65話 〈六月上旬〉水面に広がる緑
穏やかな日差しの下、稲夫とミズキは並んで田んぼへ向かって歩いていた。
「何だか久しぶりに田んぼに行く気がするな」
思わずそんな言葉が口をつく。
ここ二、三日は村を囲う柵の設置に追われ、田んぼの様子はほとんどミズキに任せきりだった。実際には数日しか離れていない。それでも、毎日のように通っていた場所だからか、随分と長い間足を運んでいなかったような気がしてしまう。
「田んぼも、稲夫様が来るのを待っていたかもしれませんね」
ミズキは柔らかく微笑む。
その表情はどこか晴れやかで、歩く足取りにも自然と軽さがにじんでいた。
話しながら歩いていくと、やがて田んぼが見えてきた。
田んぼでは、畔でアキとヒナタ、ロウが歩き回り、ときおり足を止めては水辺へ手を伸ばしている。
「皆さん、おはようございます」
「お、稲夫様に巫女様。おはようございます」
稲夫が声を掛けると、アキが顔を上げた。
ミズキも柔らかく会釈を返す。
「稲夫様、巫女様! おはよーございます!」
「おあおー、おあいあう!」
ヒナタが元気よく手を振り、それを見たロウも負けじと両手を振り回す。
「アキさん達は何をしていたんですか?」
「食料を集めていたんです。結構取れましたよ」
そう言ってアキが抱えていた土器を差し出す。
中には大ぶりのタニシやドジョウがぎっしりと入っていた。
「おお、いっぱい取れましたね!」
「これだけあれば夕食は豪勢にできるね」
稲夫が感心すると、アキも満足そうに笑う。
「お母さん!見て見て!変なの取れた!」
元気な声とともに、ヒナタが一本の木の枝をぶんぶんと振り回しながら駆け寄ってきた。
その枝の先には緑色の藻がべっとりと絡みついている。
「こらヒナタ!田んぼで変なことしないの!巫女様に怒られるよ!」
アキは慌ててヒナタから枝を取り上げる。
「えぇー?せっかくいっぱい取れたのに!」
ヒナタは不満げに抗議したが、アキは聞き流し、ミズキへ深々と頭を下げた。
「すいません巫女様!よくしかっておきますので!」
「い、いえ……大丈夫です……まだ怒っては、おりませんので……」
ミズキは笑顔を浮かべていた。
……浮かべてはいた。
しかし、その額には青筋が浮かび、引きつった笑みは今にも崩れそうだった。
「ミズキ、その笑顔怖いから。一回落ち着こう」
稲夫は二人の間へ割って入り、宥めるようにミズキへ声を掛けた。
「アキさん。それ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「これですか?構いませんけど……何か気になることでも?」
アキは困惑しつつも、稲夫に枝を渡す。
稲夫は枝を受け取とり、先端に付いた藻を指先で触れる。ぬるりとした感触が指にまとわりつく。
そのまま田んぼへ視線を巡らせと、同じような緑色の藻が水面のあちこちに浮かんでいた。
「やっぱり、これはアオミドロだな」
「アオミドロ?」
ミズキは小さく眉を寄せ、藻と稲夫を見比べる。
「暖かくなってくると増えてくる藻だ。少しなら問題ないけど、増えすぎると水の中の空気が不足したりして、稲の成長を邪魔しちまう」
「そのようなものがあるのですね……」
ミズキは心配そうに田んぼを見つめる。
「でも、大丈夫。こういう時は物理的に取り除いて、水も入れ替えてやればいい」
そう言うと、稲夫はヒナタから借りた枝を水面へ差し入れた。
枝をゆっくり回すと、糸のような藻が絡みつき、ずるずると持ち上がる。
「ほら、こんな感じだ」
枝を水面へ差し入れるたび、緑色の藻がするすると巻き付いてくる。
稲夫は絡みついたアオミドロを畔へ払い落とし、枝をヒナタへ返した。
