63話 〈五月下旬〉踏み出した一歩
木々の隙間から朝日がこぼれる中、稲夫とミズキは田んぼへ向かって歩いていた。
その少し後ろを、イトハがどこか落ち着かない様子で付いてきている。
「ミズキ、ツチハルさんは大丈夫だった?」
「はい。今朝お会いしましたが、すっかり元気になられていました」
「なら良かったよ」
昨日倒れたツチハルだったが、一日安静にしたことで体調は回復し、今日はヤナギやタケル達とともに柵の建設へ戻っていた。
もちろん無理は禁物で、こまめに休憩を取りながら作業を進めるよう念を押している。
そうして話を交わしているうちに、三人は田んぼへとたどり着いた。
風が水面を撫でるたび、小さな波紋が広がり、青々とした稲がさらさらと葉を揺らす。その様子を眺めた稲夫は満足そうに頷いた。
「よしよし、ちゃんと育ってるな」
植えた頃より一回り大きくなった稲は、葉色も濃く、株元からは新しい茎が顔を覗かせ始めていた。
「やっぱり、尿の追肥は本当に効果があったのですね」
「だから大丈夫だって言っただろ」
先日施した尿肥も効き始めたのだろう。稲は順調に力を蓄え、着実に成長している。
もっとも、良く育ったのは稲だけではなかった。
「……雑草もよく育っちまったなぁ」
稲の間には多種多様な雑草が、水面から顔を覗かせている。養分を吸い、稲の成長を邪魔する厄介者だ。
「よし、田んぼの中の草を取るか」
「はい、分かりました」
二人は裾をまくり上げ、田んぼへ入る支度を始める。
「あ、あの……本当にワタシもやってよいのですか?」
今まで黙ってついて来ていたイトハが、おずおずと声を上げた。
「ええ。田んぼの中の草取りは大変なんで、手伝ってくれると助かります」
「でも……ワタシが田んぼに入ったら、稲が病になるかもしれません……」
しかしイトハはすぐには頷けなかった。
視線は足元へ落ち、痣のある右腕を左手でぎゅっと抱き締める。
「ヤナギから話を聞きました。イトハさんの村で起きた稲の病は、イトハさんのせいじゃありません。大丈夫ですよ」
「ですが……巫女様は、よろしいのですか?」
問い掛けられたミズキは、迷うことなく頷いた。
「私は、稲夫様を信じております。稲夫様が大丈夫とおっしゃるのであれば、私はそれを信じます」
そう言って、不安そうにしているイトハに柔らかく微笑む。
「巫女様……」
イトハは嬉しいような、それでも信じ切れず戸惑うような表情を浮かばせる。
(この前、尿肥をまく時はめちゃくちゃ疑われてた気がするんだけど……)
もっとも、今それを口にするほど空気が読めないつもりはない。稲夫は何事もなかったように笑顔を浮かべた。
「よし。じゃあ早速やっていこうか」
稲夫は田んぼへ足を踏み入れる。
ぬるりとした泥が足裏を包み込み、踏み出すたびに指の間からゆっくりとはみ出していく。足を持ち上げると、泥が名残惜しむようにまとわりつき、小さく水音を立てた。
「稲と稲の間を歩いて、見つけた草を抜いていってください。ただ、稲は踏まないように気を付けてくださいね」
稲夫は泥を踏みしめながら、ゆっくりと歩いていく。ミズキも田んぼへ入り、その隣の列へと足を踏み入れた。
少し遅れて、イトハも恐る恐る田んぼへ足を沈める。緊張した面持ちで二人の後を追うように、慎重に稲と稲の間を進んでいった。
「稲夫様、歩いた後が荒れておりますが、大丈夫なのでしょうか?」
ボコボコと足跡の残る田んぼを見て、ミズキが少し不安そうに尋ねた。
「大丈夫だよ。むしろ歩くことで泥がかき混ぜられて、中に空気が入りって稲の成長も良くなるぞ」
「そうだったのですね」
ミズキは安心したように頷き、泥を踏みしめながら進み始めた。
「よっこらせっと」
稲夫は身をかがめ、雑草を一本ずつ抜いていく。それに続くように、ミズキも草を抜き始めた。
「あ、あの!これは抜いてよい草でしょうか?」
イトハが一本の草を摘まみ、不安そうに振り返る。
「ええ、それで合っています」
「で、では……抜きます」
緊張した面立ちで、震える手で雑草を引き抜く。
雑草はずるりと抜け、細い根が泥と一緒に姿を現した。雑草を抜いた後、イトハはしばらく動かず、不安そうに稲夫を見る。
「ありがとうございます。その調子で抜いていってください」
「は、はい!」
その表情はまだ強張ったままだったが、先ほどより手の震えは少しだけ収まっていた。
その後、三人は黙々と草を抜き続けた。
時折鳥の鳴き声が聞こえ、水音だけが静かな田んぼに響く。
太陽が少しずつ高く昇るにつれ、雑草は一本、また一本と姿を消していった。
「よし、これで終わりだな」
稲夫が最後の列の雑草を抜き終える。
田んぼから上がり振り返ると、田んぼには整然と並ぶ稲だけが風に揺れていた。
「お疲れ様。二人ともありがとう」
「お役に立てたのでしたら何よりです」
ミズキは汗を拭いながら笑みを浮かべる。
「ワ、ワタシは大したことは……」
イトハはぎこちなく首を振りながらも、その視線は田んぼへ向けられていた。
「心配しなくても大丈夫ですよ。病気になったりしませんから」
「……はい」
返事はしたものの、その表情にはまだ少しだけ迷いが残っている。
「イトハ様。豊穣神たる稲夫様が大丈夫と申しているのです。安心してください」
そんなイトハへ、ミズキは穏やかに、諭すように声を掛ける。
イトハはその言葉を静かに受け止めると、小さく息を吐き、そっと頷いた。
「……ありがとうございます」
風が吹き渡り、青々とした稲が一斉に葉を揺らす。
その景色を見つめるイトハの表情は、田んぼへ足を踏み入れる前よりも、ほんの少しだけ穏やかになっていた。
※雑草は稲と養分や日光を奪い合うだけでなく、害虫のすみかになったり、風通しを悪くして病気が発生しやすい環境を作ったりするため、取り除くことが大切です。
また、田んぼの中を歩くことで泥がかき混ぜられ、土の中に酸素が送り込まれます。これによって根の呼吸や発根が促され、肥料も吸収しやすくなるほか、土中にたまった有害なガスを抜く効果もあります。
このように、田んぼの中の雑草を取りながら泥をかき混ぜる作業は中耕除草とも呼ばれています。




