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無題  作者: ねろ
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死にたがりのマジック

「死にたいと思わなかった日なんて、一日だってなかった。」

三春坂さんは、薄暗い夜道で泣きながらそう零した。


不幸に見舞われていた彼女。

不公に見舞われていた彼女。

普通に見舞われていた彼女。

苦痛に見舞われていた彼女。


彼女を取り巻く環境は──そう、第三者から客観視すれば、『珍しくもない』『大したことではない』くらいの認識で済んでしまうのだろう。

世界にはもっと不幸な人がいて、世界にはもっと可哀想な人がいて────そんなことを、«家族»という病巣に身を蝕まれ続けた彼女に向かって、平然と吐き出すのだ。


そして十数年余り、物心の憑く以前から土中に差し込む一条の陽光を羨望する幼虫のように、彼女の心の内で沸々と育っていたのが、自身を苛むあらゆる«不幸»を担当する第二の存在──五瀬 彩香だった。

災禍を背負う。

痛み分け。

そういう意味合いを少なからず含んでいるのだろう、彼女は何も言わず、何も言えず、三春坂さんを幸運にも行き遭った『黒白』という怪異に乗せて«正反対»へと送り出した。


彼女は自分自身に。

家庭の温みを、ほんの少しでもいい、一時的でもいい、教えてやろうとしていたのだ。


「でも・・・もういいです。もういらないです。こんなに温かい幸福は、私の身には余りすぎます。荷物として背負うには、重すぎますよ。」

自分なんていない。

自分なんていらない。

幸福なんていない。

幸福なんていらない。

そんなもの、知らない。


咽び泣く三春坂さんは、捨てるようにそう言った。

彼女はもう、無意識の内に幸福すらも己に降りかかる災いとしか捉えられなくなっている。


「なんて罪悪だ・・・・・・くそっ。胸くそ悪いぜ。」

僕が唾棄するように呟くと、それを見た暗望が、何も言わずににっこりと笑った。

それからその場に屈み込んで泣く三春坂さんにそっと寄り添い、彼女を抱擁する。


「幸福ってのはね」


「別に君を縛るものでも、君を苦しめるものでもないんだよ。」


「志賀さんたちや私たちが必死になって君を捜している。君を必要としている。それに君の裏側である五瀬さんは、君を救おうとしたんだろう?ならそれは君の中に、まだ自分を大事にしたいと、幸せがほしいと、切に願う心が残っていた証拠じゃないか。」