「ヒナタちゃん、引き続きお願いしてもいいかな?」
「うん!ヒナタ頑張る!」
ヒナタは枝を握り直すと、宝探しでも始めるかのように張り切って水面へ差し入れた。
その隣ではロウも真似をして枝を水へ突っ込み、ぎこちない手つきで藻を巻き取っている。
「見て見て!いっぱい取れた!」
「おあー!」
二人は競うように枝を振り回し、次々とアオミドロを枝に巻き付け、畔へ放り投げていく。
「田んぼで遊んでは……いえ、今は手伝って……」
その様子を見ていたミズキは、何とも言えない表情を浮かべている。
怒るべきなのか、褒めるべきなのか。
そんな葛藤がそのまま顔に出ていた。
「ミズキ、大丈夫。あれは遊びじゃなくて立派な仕事だから」
稲夫がそう声を掛けると、ミズキは「うぅ……」と小さく唸りながらも、ようやく引き下がった。
ヒナタ達は遊び半分ではしゃいでいるようにしか見えない。
それでも、枝の先には次々とアオミドロが絡み付き、田んぼは少しずつ綺麗になっていく。
(じいさんも、こんな気持ちだったのかな)
自分も子供の頃、田んぼで枝を振り回し、アオミドロを巻き付けて遊んでいたことがある。
普段なら「田んぼで遊ぶな!」と叱る祖父も、その時だけは何も言わなかった。今になって思えば、田んぼの役に立っていたからなのだろう。
あの時の祖父も、今のミズキと同じような気持ちだったのかもしれない。
「稲夫様、ウチも手伝います」
アキも土器を脇へ置き、枝を手に取った。
「ありがとうございます」
「見て!また取れた!」
「おあー!」
ヒナタが絡め取ったアオミドロを畔へ放り投げる。その隣でロウも負けじと枝を振り回し、小さな藻の塊を高く掲げた。
「はいはい、その調子。そのままどんどん取っちゃいな」
アキは笑いながら声を掛け、自分も手際よく枝へ藻を絡め取っていく。
そうして枝を何度も水面へ差し入れているうちに、水面を覆っていた緑色はほとんど姿を消した。
「仕上げだな」
稲夫は水門へ向かい、新しい水を流し込む。
澄んだ水が田んぼへ流れ込み、畔際に残っていた細かなアオミドロをゆっくりと押し流していく。
その様子を見届けると、ミズキはようやく肩の力を抜いた。
「これで大丈夫ですね」
「ひとまずはな。暖かい日が続けば、また増えるかもしれない。その時は今日と同じように取って、水を入れ替えるしかないな」
「その時もヒナタ、お手伝いする!」
「おあえあい!」
ヒナタとロウは胸を張って宣言する。
アキは苦笑しながら子供たちの頭を軽く撫でた。
「あんまり田んぼで変な遊びするんじゃないよ。巫女様に怒られちゃうからね」
「はーい!」
元気な返事が田んぼへ響く。
ミズキはそんな二人を見つめ、小さく笑うと、改めて田んぼへ視線を向けた。先ほどまでアオミドロが浮いていた水面は、今では澄んだ水を映している。
「田んぼを見ると言っても、稲だけを見ればいいわけではないのですね」
「そういうこと。田んぼ全体を見ないとな」
ミズキは静かに頷き、もう一度田んぼを見渡した。
そこには、ただ稲を見守る巫女ではなく、田んぼそのものを見守ろうとする姿があった。
※アオミドロは、田んぼや池などに発生する糸状の緑藻の一種です。水温が高くなり、日当たりが良い環境では急速に増えることがあります。
少量であれば大きな問題はありませんが、水面を覆うほど増えてしまうと、稲に十分な日光が届きにくくなったり、苗に絡み付いて生育を妨げたりする原因になります。
発生した場合は、今回のように枝などで絡め取って取り除き、新しい水を流してできるだけ田んぼの外へ流すのが一般的な対処法です。




