55話 〈五月中旬〉忌
ヤナギの背を追い、稲夫とタケルは雨の中を進んだ。
風は相変わらず強い。
木々は身をよじるように揺れ、葉の擦れる音と雨粒の音が混ざり合っていた。
「こっちだ!もう少し!」
ヤナギが振り返り、雨に濡れた顔で叫ぶ。稲夫は息を切らしながら、その後を追った。
やがて、山肌に口を開けるようにした岩屋があった。
入口には雨風を防ぐためか、枝葉を組んだ簡単な覆いが掛けられている。完全ではないが、吹き込む雨をかなり防いでいるようだった。
「ここだ!」
ヤナギはそう言って、岩屋の中へ駆け込んだ。
「稲夫様、俺が先に行きます」
「あ、ああ。頼んだ」
稲夫はタケルの後に続き、岩屋へ入る。
中は思ったより広かった。
奥行きがあり、地面には乾いた草が敷かれている。壁際には割った木材や薪、それから干した草の束が置かれていた。
とても、一時しのぎの避難所には思えなかった。
「……ヤナギ、戻ったの?」
奥から、か細い声が聞こえた。
稲夫は思わず顔を上げる。
岩屋の奥。
薄暗がりの中から、一人の女が姿を現した。
歳は稲夫から見れば、大学生くらいだろうか。黒く長い前髪が顔の右半分を覆っている。袖のない麻の貫頭衣を身に着けてはいたが、右腕だけは肩から手首まで布で覆われていた。
「ヤナギ……その人達は?」
女は稲夫とタケルを見た瞬間、小さく息を呑んだ。身体を強張らせ、一歩後ろへ下がる。
「大丈夫だ、イトハ姉。前いた村の奴らじゃない」
ヤナギは慌てて女の前へ行くと、声を落として言った。女を怯えさせないよう、気を遣っているのが稲夫にも分かった。
その様子に、稲夫は言葉を失った。
(えーと……これは?)
嵐の中で水門を見に行き、嵐の中動けなくなった先で、ヤナギに案内されて岩屋に避難した。
その先で、知らない女が現れた。
状況がいきなり増えすぎて、頭が追いつかない。
「ヤナギ」
タケルは重々しく口を開く。
「お前は俺達の村に来て住まわせてほしいと言った。だが、この女とは別に行動していた。どういう事だ?」
「そ、それは……」
「答えろ」
タケルは一歩前へ出た。
入口から入る薄い光を背にしたタケルの表情は硬い。完全な敵意ではない。だが、ヤナギが何かを隠していた以上、見逃すつもりもないのだろう。
「悪いが、話してもらうぞ。お前が何を隠していたのかを」
「……分かったよ」
ヤナギは観念したように息を吐いた。
それでも、すぐには話し出さなかった。ちらりと女を見る。
女は小さく首を横に振った。
「ワタシのことは気にしなくていから、話して」
「イトハ姉……」
ヤナギは拳を握りしめる。
「オレたちは……前にいた村から逃げてきたんだ」
「何故逃げた」
タケルが即座に問う。
ヤナギは歯を食いしばった。
「イトハ姉が……生贄にされそうだった」
「い、生贄……?」
稲夫は思わず声を漏らした。
喉が詰まる。雨の音が、遠くなったような気がした。
生贄。
その言葉は、物語や歴史の中でしか聞かないものだった。
だが、この世界では、それが現実として目の前にあった。
「何故、その女が選ばれた。お前の村に何があった。何のための生贄だ」
「……」
ヤナギは答えない。
唇を噛み、目を伏せる。
代わりに、女が静かに前へ出た。
「ワタシが、神の怒りを招いたと言われたからです」
そう言って、女は右腕の布に手をかけた。
「イトハ姉!やめ――」
「いいの」
イトハはヤナギを制し、ゆっくりと袖をまくった。
露わになった右腕を見て、稲夫は息を呑んだ。
白い肌の中に、茶色い痣が広がっていた。
肘から手先にかけて、肌を覆うように色が違う。汚れでも傷でもない。そこだけ別の色で染められたようだった。
女は視線を落としたまま言う。
「この手で稲に触れ、神の怒りを買い、稲に病をもたらした。そう言われました」
「違う!」
ヤナギが叫んだ。
岩屋の中に、その声が反響する。
「イトハ姉は稲なんか触ってない!そもそも、田んぼにさえ近づかせてもらえなかった!それなのに、あいつら……全部イトハ姉のせいにしやがって!」
「ヤナギ」
イトハが静かに呼ぶ。
その一言で、ヤナギは口をつぐんだ。
だが、怒りは消えていなかった。握りしめた拳が震えている。
「その手に触れられると、病になるのか」
タケルの問いに、ヤナギは弾かれたように顔を上げた。
「ならない!」
ヤナギはイトハの痣のある右手を取った。
「オレはイトハ姉とずっと一緒にいた!病になったことなんて一度もない!イトハ姉は何も悪くない!」
ヤナギの声は震えていた。
「でも、誰も信じてくれなかった!逃げた先の村でも、イトハ姉を見たら追い返された……」
言葉が途切れる。
ヤナギは悔しそうに顔を歪めた。
「村から持ち出した鉄器を使って、役に立てば受け入れてくれると思った……オレだけ先に村に入って、どうにか受け入れてもらえるようにしてから、イトハ姉を連れていくつもりだった……」
「……そうだったのか」
稲夫はそれしか言えなかった。
ヤナギが嘘をついているようには見えなかった。
