不幸中の災い
と言っても、小柄な一般人の少女──走力に自信があるというわけでもないらしく、曲がり角を右折した電柱の陰で、息を切らしながら屈んで震えていた。
羽織っていたカーディガンを深く被るようにして、心の底から恐怖に苛まれた小動物のように、ただ目尻に大粒の涙を浮かべて。
「あ、あの・・・あの・・・・・・」
「・・・ごめんなさい」
彼女はおずおずとそう呟いた。その声は最早、誰に向けたものでもなく、独り言のように弱々しく宙に消えた。
「────ごめんなさい、だって?」
僕がそう言って、一歩──たった一歩だ、彼女に近寄ろうとする。
「ひ、ひい──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・・・・・っ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。僕はただ──────」
「・・・・・・・・・!!」
彼女は僕を見上げると、怪物でも見たかのような蒼白な表情で、素早く立ち上がって再び逃走しようとした。
しかしその願いも虚しく、彼女は思い切り転んだ。鮮やかな転倒。
というのもまた、遊海ちゃんに強い力で肩を掴まれたから。
「止まりなさい。これ以上逃げようとするなら────」
「────容赦しないわよ。」
地にへたりこんだ女の子を、遊海ちゃんは睨みつけて威圧する。
彼女の放つその冷淡な声に震え上がらないものはまずいないだろう、それこそ気弱な少女をビビらせるにはもってこいだ。
・・・まあ、良心が痛むけれど。
「遊海ちゃん、それくらいでいいだろ・・・ええと。悪かったね。でも君を獲って食おうってんじゃあないんだ。」
「・・・・・・・・・??」
「君の名前。聞かせてくれないか?」
「・・・三春坂、美晴。です。」
怯えた様子で、震えた声で、それでも彼女は再三と逃げ出すことはなく、名前を教えてくれた。
よし、的中だ。
しかしどう説明したものだろう──取り乱さずに落ち着いて聞いてくれ、なんて注意が彼女に効くとも思えない。
「そうか、三春坂さん──志賀さんと樋川さん、そして槙中さん。知ってるね?僕は彼女らに頼まれて、君を捜しに来たんだ。」
「────じ、じゃあ千穂ちゃんたちも、この世界に・・・・・・?」
彼女の表情は半泣きのままではあるが、志賀さんたちの名前を聞いた途端に晴れやかになった。
しかし今、この世界と言ったか?
この世界。
つまり彼女は、自身が普通じゃあない世界に迷い込んだという自覚があるってことか?
「いや、残念だけど彼女らはいないよ・・・三春坂さん。君、今起こっていることについてどのくらい知っているんだい?」
「そうなんですか・・・。」
しゅん、とする三春坂さん。
なんというか、感情が表に出やすい女の子だな。
やりづらい。
「えっと、ですね──私がいるここは、全てが正反対の場所ということ。元いた場所では、私のそっくりさんが私として生きていること。」
「──────私はもう、誰にも必要とされていないこと。」
そう言った三春坂さんの表情は、少し寂しそうだった。
やめろよ。
君はそんな顔を──するべきじゃあない。
そんなことを──言ってはいけない。
「ははっ、そんなことありませんよ。」
いつもと変わらぬ、不気味な──無気味な微笑をたたえて、突然に暗望はそう言った。
「現にあなたがいなくなったことを勘づいた人はいますしね。五瀬さん──あなたの偽者を不自然に思っている人はもっと多いでしょう。」
「そして何より、今の私たちにはあなたがとても重要で、とても肝要で、とても必要だ。一緒に来てくださいよ。」
漆黒を立ち込めたようなその両の瞳で、暗望は三春坂さんの顔を覗き込む。
彼女は強く頷く──────のではなく、ただ弱々しく俯いただけだった。
しかしそれ以来、三春坂さんは慄くこともなく、怯えることもなく、ひたすらに自虐的な笑みを、いたずらに諧謔的な笑みを浮かべるのだ。
・
「──────というわけなんだ。」
暗望が今までの事情、これまでの経緯を三春坂さんに縷々と説明した。尤も荒唐無稽な話なので、細かいところは端折ったし、理解してもらうのにも数回は同じ説明を繰り返した。根気よく暗望は説明を続けていたが、あんな彼女は思えばレアだ。歳上だから張り切っていたんだと思うと、なんとも微笑ましい。
そういや忘れていたが、暗望よりも三春坂さんの方が背が高いんだよな・・・三春坂さんは14だったはずだ。とても暗望より二歳下とは思えない。
「三春坂さん、身長どんくらい?」
「162ですけど・・・」
おやおや。
結構高いね。
「ふふふ」
暗望が怪しげに微笑む──というか、咋に怒気を込めて。
「あ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!悪気はないんですっ!」
「そりゃそうだろ」
悪気があるのは僕だ。
やっぱ、どうもやりにくいよな。
いつもこんな調子なのか?
