抱懐する錯誤の錯綜
「ふふっ。初めまして──そう言うべきでしょうね。」
そんな不可解なことを麗しさ漂う清澄な声で呟いて、屋根から少女は飛び降りる。
音も立てずに綺麗な着地をしてから、長い髪をかきあげてこちらを再び一瞥した。
「私は«大虚鳥»──────もとい、菱森 希心。」
菱森 希心。
そしてその裏側、大虚鳥。
彼女らに、いや、彼女にまつわる黒々とした暗澹たる闇の物語は、数ヶ月前に一旦の解決を見たはずだ。夏休みが終わる頃には、彼女も意識に宿るその憑物を認識した、ゆえに無意識下に暴走するなんてことはないのに。
それが何故?
「・・・・・・暗望、これも『黒白』の影響だったりする?」
「ええ。影響というか、これこそが本筋です。人の精神の裏側──もっと言えば、向こう側を写し出す鏡のような存在ですからね。」
つまりこの世界における菱森は、かつて彼女の意識の内に封じ込められた«大虚鳥»として生きているのか。そう考えると、さっきの華道の奇妙な変貌にだって合点がいく。つまりこの世界は皆総じて«正反対»────。
「どうする?遊海ちゃん・・・って、駄目だな。」
ヤバいぜ。
過去にどういう経緯を経たのは知らないが、遊海ちゃんは«大虚鳥»という存在そのものに絶対的な忠心を誓っているんだった。
目の前の化物が少し威圧を放っただけで、すっかり膠着してしまうくらいには。
既に狂信の域だろうとも思うのだが、しかしだからといって到底馬鹿にはできない。
信仰する対象・・・というか、端的に言って«偶像»。心の弱み、隙間に溶け込むものは、毒となり、やがて心身を蝕み始める。
そして遊海ちゃんはそのぎりぎり一歩手前であるわけだが、それは彼女の確たる意志で踏みとどまり続けている状態だ。
だからといって、ここで遊海ちゃんを無理に駆り出すのは得策とも言い難い。それに何より、彼女にとって多大な負担を強いてしまう。
「勘違いしないでよ。私はあなた達に攻撃しようと思ったわけではないの。」
「私はほら、これでも、まがりなりにも«憑物»の一種。だから、現在進行形で憑かれているあなたたちに助言でもしようかと思ってね。」
「助言?あんたがそんな洒落たことをするとは意外だな。出会えば即決即断、敵対意思に敵愾心剥き出しかと思っていたぜ」
なんてね。
僕とてそこまで頑迷というわけでもない。相手がわざわざ助言をくれると言うのなら、ありがたくいただこう。
「人間と相容れない存在だからって、全てが敵だと勘違いするのはよくないわよ。私たちは言わば中立なのだから・・・・・・それはあなたもそうでしょうけど。«罪悪»。」
幼子を優しく諭すような調子で話す«大虚鳥»。まあたしかに、僕も中立と言って言えなくもない。
ニュアンス的には、白黒曖昧のどっちつかず、つまり«灰色»と言った方が僕らしいけれど。
白黒。
が正反対になる、この世界。
『黒白』ね。
ならば僕は──灰色は唯一、変わらない。
変われない。
良くも悪くも、僕は僕だ。
「さて、言うべきことは二つ。一つは、恐らくそんな手早くこの異変を解決することはできない。早くても二日はかかるわね。寝泊まりは普通にこちらの世界の«命題»の事務所を使えばいいのよ。」
ふむ。
それは如何にも、灯台もと暗しというか、盲点である。
性格の正反対になった彼らも気になるし。
「・・・・・・あれ。じゃあ僕ら、学校とかどうすんの?」
割と気になる問題、というか結構な大問題だ。
日頃サボりがちな僕とは言えど、あまり無闇に欠席日数を増やしたいわけではない。後の学生生活に支障を来すし、それに僕のサボりはバレている人にはバレているので、言わずとも不名誉が定着する(もう手遅れかもしれないが)。
「あー」
短く言って、«大虚鳥»は考え込む仕草をする。ワンピースのフリルが小さく揺れ、その幼い出で立ちも相俟ってより幼く見える。
だがこれでも約600歳。
思考力は浅はかではないはず。
きっと長年のあれこれによって培った、含蓄のある言葉をくれると思うのだ。
「気にしないでいいんじゃない?」
「は?」
「いや、こういうのってお約束みたいなところがあるじゃん。そう。全部細かいことは気にしなくてもオッケーなの。」
・・・・・・・・・・・・。
やべえ。
浅っ。
浅っ!!