イトハと呼ばれる女もまた、怯えと諦めの混じった顔をしている。
岩屋には嵐の音だけが響く。重苦しい沈黙が落ちた。
その音を遮るように、女が一歩前に出た。
「ワタシは、ここで野垂れ死んでも構いません。ですが、ヤナギだけは村に受け入れていただけませんか?」
「イトハ姉!」
「いいの」
イトハはヤナギに微笑む。
それは、あまりにも弱い笑みだった。
「ワタシは、生贄になる覚悟もしていました。この身体で生まれた以上、いつかこうなることも分かっていました」
「何、言ってんだよ……」
「でも、ヤナギ。あなたは違う。ワタシのことはいいから、生きて」
「駄目だ!オレが無理やり逃がしたんだ! イトハ姉を置いて、自分だけ村で生きるなんて、できるわけないだろ!」
ヤナギは稲夫に向き直った。
その目は必死だった。軽口も、誤魔化しも、そこにはなかった。
「稲夫さん……いや、稲夫様!」
ヤナギは地面に膝をついた。
そして、そのまま額を地面に擦りつけるように身体を伏せた。
「お願いします!イトハ姉を受け入れてください!オレにできることなら何でもします! 柵でも、堀でも、家でも、何でも作ります!」
「ヤナギ……お前……」
稲夫は拳を握った。胸の奥が苦しい。 ヤナギの必死な声が、耳のなかでこだまする。
「その痣は、いつからあるんですか?」
稲夫はイトハに尋ねた。
イトハは伏せた目のまま答える。
「生まれた時からあったそうです。それと、顔にも」
そう言って、イトハは顔の右半分を覆っていた髪をそっとどけた。
そこには、顔半分を腕と同じような茶色い痣が広がっていた。
「すみません。見苦しいものを」
イトハはすぐに髪を戻す。
(生まれつきの痣……か)
現代でも、似たような痣を持つ人間を見たことがある。
詳しい病名までは分からない。けれど、それだけで人に病を移すようなものではなかったはずだ。
だが、ここは異世界だ。
本当に同じだと言い切れるのか。
この世界特有の病や呪いが絶対にないと、言えるのか、稲夫には分からなかった。
(受け入れてやりたい)
ヤナギは必死だった。
嵐の中で水門を直そうとした。村のために動いた。それがすべて計算だったとは思えない。
イトハの事情を聞いて、見捨てたいとも思わなかった。
稲が病になる。
神の怒り。
痣のある女。
現代人の自分なら、そんな話は迷信だと一蹴できる。
けれど、この世界の人間たちはそうではない。もし何かあった時、稲夫がすべてを説明し、すべてを守れる保証はない。
村が不安になれば、イトハに向かう目は鋭くなるだろう。
自分が受け入れると決めることは、イトハを守る責任を負うことでもある。
稲夫が答えを出せずにいると、タケルが前へ出た。
「ヤナギ」
「……何だよ」
「イトハという女が、病を振りまくことはないのだな」
「ない!絶対ない!」
ヤナギは顔を上げ、即答した。
タケルはしばらくヤナギを見ていた。
「稲夫様」
雨の音だけが岩屋に響く。
やがて、タケルは稲夫の方へ向き直った。
「ヤナギとイトハ。二人を村に受け入れていただけないでしょうか」
「タケル?」
ヤナギが呆然とタケルを見た。
稲夫も同じだった。
恐らく、この場で一番ヤナギを警戒していたのはタケルだ。
そのタケルが、ヤナギを庇うとは思っていなかった。
「ヤナギは、村のために危険を顧みず、嵐の中で田へ向かおうとしました。水門を直そうと、命を張りました」
そう言って、タケルは膝をついた。
「その行いに、俺は報いてやりたいと思っています」
そして、ヤナギと同じように地面へ身体を伏せる。
「俺からも頼みます。ヤナギとイトハを、村に受け入れてやってください」
「タケル……」
稲夫は呆然とした。
だが、すぐに納得もした。
真面目で、融通が利かず、疑り深い。けれど、命を張った相手には、きちんと報いる男だった。
(ここまで頼み込まれて、見殺しにしたら、
俺は神だなんて名乗れないよな)
いや、名乗るかどうかではない。
皆、自分のことを神と信じてくれている。 なら、目の前で助けを求めている相手から、目を逸らす事はしたくなかった。
「分かった。ヤナギ、イトハさん。二人とも、村に来ていい」
「ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます!」
「感謝いたします、稲夫様」
「いや、タケルまでそんな……」
稲夫は少し困ったように言う。
イトハはまだ信じられないという顔をしていた。
「本当に、よろしいのですか?村の方々は納得されるのでしょうか……また稲が病に侵されないでしょうか?」
「大丈夫だよ、豊穣の神の俺が大丈夫って言ってるんだ。心配しなくていい」
イトハの目が揺れる。
それから、彼女はゆっくりと膝をついた。
「ありがとうございます……」
稲夫は今後のことを考える。
村に戻れば、嵐の後始末に忙殺されるだろう。イトハを受け入れることに、不安を抱く者もいるだろう。
それでも、今ここでこの二人を見捨てることだけはできなかった。




