46話 〈五月上旬〉田に根付く命
晴れ渡る空だった。
田の水面は鏡のように空を映し、微かな風が通るたびにさざ波が広がる。
「いい天気だ。田植えをやるには絶好の日だ」
稲夫は空を仰ぎながら、田んぼの水に指を入れ水温を確かめる。
指先に伝わる水は、朝の冷たさをわずかに残しながらも、十分に温んでいた。
「水温も申し分ない。予定通り、田植えを始めよう」
その言葉に、朝早く田んぼに集まっていた皆の顔が引き締まる。
「ツチハルさんとアキさんは、縄引きを頼みます」
「承知しました」
「わかったよ」
「ミズキは苗取りを頼む。ヒナタとロウは、それを運んでくれ」
「畏まりました」
「ヒナタ頑張る!」
「ぐぁーある!」
ミズキは静かに頷く。
ヒナタは元気よく返事をして、ロウはそれに続いて負けじと声を張り上げた。
「ヒナタ、転ばないようにね」
「転ばないもん!」
アキが茶化すと、ヒナタは頬を膨らませて拗ね始める。
「それで、俺とタケルは植える役だ」
「稲夫様、俺は稲を植えたことがないのですが、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だ。難しい作業じゃないし、やり方はちゃんと教えるから」
皆の不安そうな視線がタケルに集まる。
——特にミズキ。
「では、私は苗を取ってまいります。兄様——くれぐれも、苗を粗末にしないように」
ミズキが苗代へ向かうと、ヒナタとロウもぱたぱたと後を追った。
「なぁ、ミズキはタケルのこと凄い心配してないか?」
「はい……その、俺は昔から作業が雑だと皆に言われていたからでしょう。そんなことはないと思うのですが……」
タケルは腕を組み、不思議そうな顔をして考え込む。
(本人の自覚がないタイプか……)
住居の床が石だらけでも気にしていなかったあたり、少なくとも繊細ではないのだろう。
稲夫は苦笑し、視線を外して苗が届くまでやり過ごした。
しばらくして、苗を両手に抱えたヒナタとロウが戻ってきた。
「持ってきたよー!」
「もってきあー!」
「二人共、ありがとう」
稲夫は苗を受け取る。
苗には無駄な傷がなく、根には適度に泥が付いている。
(ミズキ、ちゃんと綺麗に抜いてくれたな)
「よし、始めるか」
稲夫は縄を持つ二人へ視線を向ける。
「ツチハルさん、アキさん、縄引きをお願いします」
「畏まりました」
「まかしときな」
二人は縄引き用の縄を持ち田に入ると、両端へ分かれ、畔に打ち込まれた目印の杭に縄を掛けた。
「行くぞ」
「はいよ!」
ツチハルの掛け声とともに、縄が泥に押し付けられる。
ゆっくり引き上げると、泥の上に等間隔の印が一直線に残った。
二列、印が付いたところでツチハルが振り返った。
「これでよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。じゃあタケル、植えていこうか」
「分かりました」
緊張した趣でタケルは、稲夫と共に泥の中へ踏み込む。
「いいか?まず苗は一度に三、四本まとめて持つ」
稲夫は手にした苗束から数本を抜き取る。
「それで、苗の根元を持って、爪より少し深く植える」
縄引きで付いた印に、指を泥に差し込むようにして苗を植えた。
「植えたら後ろに下がって、次の目印に沿ってまた植えていく」
稲夫は一歩下がり、印の付いた箇所に続けて植えていく。
「これを繰り返すだけだ。できそうか?」
「やってみます」
タケルも同じように苗を三、四本手に取り、目印に植える――が、苗は泥に半分近く埋まっていた。
「深い深い!それは“植えてる”じゃなくて“埋めてる”だ!」
「も、申し訳ありません!」
タケルは慌てて埋めた苗を引き抜く。プチッ!と音を立て、苗の根元から葉が千切れた。
「あー……これは、もう使えないかな」
「……申し訳ありません」
タケルはうなだれ、深々と謝罪する。
「大丈夫だよ。次うまくやればいいんだ。もっと肩の力抜いていこう」
「稲夫様……ありがとうございます」
そこへ、ヒナタとロウが苗を抱えて戻ってきた。
「苗持ってきたよー!」
「もっえいあー!」
稲夫は「ありがとう」と言いロウから苗を受け取る。
タケルもヒナタから苗を受け取る。
「あ、タケルさん!巫女様が『兄様、次はありません』だって!」
苗を受け取ったタケルの動きが止まる。
「……タケル、やっぱり気を引き締めていこうか」
「……はい」
それからは、手を止めることなく作業が続いた。
苗代ではミズキが丁寧に苗を抜き、ヒナタとロウがそれを運ぶ。
ツチハルとアキが縄引きを進め、その印に沿って稲夫とタケルが植えていく。
最初はぎこちなかったタケルも、次第に手つきが安定していった。
(よかった、慣れてきたな)
稲夫はその様子に胸を撫で下ろす。
やがて――。
「よっしゃ!終わった!」
日が傾く頃、稲夫が最後の一列を植え終えた。
全員が畦に上がり、田植えの終わった田を見渡す。
田には稲の緑が、水面の上に整然と並び立っていた。
「くぅー!終わった終わった!なかなか腰に来るね!」
アキが腰を押さえながら伸びをする。
「ここまで整った田は見たことありません。これを私達が作ったのですね……」
「最初はどうなるかと思ったが、どうにかやり遂げたな」
ツチハルが感慨深げに呟き、タケルも満足そうに田を見渡した。
「皆様、お疲れ様でした」
「お疲れ様ー!」
「おうかえさあー!」
苗代から戻ったミズキが、皆を労う。その後ろから、ヒナタとロウがひょこひょこと顔を出した。
「ミズキ達こそお疲れ様。苗取りありがとうな」
ミズキは小さく頷き、整然と並んだ苗を前に足を止める。
「無事に、終わったのですね」
ミズキは泥のついた手を軽く合わせ、目を閉じる。
「この地に根付いた、小さき命に恵みを。この地に、豊穣をもたらしたまえ」
風が吹き、苗が揺れ、水面に波紋が広がる。その光景を、皆が静かに眺めていた。
(ちゃんと、育てないとな)
何もなかった地に田が作られ、命が植えられた。
まだ小さく頼りないが、確かにこの土地に根を下ろした。
水面に映る空の下、稲夫は静かに息を吐いた
※植える深さですが、実際の目安は二〜三センチほどです。
浅く植えすぎると「浅植え」と呼ばれる状態になり、風や水で倒れたり流されたりして、「浮き苗」となり活着が遅れる原因になります。
逆に深く植えすぎると「深植え」となり、生育が遅れ、最終的な収量にも影響が出ます。




