一章 『カラーリング・ラン』 Ⅱ
4:弥附高/鹿崎悠斗
「紅葉、六時間目なんだっけ」
「次は物理だね。去年の丹生先生は期末前にまとめプリントを作ってくれてたけど、今年担当の柳本先生はそう言うケアがないらしいからちゃんと授業聞きなよ」
「そうだな。それは俺の中のアイツ次第かな」
「アイツって誰なのー?」
自分の机に頬を付けたままの姿勢で葵が聞いてきた。
葵は休み時間はいつもこんな風に脱力状態でいる。
「睡魔」
「おい、悠斗」
「冗談だってば」
葵の後ろの席に座る紅葉が、黒縁眼鏡の奥からギロリと睨む。俺は手をひらひらと振って本気ではないことを示す。教室の隅で固まって話す女子たちが小さく歓声をあげた。
「なんだ? ……あぁ、そう言うことか」
不思議に思ったがすぐに理由を把握する。
俺はからかうような笑みを浮かべて紅葉の方に視線を送る。
「今日も人気者だねぇ、こーよー君」
「はぁ……。僕としては正直嬉しくないんだけど」
紅葉はため息で返す。
つまり、彼女たちは紅葉のファンなのだ。
落ち着いて客観的に、宮島紅葉と言う幼馴染の外見を分析してみよう。
小柄な体躯と、長い睫。
肩幅は同じクラスの女子のそれと大差ないほどだし、いわゆる美少女に分類される葵とよく似た美形な顔立ち。おまけに比較的長い髪型とくれば、紅葉が女に間違えられるのは仕方ないことだろう。
とは言え、さっきのクラスメイトの女子の反応を見る限り、可愛らしい男子と言うのも一定の需要があるようだ。
「うちの紅葉ちゃんは可愛いでしょー?」
俺の視線の意味に気が付いていたのか、葵がにやにやと笑いながらからかってくる。
ちなみに美少女だとは言ったが、妹である宮島葵の方はクラスメイトの男子からはあまり女子扱いされていないようだ。
そもそも彼女に関しては女子扱いと言うか、人間扱いされないことが多い。幼馴染の俺から見れば楽しい奴でも、おそらく一般的に見ると頭のネジが抜けすぎているのだろう。
再び手をひらひらと振って、葵の言葉を軽くあしらう。
「まぁ、紅葉が女だったら良かったのにってとこかな」
すると、教室の隅の女子グループからさっきよりも三倍ほど大きい歓声が上がった。中には頭を抑えて悲鳴に近い奇声をあげている女子も居るほどだ。
……しまった。需要があるのはこっちだったか。
よく知らないが、この世界には男性同士の関係を喜ぶタイプの女性が居るらしい。本人がそれで楽しいなら別に悪いとは思わないが。
と、どうでもいいことを考えている時だった。
教室の入口のドアをガララと擦れる音を立てて開いた。
「はーい、出席取るよー。皆、席についてねー」
勢いよく教室に入ってきた二十代の男は、大声でクラス全員に席に着くよう促した。教員の登場を見て、すぐに生徒たちは席に着く。
「あれ、どうしたんだろう?」
俺の脳内に浮かべた言葉と同じセリフが斜め後方から聞こえた。
この声は紅葉だ。
入ってきたのは丹生敦史――つまり、昨年度の俺たちの物理担当の教員だ。物理科の教員は一年から二年の間で必ず変わることになっていたはずだが。
すぐに丹生は淡々と生徒の名前を読み上げ始める。
「次、鹿崎悠斗」
「はい」
ざわめく教室を注意することもなく、丹生は出席簿にチェックを入れつづけた。そしてクラス全員の出欠を取り終わると、丹生が出席簿を閉じてパタンと言う音を響かせた。教室の皆の話声がやむ。
「えー。今年度担当の柳本先生が体調不良のため、本日は代行で来ました」
教員の体調不良などにより来られない場合、代行の教員が来ることになっている。多くの場合は代行の教員がクラスの授業の進度を把握していないことから、その場で自習になる。
だが、今は四月。まだ新学年が始まったばかりだ。物理科の丹生ならば二学年の内容を教えることも容易だろう。果たして、ここで解散となるか。それとも授業をするのか。
クラス全員が息を飲む姿を、丹生は見回し――真剣な顔つきを崩した。
「みんな自習できる。よね?」
「「「はいっ!!」」」
全員が声をそろえて叫んだ。
そして遅れて、クラスから喜びの声があがる。
六時間目の自習は非常にありがたい。俺は力を抜くように椅子にもたれた。
「……!」
だが、教室を出ようとした丹生と目があった。
目を逸らしたのは丹生だ。一応会釈をしておく。