「自分自身が変わろうとしている。君は変われる。幸せになれる。その何よりも雄弁な証明を、君は既に知っている。」


「それだけで、君が立ち上がるには充分だ。」

囁くような、窘めるような、諭すようなその言葉の数々は、彼女の本心──────ではないだろう。

暗望 闇樹はあくまで暗澹たる暗闇。どこまでも暗黒で、いつまでも漆黒。

だからこそ、だ。

だからこそ、そんなちゃちな災禍如きはものともせず包み込める。

無視できる。

本心ではなくとも、本音として。

優しい言葉を、かけてあげられる。


「なかなかやるわね、彼女。正直侮っていたわ。」

僕の肩をつついて、小声で遊海ちゃんが言う。


「まあね。あれでも«式神遣い»さ。言葉で人の心に取り込むのはお手の物ってね。」


「たかが言葉よ」


「されど言葉だろ。言葉のナイフってやつさ。」

僕は戯けたように、洒落た比喩を混じえて語る。

言葉のナイフ──────三春坂さんを束縛し続けていたあれこれを、たった今。

彼女は断ち切る。


上空には黒い風が轟音で歌う。

星空も月光も、未だに見えやしなかった。


「さて、帰ろうか」







もう10月半ばの夕暮れ時、午後六時過ぎとなれば外はなかなか暗くなり始めている頃だ。

「────ま、そういうワケ。」

僕は件の喫茶店(カフェ)で、志賀さんに事の首尾を報告した。

樋川さんと槙中さんは部活だとか。それぞれテニス部と剣道部。

あのヤバめな二人がいないというのはやはり、それだけで安心してしまう。


安堵、安心。

アンド安心。

なんてね。


「そうですかあ・・・でも、皆で帰れたんですよね?なら良かったですよ。」

そう言って、穏やかに微笑む志賀さん。

あー。

癒しだなあ。


「ま、その«大虚鳥»に余計なことさえ言われなければ、もうちょい早く終われた気がするけどね」

肩を竦めて、わざとらしく呆れたふうに言ってみる。

結局、僕ら三人や洞木の裏側には出会えず終いだ──あの憑物も、結構適当なことを言ってくれる。


暫しの静寂。


「・・・なあ、幸せってなんだと思う?」

事後報告から一息ついて、僕は温くなったコーヒーで口を潤して訊いた。


「うーん?面白いことを訊きますね。でもそういうの、嫌いじゃありませんよ。」


「だね。僕もこの話題は好きだ。最低最悪、拙劣極まりないくらいに面白(つまらな)い罪悪だからさ。」


「・・・・・・強いて言うなら、今日と明日、笑って生きていられることですかね。」

へえ。

なかなかどうして、曖昧だ。

今日と明日──────ね。


「ええ。それだけ楽しく生きていられたら、もう充分ですよ。」

そう言い切って、志賀さんはにこやかに笑う。


ちなみに同じ問いを皆にしてみた。

問題。

幸せとは何か?

以下、愉快な回答例。


回答──我が主の幸せ(遊海ちゃん)

回答──金と健康(暗望)

回答──親友が傍にいること(三春坂さん)


「それじゃ・・・そろそろ。夜道は危ないからね。送っていくよ。」

僕は席を立ち、紳士を気取ってそんなことを言った。


「ふふ、ありがとうございます。お優しいんですねっ。」


「はは、冗談は止せよ」

駅前広場を通り、しばらく歩く。

三春坂さんのことから始まり、樋川さんのこととか、槙中さんの性格とか、学校のこととか。

本当にいろんなこと。

とりとめのないこと。

益体のないこと。

でも、そんな時間だって。

きっと悪くはない。


「それじゃあ、私はこちらなので。ありがとうございました。」

律儀に僕の方を振り向いて、恭しくお辞儀をする志賀さん。


「うん。気をつけてね」

僕は彼女に手を振って、閉塞の夜を反対方向へと進んだ。







「僕はね、今回の件でいろいろ考えさせられたんだよ─────自分の在り方、とでも言うのかな。白と黒がひっくり返る忙しない世界で、唯一の灰色。自己の確立すらもできず、自身の証明すらできない。どこにでもいない、平々凡々な僕という人間についてね。」


「自分はどんなに浅弱で、脆弱で、軟弱で、薄弱で、貧弱なのかってさ。冗談みたいな話だけれど、これは冗談じゃない。きっと«正反対»の中でもそれに呑まれなかった彼女よりも、最後の最後には自分と向き合おうとした三春坂さんよりも、僕は強くない。」

不確定で不安定。

不鮮明で不明瞭。

不穏当で不誠実。

なんて空想だ。

なんて空洞だ。


「何、気にすることはないよ。」


僕は見慣れた帰路に差し掛かり、«命題»の事務所の扉の前で歩みを止める。


歩みを止めて──────愕然とする。


「・・・・・・・・・・・・?」

小さく蹲るようにして、その場に倒れ込む人影。

身長は僕と同じくらいで、苦痛に歪むその表情は、最早微動だにせず膠着してしまっている。

衣服は無惨なまでに破れていて、生々しく、そして新しい傷が数々と姿を覗かせる。

溝のように深く罅割れたそこから、赤黒い鮮血が流れ出し、その場に血溜まりを作っていた。


ぴちゃり、ぴちゃり、ぴちゃり。


そして。


どろり、と。


僕は一歩だけ、その場に足を踏み入れ──そして、震える手を彼に伸ばす。




洞木 唯一が、そこに倒れ込んでいた。

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