「そもそも元の世界は昼だったでしょ?それがいきなり夜になったんだから、時間的には既にいろいろと辻褄合わせられないじゃない。」
「それは正反対の世界において、昼の反対が夜っていう話なのかと思ったんだけれど・・・え、違うの?伏線とかじゃないの?」
「違う違う。全然違う。全部私の登場シーンのためだけに誂えられた設定。」
うわあ。
この少女(齢三桁)、よくもまあ平気な顔してそんなこと言えるな。
お前のための設定だったら、これから先どうすんだよ。
「まあさすがに嘘よ。でもあまり気にしなくてもいいってのは本当。辻褄の合わない世界、都合の合わない世界──────さすがに常識をあてがうことは難しいでしょ。大丈夫。こういうのは時間軸も大体適当だから。」
曰く、こういった些細な齟齬や矛盾点、食い違いの一つもなく完璧に整然とした世界というのはあまり存在しないらしい。
どこかおかしくて、どこかズレていて、どこか狂っている。
その曖昧さ、怪しさ、不自然さこそが«怪異»なのだと──────あながち適当に遇うわけでもなさそうに、らしくない優しげな微笑みで、«大虚鳥»はそう教えてくれた。
「じゃあ二つ目は何です?寝泊まりはともかく、五瀬 彩香と入れ替わった三春坂 美晴をさっさと見つけ、帰る方法をいの一番に模索したいところですけれど。」
暗望が僕の後ろから顔を出すようにしてそう尋ねる。
たしかにそれはこの上なく尤もだ。寝床があるからといって、いつまでもこの世界に居座るわけにはいかない・・・・・・『解決』という話を、僕は志賀さんたちに持って帰らなきゃならないのだから。
しかし本当に、五瀬 彩香が元はこちら側の住人だと、もっと端的に言うと三春坂 美晴と五瀬 彩香は«表裏一体»だと断定していいのだろうか?もちろんそうであってほしいというのが僕の希望だが。
「それは知らないわよ。それこそ«命題»は何でも請け負うんだから、依頼でもすれば?」
「元々こっちが依頼を受けてんだっての。そんなことしたらややこしくなるだろうが。」
「でも考えてみなさいよ。何もかもが«正反対»、文字通り正しさすらも正しく反対であるこの世界、ならばあなたたちの裏面も必ずいるとは思わない?そしてその存在は多分、今回の事件に大きく関わるキーパーソンよ。」
なるほどたしかに、それはそうだ。
穏やかで優しい遊海ちゃんや、清廉潔白な暗望だっているかもな(ぞっとする)。
でも僕の裏側は洞木 唯一だ。そこに関してはあまり期待していない・・・・・・あれ?
いやでも、菱森と«大虚鳥»の関係性と違うのは、僕と洞木は肉体を共有しているわけでもなく、あくまで«表裏一体»という関係性を秘密裏に有する別人だ。
ならば僕の裏面と、そして洞木の裏面がそれぞれ別個に存在するということなのか?
早くも混乱してきてしまったぞ。
「・・・・・・ねえ、シンくん」
僕が必死に頭の中を整理して思考しようとしていると、小声で遊海ちゃんが僕の肩を叩く。
「『きーぱーそん』って、鍵っ子ってこと?」
なんだ。
耳打ちでなんてこと言ってんだ、こいつ。
急にシリアスを崩すな。
「違ぇよ・・・重要人物ってこと。物事の鍵を握ってるって比喩だよ。」
「じゃあ鍵っ子じゃない」
そうかもな。
比喩を真に受けるとこうなる。日本語の厄介なところだ。
「そんな奴がいなくても、私たちは自力で解決できるんじゃないの?鍵がないならピッキングすればいいでしょ。」
「変に喩えなくていいから。ピッキングする方が大変だろ。あるなら鍵を探そうぜ・・・・・・。」
そこまで言ったけれど、遊海ちゃん、多分幼少からの殺し屋育ちだからピッキング技術もそれなりに造詣深いかもしれない。
僕もまあ、経験がないってことはなくもなくもなくもなくもない。
「何より私がもう一人いるってのが気に食わない」
理屈も感情もわからねえ。
共感できないよ・・・このクールな女の子の怒りのツボは一体どこにあるんだ。
狭量だなあ。
「まあ・・・・・・わかったよ。ありがとう、«大虚鳥»。僕の世界ではある種の大喧嘩をして啀みあったけれど、お前ともこういう風に出会えれば良かったのにな。」
なんて、冗談半分で悪役のようなセリフを言ってみる。
「どういたしまして。私は元より出会いたくなんてなかったけどね。」
うう。
言われてしまった。
これが即ち菱森の本音ってやつなのだろうか・・・・・・だとしたらめちゃくちゃ怖い。
今度何か奢ってやろう。
「それじゃ。世界線が違うとは言えど、私の可愛い下僕もいれば、殺し合いした因縁の相手もいるわけだし。せめてもの幸運を祈っておいてあげる。」
最後にそう言い残した«大虚鳥»は、軽快なステップで地を駆動し、どこかへ高く跳躍したかと思えば、その頃にはもう闇夜を纏って消えていた。深紅の瞳から感じる穏やかじゃない殺意は、どうやら変な勘違いだったことにしておいた方が良さそうだ。
世界線。
彼女は表現したけれど、ならばこれ以上ハマる言い回しもなかなかあるまい。
つまりこれは、«怪異»の生み出したパラレルワールドの一種なのだ。
精神の裏側、正反対。
人の内に潜む密かな願望とか、狂気とか、本音とか──────そういうものが全部秘すことなく外路に晒されてしまうのはぞっとしないし、それによって僕らがどんな傷を負うかはわかったもんじゃあないけれども、しかしそう考えれば少しだけ進みやすくはなったように思う。
或いは三春坂 美晴さんも。
五瀬 彩香の何かを、羨望していたのかもしれない。
何らかの劣等感──普通に生きていれば、誰しも少なからず胸の内に抱くであろう負い目に、どこか惹かれてしまったのかもしれない。
それも全て、彼女を探せば判然とすることか。
「よし・・・・・・とりあえず夜も遅いし、それじゃあ«命題»に向かうとしよう。」
僕は言って、どこか普通じゃあない東京の街を静かに歩む。
ふと思い立って夜空の果てを仰ぐものの、月光は見えなかった。




