バケモノ
気づけば、怖気がするほど白い空間の中にいた。
眩暈のするほど眩しい白色を全面的に押し出したような、渺茫に続く匣のような場所だ。実際どんなに目を凝らしても、僕にはその空間の果てが見えない。
これは洞木だろうと遊海ちゃんだろうと、やはり同様に視認は出来ないのだろう──場の明暗ではなく、" 広すぎる "というのが問題なのだから。
そしてそれは、それほどに恐れ慄くべき状況に、自身がいつの間にやら身を置いてしまっていることの完璧な証明になり得た。
完全な証明になり得た。
虚無と絶無に包まれた真っ白い空間の中、僕の目の前には、姉妹の姉・山茶花 周防が佇んでいたのだ──この状況で、この状態で、一体何を疑う必要がある?
自明だろう。
彼女の立ち姿は勇ましく、毅然たるもので、喩えるならばそう、ミケランジェロの彫刻作品のような美しさを感じさせる。
つい見惚れてしまうほどの出で立ちに、しかしそれが孕む狂気に立ち竦み何も言えずにいると、やがて周防は視線だけをこちらに向けた。
「此処は地獄の端の端。言わば三途の川──貴様は私に裁かれる。」
「・・・・・・遊海ちゃんは、どうした?」
周囲の景色には川らしさなど全くない、と言う野暮なツッコミは置いておくとして。
「丁度二手に分かれた。尤も私も長門も、一人で169人の相手が出来るがな。13の2乗だ。」
菱森 雪都を真似たのか、そんな意味のわからないことを無表情で言ってのける周防。直前まで地獄という荒唐無稽な状況を全身をもって体感していたからなのか、意外にも冷静な心理状態を保っていることが出来た。
「質問は以上か?」
「待ってくれ、まだ重要なのがいくつか・・・・・・。」
«裁き»とは、一体何を。
そんな旨のことを、僕は訊ねた。
いや、わからないか。
冷静だと言いながらも、冷や汗をかいていたし、鳥肌が立っていた。声も震えていたのではないだろうか。
良いコンディションとは、やはりどうしても言えまい。
「それはこれからわかる──では、貴様の罪状を述べるぞ。覚悟して聞け。」
罪状。
罪状だと?
そんなもの、どうして僕が。
僕に 償える 罪なんて、あるはずがないのに。
あるはずがないのに。
「なかなかどうして意外だな。貴様のように腑抜けた見てくれの若人も過去に恐るべき虐殺を働いていたとはな、あははっ。」
そこで周防は、幼き少女のように無邪気に笑った。
実際それは嘲笑だったわけだが、僕はその笑みを、愛おしく思った。
何故だろう。
「虐殺────だと?」
掠れた声で口にする言葉は、もう既に水泡のような脆さで、つまり、触れればすぐに消えそうなもの哀しさを秘めている。
「ああ。虐殺も虐殺、虐げて殺す、大虐殺だ。誤魔化したって無駄だぞ──いくらその曖昧さ加減が、" 灰色 "の部分を突くことが貴様の得意分野だとしても、私も伊達や酔狂で地獄の番人をやっているわけでは無い。
貴様の刻む一語一句の言動、貴様の刻む一挙手一投足の挙動、その裏面に焼きついた悪意を、敵意を、常日頃からしかと見ている。」
待ってくれ。止せ。
そんなことを、言うな・・・!
一度たりとも、一瞬たりとも忘れたことはない。
思い出させないでくれ。
過去の回想が、かつての回想が堰を切ったようにフラッシュバックする。
あの言葉が。
彼らの言葉が。
僕が殺した、彼らの言葉が。
『■■■■■■■■■■■■』
やめろ──。
『■■■■■■■■■■■■』
やめろやめろやめろ──。
『■■■■■■■■■■■■』
やめてくれやめてくれやめてくれ──。
『■■■■■■■■■■■■■』
やめてくれッ、頼むから──!