丹生はグラウンドホッケー部の顧問でもある。先月俺の退部届を受け取ったのもこの男だった。教え方も上手いし親切な教員だ。俺の退部のことにも責任を感じているのかも知れない。
六時間目の授業が消えたことで、帰宅部の俺は学校に残る必要もなくなった。通学用のスクールバッグのチャックを閉めて肩に背負う。
「じゃ、先帰るわ」
「え、あぁ。うん……また明日」
「……? じゃな」
紅葉が歯切れの悪い返事で手を振った。何か心配事があったのかも知れないが、俺がわざわざ聞く必要もないだろう。紅葉は必要があれば俺に言ってくるはずだ。
俺はすぐに教室を出た。
扉を閉めた音で放課後にたけのこを食べる約束をしていたことを思い出した。朝の通学中に寄ったコンビニにはたけのこが置いてなかったのだ。
「…………」
節電のためか電灯がまばらについた廊下は暗かった。
その暗さがなんだか心地よくて、振り返ることなく俺は教室から離れて行った。
数分後。
俺は西グラウンドに来ていた。
西グラウンドに来てから気付いたのは、もう自分はグラウンドホッケー部ではないのだから、ここに来る必要はないと言うことだ。
「チッ……」
小さく舌打ちを一回。間違えてグラウンドに来たことと言うより、もっと漠然とした最近の日常全てに対する苛立ち。
ホッケー部の練習場所である西グラウンドに来るは久しぶりだったが、全く変わっていなかった。まぁ、一ヶ月ほど前まで来ていたのだから当たり前か。体育の授業で使っているクラスがない上、西グラウンドは他の校舎から離れているため、周りには誰も居ない。
「昼間に出ている月は、なんでこんなに綺麗なのかしら」
不意に後ろから声がした。
和琴のような品のある余韻を残す声。
振り返ると、そこには私服を着た女性が立っていた。
もう一度辺りを見回すが俺と彼女以外には人影はない。今のは俺に向けて発した言葉だったのだろうか。
「もちろん。深夜に見上げる月もいいわ。でも、この時間帯に浮かぶ月はなぜか違うような気がしない?」
「はぁ……」
今度は俺の目を見て喋ってきたので、仕方なく適当な言葉を返す。
その女性は不思議な目をしていた。世界の全てを知っているような綺麗な瞳に、純粋な子供の好奇心のような光が見えた。
――この人はいったい誰なんだろう。
「君はどんな月が好き? どんな月が見たい?」
彼女の瞳に吸い込まれるような、不思議な感覚に襲われる。
俺は気づけば本気で考えた答えを口にしていた。
年上に見える彼女には敬語を使った。
「……でも、この世界には月は一つしかないですよね。昼の月も、夜の月も、三日月も、満月も、結局は全く同じ月……です」
彼女は視線を外さない。
だが、少し口元がほころんだように見えた。
「人も同じよね。でも君にとっての大切な人にも、好きな面とそうじゃない面があるでしょう? 笑顔が好きだから見たい。泣き顔は見たくない。そんな風に」
思い浮かんだのは二人の幼馴染の顔だ。その女性は続ける。
「自分が一番好きな要素を見つけるの。それに一番近い月を思い浮かべて」
「一番好きな要素……」
それは間違いなく『楽しい』と言う感情だ。ならば、それに一番近い月を思い浮かべればいい。
俺は目を閉じて考える。
彼女は「あなたはどんな月が見たい?」と繰り返した。
――思い浮かべたのは、あの世界の月だった。
「……灰色の月が」
「灰色の、月?」
「…………灰色の月が見たいです。もう一度」
叶うことなら、あの五人で。
三年前のあの日。サービス終了直前に一度だけ行われたあのゲームの大会で、決勝戦を終えた後に五人で見上げた灰色の月を。
俺は目を開いた。景色は変わらない。
そこには寂れたグラウンドを背景に女性が立っているだけだ。
彼女はふっと笑顔を浮かべてみせた。
「……それに近いものなら見せてあげられるかも知れない」
「どう言うことですか?」
彼女は笑って髪をかきあげた。
右手首に絡むようについた細い銀色の腕時計。
「君の名前、聞いてもいいかな」
「え、名前?」
思わず聞き返してしまった。
「そう、名前。名前に意味はないけど、知っていると便利でしょう?」
「あ、えと。鹿崎、悠斗です。」
「鹿崎悠斗ね」
早朝の青空に向けて深呼吸をした時のように、彼女は俺の名前をかみしめながら呟いた。
自分が今までの人生で二番目に使ってきた単語なのに、彼女は全く別の言葉を呟いたように聞こえた。ちなみに一番は楽しい、だ。
「いい名前ね。私の名前は浅見。浅ましく見える朝の霞と書いて、浅見朝霞よ」
