらいあるのですか?」
「全部でどれくらいだろう?普段使うやつだけでも千どころじゃなかったと思うけど……」
「二千!?そんなにあるのですか!?」
よほど衝撃的だったらしい。ミズキは口をあんぐりと開けたまま、しばらく固まっていた。
「そんなに覚えきれるでしょうか……」
先ほどまでの勢いはどこへやら、急に自信をなくしたように肩を落とす。
「まあ、頻繁に全部使うわけじゃないから、ゆっくり覚えていこう。例えば……森に生えてる木の漢字は『木』と書く」
少しでも分かりやすいものから教えようと、稲夫は地面へ大きく『木』と書いた。
「……これで木なのですね」
「そう。で、木が二つ並ぶと『林』になる」
先ほど書いた『木』の横へもう一つ『木』を書き『林』の字を作る。
「木が増えました!」
「で、さらに『木』が増えると別の文字になる。何を意味している漢字か分かるか?」
今度は『林』の上へさらに『木』を足し、『森』と書いた。
ミズキは地面に並んだ『木』『林』『森』を順番に見比べ、眉間に少し皺を寄せながら考え込む。
「……林より木がある場所……もしかして『もり』ですか?」
「正解!」
「えっ!本当ですか!?やった!」
自信なさげに、おずおずと答えるミズキであったが、正しいと分かった途端に曇っていた表情がぱっと晴れた。
「こんな感じで、漢字は同じ形を使ったり、何かに関連づけたりしたものもあるから、ミズキなら覚えられるよ」
「はい!これなら覚えられそうです!」
すっかり自信を取り戻したミズキは、自分でも『木』『林』『森』と順番に書いていった。最初は一画ずつ慎重に進めていた枝の動きにも、少しずつ迷いがなくなっていく。
書き終えた三つの文字をしばらく眺めていたミズキだったが、やがて何かに気づいたように枝を止めた。
「稲夫様、文字に意味があるなら、私たちの名前も漢字で書けるのでしょうか?」
「ああ、書けるぞ。ミズキたちの名前は元々漢字でつけられたわけじゃないから、これが正解っていう文字があるわけじゃないけど、同じ音の漢字を使って、意味の合う字を当てることはできるよ」
「意味の合う字……」
ミズキはその言葉を確かめるように呟き、そのまま真剣な顔で黙り込んだ。
しばらくして姿勢を正すと、稲夫へ向かって深々と頭を下げる。
「稲夫様、どうか私の名前に漢字で意味を示していただけないでしょうか」
(そ、そうきたか!)
稲夫は自分の軽率な発言を早々に後悔した。
漢字には意味があるだの、名前にも意味の合う字を当てられるだの、それっぽいことを並べて説明すれば、こういう展開になる可能性だって十分にあったはずだ。
それなのに何も考えず受け答えしてしまった結果、単なる文字の勉強が、いつの間にか名前に意味を与えるという重大イベントへ発展している。
「稲夫様……俺も漢字とかいう文字で、名前を示してもらってもよろしいでしょうか?」
「え?」
声のした方を見ると、先ほどまで寝ていたはずのタケルが、いつの間にか体を起こしてこちらを見ていた。しかも、その表情はミズキに負けず劣らず真剣そのものだ。
(お前さっきまで寝てただろ!?こういう時に限って起きてくるなよ!)
もちろん、そんなことを口に出せるはずもない。稲夫は引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。
(どうする!?この状況!?俺はRPGのキャラの名前をつけるだけで数十分は悩む男だぞ!?)