数年前に渦巻いた" 咎 "。
僕が犯した災悪。
耳に張り付くその悲鳴。阿鼻叫喚。
網膜に焼きついたその惨状。屍の山。血の河。
脳裏に刻まれたその罪。
僕が今まで逃げ続けてきた罪悪。
僕が今まで隠れ続けてきた罪悪。
僕が今まで目を逸らし続けてきた──────愚かしい悪。
「う、ああ・・・あああああ」
大粒の涙が目尻に浮かぶ。
視界がゆらりと歪みを見せた。
「大虐殺の蠢く罪人。貴様には生きる資格も死ぬ資格もない──その咎を負い、その禍を追い、未来永劫、果てしなく彷徨い続けろ。
貴様の行く末は、罪悪だ。」
余命宣告よりも、死刑宣告よりも恐ろしいその言は、思いの外訥々と告げられた。
その味気なさに、呆気なさに、悪寒が全身を駆け巡るのを痛いほどに感じた。
食いしばった奥歯にも力が入り、ガタガタと気持ち悪いくらいに震える。
気がどうにかなりそうだ。
狂気に蝕まれている。
命を蝕まれている。
解っているんだよ。
判っているんだよ。
何度狂ったところで、何度死んだところで、その罪は、精算できないということくらい──。
「躊躇うな。«禍中»は死ね。」
そこで恐らく、裁きも咎めも関係しない、関与しない、山茶花 周防の唯一の本音と思われる呟きが耳に届く。
本当に、どうして聞こえるんだと言うくらいの距離で、声量で、しかしそれは、聴覚が鋭敏すぎるほどに研ぎ澄まされたように──聞き取れた。
そしてその一言を受けて、僕は実にあっさりと壊れてしまった。
僕の中の、何かが。
壊れた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
僕はその台詞を遮るかの如く叫ぶ。
声帯が断裂せんばかりに叫び、涙腺が千切れんばかりに泣く。
鳴く。啼く。哭く。
無く。
亡く。
絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。絶叫。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
苦痛。苦痛。苦痛。苦痛。苦痛。
悲哀。悲哀。悲哀。悲哀。悲哀。
──────そして、絶望。
半狂乱の状態で、しかし全速力で、デタラメに地を踏んで駆け出す。けれどもまたそれと同時に、周防も黒々と邪悪な煌めきを放つ短刀を構えた。
「狂人は脆く頽れたか──来いッ!!」
挑発するようなその声も、最早意識には届かず、もうただの雑音としてしか響かない。
雑音。
「うわああああああッ!!!」
僕は何も考えないままに武装した«罪悪»を振るう。
その装甲は激化していて、普段なら精々肘までで止まっているようなところを、腕全体を経由し、右頬にまでその悪魔の血脈が迸ってしまっていた。
「はははっ──なんだ、その惨めな様相は?もう人間をやめているじゃあないか。」
反して周防は、僕の狂乱を心底愉しむかのように、軽やかに舞って狙いの定まらない猛攻を躱す。
その眼差しは、あまりの愉悦にうっとりとしているかのように見えた。
「あああああアアアアアアアアア────」
絶叫も絶え、その苦痛ゆえの悲鳴、屈辱ゆえの悲鳴の声量も萎靡沈滞としてきたその頃、僕の意識はふと醒める。
それも、周防の発した歪な言葉によって。
「貴様は終結だッ、洞木 唯一──────!」
と。
彼女はたしかに、そう言った────気がする。
実を言うとわからない。
僕は狂気に陥っていたから、気の錯乱、認知的不協和だとか、全く無関係の名前を無意識に上げて" そうだったらいいな "と願うような希望的観測なのかもしれない。
でも確かに僕には、洞木 唯一の名が聞こえた。
それに動揺して、体力の限界を超えても尚、ひたすらに疾走を続けていた僕は身体のバランスを崩して前につんのめってしまう。
「何やってんだ、屍刑囚がァッ!!」
そんな罵詈雑言を叫び、周防が僕の腹部を思いの限りに蹴り抜く。
それはまるで、貫く刃のような威力だった。
憶えのある鈍い血の味が広がり、肋骨のあたりが音を立てて軋む──今回に限っては、いつか戦った有栖川の能力、«魔法論理»のようにはいかない。
気の錯覚なんて、そんな都合の良いことが──あるわけない。
激痛が走る。
「がは・・・あ・・・ッ」
そのまま僕の身体は遥か彼方へと吹っ飛び続け、見えない透明の壁に勢いよく打ちつけられた。
無限に続く部屋に見えても、空間における限界地点はあるってことか・・・・・・。
「洞木だと・・・・・・っ──!?」
しかし待て。
どうして山茶花 周防が、その名を知っている?
いや、知っていてもおかしくはないかもしれないが、可能性はあるのかもしれないが、だからってどうして・・・今、その名を?
洞木 唯一・・・・・・僕の親友。
«命題»のメンバー。
何でも屋。
あらゆる才覚に秀でていて、あるゆる才能に優れている男。
金遣いが異常に荒い。
飽きっぽい。
夜行性。
裏面の世界を、つまり«対岸»を駆け抜ける狂気そのもの。
«漆黒»の忌名を有する。
最強にして最恐。
最凶にして最狂。
戦闘屋すらも砕き、殺し屋さえも穿つ。
式神遣いすらも超えて、憑物すらも越える。
そんな男。
そんな男の何処に、この死況を打開する答えがあるっていうんだ──────?
・忌名というのは当然ながら異名とかかっている造語です。
あまりにも強すぎて忌み嫌われるようになった、という意味合いなんですけど、それって何でも屋の商売上どうなんでしょうか。




