54話 〈五月中旬〉逆流
外へ出た瞬間、雨が全身へ叩きつけられた。
「うわっ……!」
稲夫は思わず顔を腕で庇う。
激しい雨粒が肌を打ち、風が身体を横から押してくる。足元の土はすでに泥と化し、一歩踏み出すだけでずるりと滑りそうになった。
「稲夫様、こちらです!」
タケルが先に立ち、雨の向こうを指し示す。
視界は悪い。
普段ならすぐ見渡せるはずの村の外周すら、雨に煙ってぼやけていた。
(これ、マジで外出る天気じゃないだろ……!)
稲夫は歯を食いしばりながら、タケルの後を追う。
風の音、雨の音、水の流れる音。
あらゆる音が混ざり合い、まともに声も届かない。
やがて、田んぼへ近づくにつれ、水の音がさらに大きくなった。
田んぼは冠水していた。
浅く張っていたはずの水は畦の際まで増え、植えたばかりの苗は雨に打たれながらかろうじて頭を出している。
水路には濁った水が勢いよく流れ込み、普段の穏やかな流れとはまるで別物になっていた。
水路のそばに、人影があった。
ヤナギだった。
ずぶ濡れになりながら、取水口の水門へしがみつくようにして何かを直している。
足元には木片や縄、石器の鍬が転がっていた。
「ヤナギ!戻れ!」
稲夫は叫ぶ。
だが、ヤナギは反応しない。
嵐の音にかき消されているのか、それとも聞こえていても無視しているのか。
ヤナギは必死に水門へ縄を巻きつけ続けていた。
「聞こえてないのか!?」
「近づきます!」
タケルが短く言い、慎重に水路へ向かう。
稲夫も後に続いた。
足場は最悪だった。
雨でぬかるんだ土は踏むたびに崩れ、濁った水が足首に絡みつく。
水路の縁は削られ、少し体勢を崩せばそのまま流れへ落ちかねない。
「ヤナギ!戻るぞ!こんなとこで作業してる場合じゃない!」
「うわっ!?稲夫さん!?」
ようやく近づいたところで、稲夫は声を張り上げると、ヤナギが振り返った。
その瞬間、ぬかるんだ足元が崩れる。
「やばっ――!」
ヤナギの身体が大きく傾いた。
すぐ横には増水した水路がある。濁った水が唸るように流れていた。
「ヤナギ!」
稲夫が叫ぶより早く、タケルが動いた。
泥を蹴り、腕を伸ばし、落ちかけたヤナギの手首を掴む。
「っ!」
ヤナギの身体が水路へ引きずられかける。
だがタケルは片足を泥に食い込ませ、強引に引き戻した。
「ぐっ……!」
ヤナギは泥の上へ転がるように倒れ込む。
「はぁっ、はぁっ……し、死ぬかと思った……!」
「今、本当に死にかけたんだよ!」
稲夫は雨に濡れたタケルとヤナギへ駆け寄った。
「怪我は!?」
「だ、大丈夫っす……」
「よかった!早く戻るぞ!」
しかし、ヤナギは起き上がりながら水路へ目を向ける。
その表情は、普段の軽薄なものではなかった。
「……二人は先に戻ってください」
「え?」
「取水口はもう塞げました。でも排水口の方から、まだ水が逆流してきてるんです!」
ヤナギは田んぼの反対側を指差した。
見ると、排水口側の水路から濁った水が田へ押し戻されていた。
増水した川の水が逃げ場を失い、逆流しているのだ。
「このままだと田んぼがやられる!排水口も塞がないと!」
「駄目だ!今、流されかけただろう!今度は本当に死ぬかもしれないぞ!」
「死んでもいいんすよ!」
その言葉に、稲夫とタケルは一瞬言葉を失った。
雨音だけが響く。
ヤナギは唇を噛み、拳を握り締めていた。
「水門はオレが作ったんすよ!だったら最後まで面倒見るのもオレの役目でしょうが!」
「ヤナギ……」
「信用されてないのは分かってます!でも、それなら尚更!ここで逃げる訳にはいかないんすよ!」
ヤナギの目は、水門へ釘付けになっていた。
目の前の濁流も、足元の危険も、もはや見えていないようだった。
「オレにも意地があるんすよ!ここで何もできなかったら、オレはオレを許せない!」
その声は、嵐の中でもはっきり届いた。
タケルが無言で周囲を見る。
そして、近くに転がっていた大きな岩へ歩み寄った。
「タケル?ちょ、何する気――」
稲夫が声を掛ける間もなく、タケルは岩を持ち上げると、その岩を水門ごと排水口へ叩き込んだ。
鈍い音が響き、水しぶきが大きく跳ねる。
壊れかけていた水門は岩に潰され、排水口を塞ぐ形で泥と石に押さえ込まれた。
「ああああああっ!?オレの水門があああ!?ふざけんなよてめぇ!人が必死に作ったやつを!」
「これで排水口は塞いだ。作業は終わった。帰るぞ」
「終わってねぇよ!壊しただけだろ!」
「命より大事な物などない。とっとと帰るぞ」
「うわっ、ちょ、離せ!」
タケルは暴れるヤナギの襟首を掴み帰ろうとするが、ヤナギは必死に抵抗する。
「えぇ……タケル、お前……えぇ……」
稲夫は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。ともあれ、これで排水口からの逆流は止まった。
「と、とにかく!もう戻ろう!」
「こちらです!急ぎましょう!」
タケルがヤナギを引きずるようにして、三人は村へ戻ろうと走りだした。
だが――。
「あれ?村ってどっちだ?」
稲夫達は足を止めた。
雨が強すぎる。
視界は白く霞み、いつも見えているはずの住居や柵が見えない。見慣れた景色はまるで別物になっていた。
風が吹きつけ、雨粒が顔を打つ。
タケルも周囲を見渡すが、表情は険しい。
「……申し訳ありません。方角を少し見誤りました」
「マジかよ……」
稲夫の胸に嫌な焦りが広がる。
嵐は先ほどよりも強くなっており、打ちつける雨も押し寄せる風も先ほどより強くなる。
(あれ? これ、もしかして本格的にやばい……?)
このまま村へ戻れなければ、本当に死ぬかもしれない。そんな考えが、嫌でも頭をよぎった。
三人の間へ、雨音だけが重く響く。
ヤナギはしばらく黙っていた。
唇を強く噛み、何かを迷うように視線を彷徨わせる。やがて、苦しそうに口を開いた。
「……近くに、岩屋があります。少なくても、雨風は凌げます」
ヤナギは顔を伏せる。
その声には、どこか断ち切るような響きがあった。
「ヤナギ?」
ヤナギは視線を逸らしたまま、岩屋のある方向を指差している。
その様子に嘘をついている気配はない。
だが、それでも稲夫の胸には僅かな警戒が残っていた。
「稲夫様」
悩みあぐねていたところ、タケルが声をかけた。
「ここはヤナギを信じてついて行きましょう」
「タケル……」
一番ヤナギを疑っていたであろうタケルが、信じようと言っている。
その言葉は、稲夫の迷いを少しだけ軽くした。
「分かった。ヤナギ、案内してくれ」
「……こっちです」
三人は再び嵐の中を進み始める。
濁った水が足元を流れ、風が木々を大きく揺らしている。
雷鳴が遠くで響く中、ヤナギは迷いを振り切るように前へ進んだ。
その先には、雨に煙る岩場がぼんやりと浮かんでいた。




