53話 〈五月中旬〉嵐
激しい雨音で、稲夫は目を覚ました。
外では風が唸りを上げ、竪穴式住居の屋根を激しく叩いている。
雨粒が屋根の隙間へ打ち付けられ、ぱたぱたと音を立てていた。
「うわ……結構やばいなこれ……」
稲夫は思わず顔をしかめる。
昨日のうちにミズキから嵐になるかもしれないと聞いていたが、想像以上だった。
ふと、住居の奥から物音がする。
目を向けると、ミズキとタケルも目を覚ましていた。
「凄まじい雨ですね、ここまでの嵐は久しぶりです」
「風の神がお荒れになっているのでしょうか……」
ミズキは不安そうに肩を竦め、タケルも外の様子を窺うように入口へ視線を向けていた。
「昨日の内に色々準備しておいてよかったな」
昨日のうちに飛ばされそうな木材や道具は住居へ運び込んでいる。住居もあらかじめ補強した甲斐があって、今のところ雨漏りなどはしていなかった。
とはいえ、この嵐では外へ出ることもできない。三人は住居の中で、雨風が収まるのを待っていた。
「稲夫様……植えた稲は、大丈夫でしょうか?風で流されてはいないでしょうか?」
「大丈夫だと思うよ、そう簡単には流されないって」
稲夫はできるだけ明るく答える。
しかし、稲夫自身も内心では不安だった。
何せこの嵐だ。活着しているとはいえ、この暴風雨を前にすれば「絶対大丈夫」とまでは言い切れない。
(頼むから耐えてくれ!稲が流されたら、俺も川に流されかねん!)
豊穣神として崇められている身でありながら、稲夫は内心で必死に神へ祈っていた。
いや、祈られる側なのだが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
住居を揺らす暴風雨の音は、時間が経つほど激しさを増していった。
相変わらず、外から響く暴風雨の音に、ミズキの表情は晴れない。
そんなミズキを見かねたのか、タケルが静かに立ち上がる。
「稲夫様、少し田んぼの様子を見てきます」
「駄目駄目駄目!絶対駄目!それ死亡フラグだから!お決まりのやつだから!」
「死亡フラグ?よく分かりませんが、雨程度で死にはしません。安心してください」
「安心できるか!余計心配だわ!」
稲夫は慌ててタケルの腕を掴み、無理やり座らせる。
「普通に死ぬから!嵐の日に田んぼの様子を見に行って死ぬ人、毎年いるんだって!」
稲夫は必死にタケルを説得する。
タケルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そこまで危険なのですか……」
「危険、めちゃくちゃ危険だ。今日はこの天気だし、大人しく休もう。こういう日は無理に動かない方がいい」
「分かりました」
タケルは首を縦に振ると、持ち上げた腰を下ろす。
すると今度は、ミズキがはっとしたように顔を上げた。
「そういえば、ヤナギさんは大丈夫でしょうか?」
「あっ」
稲夫も思い出す。
ヤナギが寝泊まりしている資材置き場は、雨風を多少防げる程度の簡素な場所だ。
この嵐を凌げるような作りではない。
「ならば、オウカの小屋に避難させましょう。あそこであれば雨風は防げます」
「お前人の心とかないのか?避難どころか追い詰めてるよ……狭いけどこっちに入れてあげよう」
その言葉に、タケルは露骨に嫌そうな顔をした。視線がちらりとミズキへ向く。
「兄様、私は大丈夫ですから」
ミズキが困ったように笑う。
それでもタケルは渋い顔をしていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「……分かりました。呼んできます」
「ありがとう。気を付けて行ってくれ」
タケルは浮かない顔で立ち上がり、雨音響く外へ出ていった。
入口が閉じられると、住居の中には再び激しい雨音だけが残った。
「なんか気を遣わせてごめんな」
「いえ、大丈夫ですよ。気になさらないでください」
申し訳なさそうにする稲夫に、ミズキはいつものように穏やかに笑った。
だが、時折その視線は手元へ落ちている。
そこには、いつも地面へ文字を書くための細い枝が握られていた。
(あぁ……本当は今日、文字の読み書きの続きをやりたかったのか)
こんな天気では外作業もできない。
本来なら、ゆっくり文字を教えるにはちょうどいい日だった。
ミズキは表に出さぬように取り繕っているが、その様子を見ていると、少し申し訳ない気持ちになる。
――その時だった。
ばたん、と入口が勢いよく開く。タケルが焦った様子で戻ってきた。
「稲夫様!ヤナギがいません!」
「え!?どうした!?何があった!?」
稲夫の背筋に、嫌な汗が流れる。
「厠は!?ツチハルさんたちのところは見たのか!?」
「厠にも村の中にも姿がありませんでした!それに、土木作業に使っていた道具や資材が持ち出されていました」
タケルの表情が険しくなる。
「……恐らく、田んぼです」
「この嵐の中で!?」
稲夫は思わず声を荒げた。
信じられなかった。いや、正確には信じたくなかった。
こんな日に田んぼへ向かう危険性を、自分はさっき必死に説明したばかりなのだ。
「……昨日、俺がヤナギへ圧をかけました。村へ尽くせ、役に立てと。それで追い詰められ、危険を冒して動いたのかもしれません」
雨音の中、重苦しい沈黙が落ちる。
タケルの拳は強く握られていた。
(田んぼに行ったなら危険だ……どうする)
稲夫は唇を噛む。
この嵐だ。下手をすれば、本当に命に関わる。
「……タケル、一緒に田んぼ行こう。ヤナギがいたら、無理やりでも連れ戻す」
「承知しました」
「わ、私も行きます!」
ミズキが立ち上がる。
だが、稲夫は首を横に振った。
「駄目だ。危険過ぎる」
「ですが……!」
「ミズキはここにいてくれ。頼む」
ミズキは悔しそうに俯くが、それでも、
やがて小さく頷く。
「……分かりました」
「よし、行くぞタケル!」
「はい!」
二人は暴風雨の中へ飛び出した。
全身に雨が叩きつけられ、唸りを上げる風が身体を押しのける。
それでも泥を踏みしめ、田んぼへ向かった。
嵐の中を進む二人を、住居へ残されたミズキは不安そうに見送る。
「どうか御身の御慈悲を……皆様へ、無事なる道をお示しください……」
手に持つ枝を、ぎゅっと握り締める。
ミズキの小さな祈りの言葉は、激しい嵐の音にかき消されていった。
※嵐の日に田んぼの様子を見に行くのは非常に危険です。
増水した水路や用水路へ転落したり、足を滑らせて流されたり、強風で飛ばされた物が直撃するなど、実際に毎年事故が発生しています。
特に田んぼや水路は足場が悪く、普段以上に危険になります。




