64話 〈五月下旬〉生
夜の帳が下りると、住居の中には月明かりだけが差し込んでくる。
その明かりを頼りに、ヤナギは木材をノミで削り出していた。刃物を動かすたび、しゃり、しゃり、と木を削る音が静かな室内に響く。
その傍らで横になっていたイトハは、小さく身じろぎすると、思わず顔をしかめる。
「こ、腰が……」
今日は稲夫様と巫女様と一緒に田んぼへ入り、長時間中腰になって雑草を抜き続けた。慣れない姿勢だったせいか、腰の奥が鈍く痛む。
「イトハ姉、婆さんみたいなこと言ってどうした?」
その声を聞いたヤナギが、手を止めることなく笑い交じりに言う。
あまりにも遠慮のない一言に、イトハはゆっくり起き上がり、ヤナギを軽く睨みつけた。
「女の人に、お婆さんみたいなんて言わないの」
「冗談だよ。悪かったって」
口ではそう言うものの、口元は笑ったままだ。
悪いと思っている様子はまるでなく、イトハは呆れたようにため息を漏らした。
「今日はそんな腰痛めるようなことしてたのか?」
「……田んぼに入って、雑草を抜いてたわ」
その答えを聞いたヤナギは、ふっと笑みを引っ込める。
「……それで、どうだったんだ?」
何を聞きたいのかは、言われなくても分かった。
イトハは少しだけ視線を伏せ、小さく答える。
「……ワタシが触っても、稲は病にかからなかった」
「やっぱりな!あんな話、前の村のやつが勝手に言ってただけだって!」
ヤナギは自分のことのように嬉しそうに笑った。
その表情を見ていると、不思議とイトハの肩から少しだけ力が抜けていく。
「これで少しは安心できただろ?」
「……分からない」
稲を病にすると恐れられ、誰にも近寄ってもらえなかった日々は終わったのかもしれない。
それはずっと願っていたことだった。
けれど、その願いが叶った今、胸の中には奇妙な空白だけが残っている。
「普通の人のように扱われたいとは思ってはいた。でも、その先は考えたこともなかった」
普通の人として扱われるようになった。生きることに怯えなくてよくなった。しかし、それで自分は何をしたかったのだろう。
その問いに答えられるものは、何一つ思い浮かばない。
「その先かぁ。何かやりたかったこととかねぇの?」
「……ない」
イトハは膝を抱え、小さく身を丸める。
生きる事を許されるのに必死で、好きなことも、やりたいことも何もなかった。
「……今日、田んぼを手伝った時、稲夫様も巫女様も、何かの為に生きているように見えた」
二人だけではない。
タケルさんは戦士として皆を守り、ツチハルさんとアキさんはヒナタちゃんのために生きている。
ヤナギも武器や道具を作る役目を任されている。
皆、それぞれ生きる理由があるように見えた。
けれど、自分には理由も、意味も、目的もない。ただ生き延びることだけを考えて生きてきた。
「ヤナギ……ワタシは、何のために生きればいいと思う?」
「いや、別にオレも生きる目的とか理由とかねぇぞ?」
「え?」
あまりにもあっさりとした答えに、イトハは思わず瞬きをした。
「オレは毎日、目の前のことをやってるだけ。意味とか目的とか、特別ねぇよ」
「でも、ヤナギは木工が得意で、武器の作成を頼まれて――」
「頼まれたなら責任持って仕事はする。でも、仕事のために生きてるわけでもないからなぁ」
あまりにも当たり前のように言われて、イトハは返す言葉を失った。
「……じゃあ、なんでヤナギは物を作るの?」
「そりゃ好きだからな。それ以外に理由はねぇな」
ヤナギは削りかけの木片を見つめ、納得がいかなかったのか、また黙々と削り始める。
好きだから作る。
ただそれだけの理由で、こんなにも夢中になれるものなのだろうか。
「イトハ姉も皮鞣したり、糸編んだり得意じゃん」
「あれは、生きるためにやっていただけ。別に好きというわけではないのよ」
口にしてから気付く。
好きだから何かをする――そんな生き方を、自分は一度も考えたことがなかった。
「ふーん……じゃあ、今は好きなもんとかねぇの?」
考えてみても、何も浮かばない。
好きなものも、夢中になれるものも。自分の中には何一つ見当たらなかった。
「……ない」
「じゃあ探せばいいんじゃね?」
「探す?」
「今ねぇなら、そのうち見つかるかもしれねぇし、見つからなくても……まぁ、生きてはいけるだろ!」
ヤナギはいつものように屈託なく笑う。
「なにそれ……」
その笑顔につられるように、イトハの口元もわずかに緩んだ。
生きる理由だの、意味だのと、一人で難しく考え込んでいた自分が、馬鹿らしく思えた。
「……そういう生き方も、あるのね」
生きる理由がないのだから、生きようと必死にもがく必要があるのかずっと疑問だった。
けれど、理由がないのなら、探しながら生きてもいいのかもしれない。
「話を聞いてくれてありがとう。おやすみ」
「おう、おやすみー」
イトハはヤナギに背を向けるように横になり、静かに目を閉じる。
生きる理由は、まだ分からない。
明日になれば見つかるわけでもないだろう。それでも、探しながら生きてみてもいいのかもしれない。
そして、その理由が見つかるまでは、あるいは見つかった後も、ヤナギの側で生きていたい。
そんな願いが、胸の奥に静かに灯っていた。




