60話 〈五月下旬〉水見半作(みずみはんさく)
朝。空を見上げると、灰色の雲が一面を覆っていた。陽の光は薄く、肌を撫でる風もどこか冷たい。
「これは一日冷えそうだな」
稲夫はそう呟くと、田んぼ脇に設けた水門へ向かった。ヤナギが修理した水門は問題なく動き、板を外すと用水路から勢いよく水が流れ込んでいく。
水はゆっくりと田面を満たし、植えられたばかりの稲の周りに広がっていった。
「おはようございます、稲夫様。今日は冷えますね」
振り返ると、ミズキがこちらへ歩いてきていた。
「おはよう。まぁ、こんな日もあるさ」
二人が挨拶を交わし終えると、ミズキは田んぼへ流れ込む水を見て、小さく首を傾げた。
「稲夫様、こんなに水を入れて良いのですか?確か、田植え後は浅く水を張ると聞いていたのですが……」
「確かに植えて数日は、稲が活着しやすいように浅水で管理する。田植え直後に水を入れすぎると、稲が流されたりするしな」
田植えからまだ日が浅いとはいえ、稲は既に土へ根を伸ばし始めている。水の流れで簡単に動くことはない。
「だけど、今日は冷えるからな。稲の半分くらいまで水を入れておきたい方は」
「その、寒さが水の量を決める要因になるのでしょうか?」
「ああ。稲の成長には水温が大きく関わる」
「どういうことでしょうか?」
「稲は暖かい方がよく育つ。だから気温が高い日は浅水にして、太陽の熱で水が温まりやすいようにするんだ」
「なるほど……」
ミズキは田んぼを見つめながら頷く。
「逆に今日は冷えるから深水にして保温することで、稲を寒さから守るようにするんだ」
「あの、水を深く張った方が寒くなるような気もするのですが……」
「そう思うかもしれないけど、水って空気より冷めにくいんだ。昼の間に暖まっていれば、水の方が暖かい。だから水を多く張ることで、急な冷え込みから稲を守れるんだよ」
「そういうことだったのですね」
ミズキは感心したように田んぼへ視線を落とした。
「水の管理は、稲作の半分を占めるほど大切な作業だって意味で、昔から『水見半作』って言葉があるくらいだからな」
「難しいですね……」
ミズキは小さく苦笑した。
「まぁ慣れだよ。俺も慣れるまでは色々やらかしたから」
「稲夫様でも、間違うことはあるのですか?」
ミズキは少し驚いたように目を丸くする。
「そりゃ俺だって間違うことはあるよ。例えば、寒い日が続いた時にずっと水位を高くしてたことがある」
「それは良いことではないのですか?」
「でも寒さが和らいだ後も心配しすぎて、そのままずっと深水で管理していたんだ。そしたら今度は稲の成長が遅れてしまったんだ」
「やみくもに深く水を張れば良いというものでもないのですね」
「ああ、何事もやり過ぎは良くないってことだな」
「稲作とは、本当に奥が深いのですね……」
ミズキはそう呟くと、改めて田んぼへ視線を向けた。その眼差しは真剣そのもので、流れ込む水をじっと見つめている。
「私もできるように努めます」
ミズキの表情には迷いよりも、決意が浮かんでいた。
稲夫はそんなミズキの顔を見て、小さく笑う。
(随分と立派になったな)
以前のミズキなら、「自分にできるでしょうか」と不安そうに尋ねていただろう。
しかし今は違う。難しいと理解した上で、それでもやると言えるようになっていた。
「ああ、頼んだ。頼りにしているよ」
「はい。お任せください」
ミズキは力強く頷いた。
曇天の下、田んぼを見つめるミズキの横顔は、以前よりもずっと頼もしく見えた。
※稲は水の量だけでなく、水温も成長に大きく影響します。
田植え直後は、稲が新しい根を伸ばす「活着」の時期です。暖かい日には浅水にすることで、水が太陽の熱で暖まりやすくなり、稲の生育を助けることができます。
一方で、気温が低い日や冷え込みが予想される場合は、稲が寒さで成長不良を起こしてしまいます。そうならないように深水にして苗を寒さから守ります。
ただし、長期間水を深く張り続けると、分げつが抑えられたり、生育が遅れたりすることがあります。そのため、天候や環境、稲の状態を見ながら水位を調整することが大切になります。