「あのさ三春坂さん・・・そんな畏まらないでいいんだぜ?僕たちは君の味方なんだし。」
「味方?」
「そう。憑物の説明もしたよね?人の心の弱さに憑け入る化物──つまり今回も、君自身の何かが原因しているはずなんだよ。ならそれを解決しなきゃならないだろう?僕らはその手伝いをしようとしているんだから。」
「・・・手伝い、ですか。」
「そう。言い方が気に入らないってんなら、そうだな──力を貸すって感じか。」
彼女自身の悩み、弱みが『黒白』の憑く隙となったなら、それを解けば僕らは戻れるはずなのだ。憑物は根源を、根本を断ち切らなきゃ解決しないわけだし。
「私、帰りたくないんです」
不承不承というのか、仕方なくと言った感じに彼女はそう呟いた。
「帰りたくない?」
僕はその言葉を反芻するも、彼女はそれ以降口を開かない。
「・・・帰りたくないってのは、向こうの世界にってこと?」
「お家に」
「・・・・・・・・・・。」
僕は押し黙る。
そう言えば志賀さんたちから依頼を受ける際、なんとなく聞いた憶えがあったな──彼女の家庭状況は«特殊»だと。
特殊。
特別。
特異。
「お話、聞いてくれますか」
「どうぞ」
僕らは仄暗い住宅街の隅を沿うように歩く。
不幸な少女の独白を聞きながら。
「私のお家は貧乏でした。といっても、生活できないほどではありません。」
「でも私が12歳の頃から、お母さんが脚の病気に罹ってしまってですね・・・・・・入退院を頻繁に繰り返していたんです。手術もしましたが、快復しませんでした。家にいた時もありましたが、当然のように一日中寝たきりで。」
「眠りながらも、無意識に『痛い』って叫ぶんです。呻くんです。たまに起きてきたかと思えば、その鬱憤を私にぶつけるんです。泣きながら怒鳴り、泣きながら暴れ、泣きながら私を殴るんです。でも私は一向に泣けませんでした。」
「やっぱり、そんな状態で仕事なんてできないらしくて。何度も何度も仕事に就いては、職場の人たちとトラブルを起こしてやめちゃって。そのうちまともな収入源が無くなり、私の家は荒んだ墓場のようになりました。」
「だから私は家事全般がとても得意になりましたよ。そりゃあもう、とても、とても上手になりました。あと、テレビも好きになりましたね。退屈することなんて、全然ありませんでした。」
「・・・お父さんは?いないわけじゃないだろう?」
「ええ、います。健在ですよ。」
「でもお父さんは過酷な仕事で日々疲れていまして。帰ってくる度に、私に乱暴をするんです。」
「でも抵抗しませんでした。我慢することくらいしか、私にはできませんでしたし。『いい子』でいることくらいしか。いえ、それすらも多分──────私は、怠ってしまっていたのかな。」
「そんな私と仲良くしてくれたのが千穂ちゃんたちなんですよ。不幸で、お金もない私に『そんなの関係ないよ』って言ってくれたんです。」
「だから学校は楽しかったですよ。とてもとても、毎日が明るくて、楽しくて、幸せで。だからこそ帰宅する先が、より荒れ果てた地獄のように見えて。父の怒号と、母の苦痛と、八つ当たりと。そんなものが箱詰めになっている場所に、私はいつも笑顔で帰っていたんです。」
「気持ち悪いですよね。」
「でも・・・でもね。」
「この世界のお父さんとお母さんは、優しいんですよ。」
涙しながらに、三春坂さんは語る。それは安堵と悲哀の入り混じる、複雑な涙だった。
「優しくて。笑ってくれて。二人とも健康で、働いていて。温かくて。温かくて。温かくて。そしてやっぱり──────優しくて。」
「私はその内に怖くなりました。こんなことがあっていいのかなって。私がこんなに幸せでいいのかなって。だから今日は、両親の寝静まった夜中に、家を抜け出そうとしたんです。」
僕はその話を聞いて、彼女を単に«不幸»だと思った。これが不幸でないなら、何が不幸だというのだ。
悲しくて、辛くて、苦しくて、悔しくて、寂しくて、怖かったろうに──────彼女は、間違いなく不幸だ。
間違いなく、間違ってしまった、不幸だ。
「だから向こうの世界に帰ることが出来ても、家には帰りたくないんです。五瀬 彩香さんに出会って、こちら側に惹き込まれた時──実は、やっと死ねるんだって安心したくらいで。」
「・・・五瀬 彩香に会ったのかい?」
それは計算外だ。
ドッペルゲンガーじゃあない・・・本物と偽物が出会っている。
「はい。彼女は私にこう言ったんですよ。『良い逃げ道を知っている──これを使って、どこへでも行きなよ』って。私はそこで気を失ってしまいましたけれど、それが多分、『黒白』ってやつなんじゃないですか?」
「・・・かもな。でも、まさかだろ。」
それだと、五瀬 彩香は暗望の管轄外にあった『黒白』を使えたってことじゃあないのか?
それに、元々彼女はこの世界の住人ではないということになる。
つまり──なんだ?
つまり三春坂 美晴も、五瀬 彩香も、互いが互いの«裏側»でありながら、相補的関係を有していながら、どちらも普通の世界の住人だったってことか?
「可能性は充分ありますよ・・・見た目がそっくりなら、入れ替わりもどうとでもなりますし。どちらかが違う世界に行ったって、誤魔化し次第でどうにでもなる。」
と、暗望は式神遣いとしての見解を述べる。
「何より、君と洞木くんの例があるしね。どの仮説よりも有力かも。」
と、遊海ちゃんも続ける。
«対極»にして«表裏一体»。
それでも世界線を、世界観を跨がない存在。
たしかに──有り得るぞ。
僕の場合は«狂気»によって洞木 唯一という存在が生じた。
歪みのような、歪みのような存在。誤植であり、誤答であり、誤解のような、間違った存在。
ならば同様に、三春坂さんは«不幸»によって裏側が生まれたということか?
五瀬 彩香。
彩香──────災禍?
「おいおい、冗談だろ・・・・・・。」
謎が全て解けてしまったぜ。
だからといって、どうしろっていうんだ?