「浅見……朝霞さん」
浅見朝霞。不思議な女性だ。
何を考えているのかよく分からないが、葵とは少しタイプが違う。
にっこりと笑った浅見は左手の人差し指を立てた。それをゆっくりとあげて、頭上を通りすぎて、くるりと回し――後ろを指差した。
遠い銀河のような、黒に近い紺色の腕時計が見えた。
彼女は両腕に腕時計をしているようだ。
「それじゃ、行きましょうか」
「行くって……どこに?」
振り返った浅見が背中をこちらに向けた。彼女の顔は見えないが、その声は笑っているように聞こえた
「君の好きな月を見つけに、ね」
5:――/滝原幸也
予感があった。
確信と呼ぶにはまだ早いが、ゆっくりと未来の輪郭が朧に見えてきていた。
もちろん、これは比喩で、本当に何かが見えているわけではない。
だが、昔から俺のこう言う予感は外れたことが無い。
今回の予感は俺にとっても新しく、そしてどこか懐かしい予感だった。
それはもう、すぐそこに来ている。
ほら、今にも扉を開くはずだ。
早く、早く――――俺を楽しませてくれ。
6:池袋駅近辺/鹿崎悠斗
一枚の扉の前に俺は立っていた。
塗装が剥がれかかった木製の板に、銀色のドアノブ。
そのドアノブに歪んで映り込む自分はどんな表情だろうか。
笑っているようにも見えるし、怯えているようにも見える。
だが実際にどうなのかは、円形に引き伸ばされて映り込む世界からは判断出来ない。
そして、自分の後ろに立つ女子、浅見朝霞の表情についてもまた判別することは難しかった。
「その扉の先には、君の見たい月があるかもしれない」
浅見は小さな声で呟いたが、それは暗い廊下に長く反響した。
やはりどこか和楽器のような声だ、と思った。
「でも、それはその扉の先にしかそれがないって意味じゃない。つまり、君は……君自身の意思でその扉を開くかを決めるの」
あの後に、浅見は一切の具体的な説明を省いた状態で、俺をこの建物に連れてきたのだ。
弥生大学附属高校の西グラウンドから徒歩で九段下駅まで出た俺たちは、高田馬場駅で東京メトロ東西線から山手線に乗り換えた。要するに、ここは池袋駅を最寄りに構えた弥生大学のキャンパスの一室だ。
うちっぱなしのコンクリートの壁。雷のように細く走ったひび割れ。そして、この十二号館の四階の廊下には自分と浅見以外の人影は全くない。
キャンパス内に多く見えた大学生の姿が、なぜかこの建物に近付くに連れて少なくなっていくことに俺は気付いていた。
この部屋に来るまでの動きから察するに、浅見は弥生大学の生徒なのだろう。
では、この部屋はいったいなんだろうか。
考えられる可能性は――いや、ここで扉の向こうを考えることに意味はない。
俺が問われているのだ。
この扉を開ける覚悟があるかどうかを。
「…………」
立ったままの姿勢でゆっくりと、二回深呼吸をした。
俺は『㎡onochrome』を始めた時のことを思い出していた。
あの時、俺はただ目に付いたゲームを始めただけだ。
なら、今回も同じことだろう。
振り返らないままで浅見に告げた。
「さっきの話ですけど」
「……うん?」
「月の話です。自分が嫌な月ならはっきりと分かります」
「へぇ。どんな月?」
俺は睨みつけた。
目の前の扉ではなく、今自分の立つ足元を。
「新月です。どんな世界でも、消えてしまうものは嫌です」
「……そう。でも、見えなくても月はそこにあるわ」
「見えなければダメなんです」
いつでも思い出せるとしても、それは永遠に在ることにはならない。
だから、俺は今ここで見るのだ。
楽しいと言う感情にもう一度近づくための何かを。
扉を開くだけの覚悟は――出来た。
「開きます」
銀色のドアノブは握ると思ったよりも冷たかったが、気にせず捻った。
扉自体は案外軽くてすんなりと開いた。
キキィと言う木の擦れる音を響かせて。
開いた扉の向こう側には、
「は?」
半裸の女性が居た。
「ん…………?」
肩にかかった栗色の髪の毛。
すらりと伸びた健康的な脚線。
肌を隠す面積の小さい布地。
そして、猫のような切れ長の瞳。
その顔に浮かんだ戸惑いの色が、ゆっくりと驚愕に変わっていく。
そして同時に、彼女の口が開いていき――
――あ、ヤバい。
直感で理解した。
「きゃぁああああああああああああああああああああああ!?!?!?」
悲鳴が響きわたる。
俺の後ろでは、浅見が笑っていた。




