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米農家、異世界で豊穣神になる  作者: コガネシキ弐玉
第三章 五月

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61話 〈五月下旬〉実りへの一歩

 朝、稲夫は田んぼに訪れていた。その腕には、一つの土器が抱えられてる。

 土器の口は木の蓋で塞いでいるにもかかわらず、その周囲には鼻を刺すような刺激臭が漂っていた。


「そろそろ頃合いかな」


 田んぼに着いた稲夫は、まず稲の様子を確かめる。

田植えをしてから数日。稲は植えた頃よりも大きくなり、葉の数も増えていた。

田植え後の稲は、活着しなければ成長できない。こうして新しい葉を伸ばしているところを見るに、どうやら無事に根付いてくれたようだった。


「順調だな」


「おはようございます、稲夫様」


 後ろから声を掛けられ、振り返るとミズキが立っていた。


「おはよう、ミズキ」


「今日は日中暖かくなりそうでしたので、水位を浅くしておきました。問題ありませんでしたでしょうか?」


「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」


 稲夫が頷くと、ミズキはほっとしたように胸を撫で下ろした。


「おかげで活着もしたし、分げつも始まったみたいだ」


「分げつ、とはなんでしょうか?」


「稲は成長すると、根元から新しい茎を増やすんだ。それを分げつって言う」


 そう言って稲夫は、一株の稲を指差した。


「茎が増えれば、その分だけ穂も増える。つまり、たくさん収穫するための大事な時期なんだ」


「茎が増えるほど、実りも増えるのですね」


 ミズキは風に揺れる若い稲を優しく見つめる。

 ついこの前までは頼りなく見えた苗が、こうして少しずつ育っていることが嬉しいのだろう。


 しばらく二人の間に静かな時間が流れる。

 風に揺れる若い稲を眺めていたミズキだったが、急に鼻を服の裾で抑え、稲夫が抱えてきた土器へ視線を向けた。


「あの……その土器には何が入っているのですか? 何か、すごい匂いがするのですが……」


「これか?これは尿だ」


「に、尿……?」


 ミズキの表情が固まった。


「さっき言っただろ?分げつが始まったって。葉や茎を増やすためには栄養が必要になるんだ。そこで尿の出番ってわけだ」


「その……話が見えてこないのですが……」


「尿には、分げつに必要な栄養が入ってるんだ。葉を育てる肥料だから、葉肥とも呼ばれてるな」


 本当なら、糞尿を発酵・熟成させた下肥を使いたかった。しかし、村へ来てからまだ日が浅い。十分に熟成させるだけの時間がなかった。

 その点、尿だけなら比較的短期間で利用できる。十分に水で薄める必要はあるものの、分げつを促す葉肥としては悪くない。


「じゃあ、入れるか」


 稲夫は土器の蓋を外し、ヤナギに作ってもらった柄杓で中身を掬った。

 十分に水で薄めてはいるものの、それでも周囲には強烈なアンモニア臭が漂う。


「あ、あの……本当に大丈夫なのですか?」


 ミズキは明らかに不安そうに訪ねる。


「大丈夫だよ。濃すぎたり、やりすぎたりすると逆に稲が枯れちゃうけどな。今回は初めてだし、多めに水で薄めてきたから」


 そう言って稲夫が田んぼへ撒こうとした時、ミズキが“くい”と稲夫の服の裾を引っ張る。

 振り返ると、ミズキが不安そうな顔で裾を掴んでいた。


「ほ、本当に、本当に大丈夫なんですか?」


「大丈夫だって。心配しすぎだよ」


 稲夫は何でもないように笑ってみせる。

 ミズキはしばらく迷っていたが、やがてそっと手を離した。


「よし、じゃあさっさとまくか」


 今度こそ撒こうとした瞬間、勢いよくミズキに柄杓を持つ腕を掴まれる。


「本当に本当に本当に大丈夫なんですよね!?」


「大丈夫だって! 落ち着け!」


 それでもミズキは必死の形相で稲夫の腕を離そうとしない。


 このままでは埒が明かない。

 稲夫は掴まれている右手から柄杓を左手へ持ち替えると、そのまま稲に直接掛からないよう注意しながら田んぼへ薄めた尿を撒いた。


「あ、ああ……」


 ミズキは稲夫の腕を離し、まるで取り返しのつかないものを見たような顔で田んぼを見つめる。


「心配する気持ちは分かるけど、そう簡単には枯れないから大丈夫だよ」


「そ、そうですよね……稲夫様がそう仰るのですから、大丈夫なはず……ですよね……」


 ミズキは自分に言い聞かせるように何度も頷いた。


「でも、さっきも言ったけどやり過ぎはよくないから、勝手に撒いたり、直接田んぼに用を足す人がいたら止めないといけないけどな」


「その時は刺してでも止めます」


 そう言ってミズキは懐から先端が尖った骨を取り出す。しかも、先端には何か黒っぽいものが塗られている。たぶん毒だ。


「いや、刺さないで普通に止めてあげようよ……」


「いえ、刺します」


 ミズキの目は座っており、真剣そのものだった。


「まぁ、きっとそんな人いないよ……ハ、ハハハ……」


 稲夫には冗談にはまったく聞こえず、乾いた笑いを漏らす。


 実は田んぼを作っていた頃、元肥として田んぼへ直接用を足すことも考えたことがある。しかし、下肥を作る関係上、尿は厠で集めたかったし、その辺で用を足すのは豊穣神としてどうなのだろうと思い直して踏みとどまったのだ。


(あっぶねぇ!危うくミズキに刺されてた!)


 稲夫は心の底から、当時の自分の判断を褒め称えた。

 初夏の暖かな風が吹いているにもかかわらず、稲夫の背筋には冷たいものが走っていた。

※稲は成長すると、根元から新しい茎を増やします。これを「分げつ」と呼びます。分げつした茎の多くは、やがて穂を付けるため、収量を増やす上で非常に重要な生育段階です。

また、尿には窒素が多く含まれており、古くから肥料として利用されてきました。特に窒素は葉や茎の成長を促すため、葉を育てる目的で施す肥料は「葉肥(はごえ)」とも呼ばれます。

ただし、濃いまま大量に施すと肥料焼けを起こして作物を傷めるため、十分に薄め、適切な量を与えることが重要です。

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