自ら掘った墓穴の深さに、稲夫は内心で頭を抱える。ミズキは未だに頭を下げたまま、こちらの返事を待っている。タケルも冗談を言っているようには到底見えない。二人にとっては、豊穣神である稲夫から自分の名前に意味を与えてもらうという、決して軽くはない出来事なのだろう。
ここで適当な字をつけようものなら、神としての立場がない。かといって、断るためのもっともらしい理由も思いつかなかった。
「……わかった」
結局、稲夫は観念した。
「ありがとうございます!」
ミズキとタケルが、ほとんど同時に感謝の言葉を口にする。
(今までどうにかなってきたんだ……今回もどうにかなるだろ……)
もはや自分に言い聞かせるようにそう考え、稲夫は枝を握り直した。
「まずはミズキからだな」
「よろしくお願いします!」
ミズキはようやく頭を上げると、瞬き一つせず、稲夫の持つ枝を見つめた。
(そんな真剣に見ないでくれ……胸が痛い)
「例えばミズキなら……『水樹』『美月』『瑞希』。全部、ミズキと読めるようにできる」
稲夫は手の震えを悟られないよう努めながら、これまでどこかで見たことのある『ミズキ』と読める漢字をいくつか地面へ書き並べた。
「一つ目の『水樹』は、川を流れる『水』に樹木の『樹』。二つ目の『美月』なら、美しい月って意味になる。最後の『瑞希』は、『瑞』が良い兆しって意味のある字で、『希』は希望とか願いって意味で使われる」
「良い兆しと……希望……」
ミズキは三つの名前を見比べたあと、『瑞希』の二文字へじっと視線を落とした。
「良き兆しを伝え、人々の希望となるように……という意味でしょうか?」
「まあ……そういう意味にも取れるな」
嘘である。
そこまで立派な意味を考えて選んだわけではないし、実際にそういう意味を込めて使われる名前なのかも知らない。ただ、思いつくままに候補を書き並べただけだった。
「でしたら、私はこの文字が好きです」
稲夫が思いつきで書いたものでも、ミズキにとってはそうではないらしい。その名前を見つめる表情には、先ほどまで漢字そのものを面白がっていた時とは違う、静かな喜びが浮かんでいた。
「気に入ったのなら、ミズキの漢字は『瑞希』にしようか」
「『瑞希』……これが、私の名前……」
ミズキは大切なものに触れるように、ゆっくりとその二文字を読み上げた。小さく呟いた声には、どこか大切なものを受け取ったような響きがあった。
その様子を眺めているうちに、先ほどまで重圧に感じていた稲夫も、なんとなく嬉しくなってくる。
「稲夫様、次は俺の名前もお願いします」
その声で、ほっと緩みかけていた気持ちが現実へ引き戻された。
「タケルなら、『猛』で勢いが激しいとか、荒々しく勇ましいって意味もあるかな。それとも『武』がいいか。こっちは戦いや武人、武器なんかに使う字だな」
今度はタケルの名前を頭の中で転がしながら、稲夫は地面へ『猛』と『武』の二つの字を書いた。
「俺は『武』の漢字が気に入りました」
「とても兄様らしくて良いと思います」
ミズキからも賛成され、タケルは満足そうに頷いた。
「そっか。じゃあタケルは『武』って漢字にするか」
思った以上にあっさり決まったことに、稲夫は胸を撫で下ろした。
(どうにかなった……)
重大な役目からようやく解放され、どっと疲れが押し寄せてくる。世の中の夫婦は、子供の名前をつける時にこんな気持ちになるのだろうか。
候補を考え、その意味に悩み、本人が一生使うことまで考えれば、もっと大変なのかもしれない。
(世のお父さんお母さん、お疲れ様です)
心の中で顔も知らない世間の親たちを労っていると、ふとタケルがこちらをじっと見ていることに気づいた。
「どうした? まさか、漢字に不満が……」
「いえ、そうではなく。稲夫様のお名前は、どのような文字なのかと思いまして」
「俺?俺のはそのままだよ」
そう言って枝で地面へ『稲夫』と書いていく。
「これで、稲夫。米の稲の『稲』に、結婚相手の男の方を表す『夫』で稲夫」
「えっ!?」
直後、ミズキの手からポトリと枝が地面へ落ちた。
「そ、その……稲夫様は、稲の旦那様ということになるのですか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、自分がたった今説明した二文字を見直してみれば、確かにそう受け取れなくもない。
「まあ、字だけ見ればそう読めなくもないけど、別に稲の旦那って意味でつけられた名前じゃないよ」
「そ、そうなのですね」
ミズキはほっと息を吐き、胸を撫で下ろした。そして、ミズキは改めて地面に書かれた『稲夫』の二文字を見つめると、今度は何やら神妙な表情になる。
「ですが……生まれた時から御名に『稲』を持ち、こうして私たちに稲作を授けてくださったのですから。やはり稲夫様が豊穣神として現れたことは、定められていたのかもしれません」
「そうかな……?そうかも……」
絶対にそんなことはないだろう。
だが、ここで否定しようとして、さらに余計な説明を始めれば、またどんな墓穴を掘るか分かったものではない。
稲夫はそれ以上何も言わず、静かに口を閉ざした。そして敬われる空気の中、せめて今だけは豊穣神らしく見えるよう、何か意味ありげな顔で黙って頷いておくことにした。




